今回のテーマは五稜郭と土方歳三。まず五稜郭といえばその特異な形状が有名であるが、あれはヨーロッパ型の城郭の技術を取り入れたから。背景には砲撃戦が主流となっている時代変化があり、低くて奥行きの広い防塁は大砲の射撃に対応するため。また星形の形状は接近する敵に十字砲火を浴びせるためである。
新撰組副隊長だった土方は幕府の大政奉還に伴って江戸を離れて各地を転々とした後、榎本武揚と意気投合して蝦夷地共和国を建国するべく函館へ移る。そこで彼らは日本発の選挙まで実施している。
土方達を襲った最大の悲運
当時の幕府軍の最大戦力は当時の最先端戦艦であった開陽丸だった。しかし不運なことにこの戦艦を江差沖で悪天候による座礁によって失ってしまう。沈没する開陽丸を目にした土方が失意の怒りで殴りつけたために幹が曲がってしまったといわれている嘆きの松が江差に残っているという。開陽丸の喪失は幕府海軍の壊滅を意味し、戦略の根本的見直しを迫られることになる。
一発逆転の奇襲作戦実行
この危機に対して土方は奇襲作戦によって体制逆転を狙う。土方の立てた作戦は新政府軍の主力艦である甲鉄を三艦で取り囲み、乗り込んで乗っ取ってしまおうというもの。作戦場所は甲鉄が寄航することが予測された宮古湾に設定された。
しかしここでまた幕府軍を不運が襲う。悪天候により参加予定の艦に故障が相次ぎ、結局は回天一隻のみで作戦を実行することになった。しかし回天は外輪船であるために甲鉄に横付けすることが出来ず、しかも外洋船の回天と河川運行を想定していた甲鉄では舷側の高さがかなり異なり、回天から兵員がスムーズに乗り移ることが出来ず、新政府軍の反撃で死傷者が50名、回天の艦長まで死亡するという手痛い敗戦を喫する。
なおこの時の新政府軍の兵卒の中に若き東郷平八郎もいたとのこと。彼はこの時の幕府軍の大胆な作戦にいたく感心したそうな。ただそれが後の日本海海戦につながったかは定かではない。
函館戦争の終結、蝦夷共和国の夢は土方と共に散る
結局不運続きだった幕府軍は新政府軍の蝦夷地上陸を許してしまう。土方は江差方面からの敵を食い止めるために劣勢での戦いに挑み、それでも新政府軍を押し返すことに成功するが、その時に函館の方では予想外の事態が発生していた。
函館奉行所の上にある櫓が海上の甲鉄から視認できたために、これが標的となって艦砲射撃の嵐を受けることになって五稜郭が大きな被害を出したのである。これには五稜郭が建設開始されてからの十数年の間の大砲の技術の進歩も影響しているという。船上から大口径砲を運用できるような技術開発が進んでおり、もう既に五稜郭の設計ではそれに対応できなくなっていたのだとか。つまり最新鋭の要塞は最新鋭の大砲技術によって破れることになる。
土方は政府軍との戦いの中で銃弾を浴びて死亡。幕府軍もその一ヶ月半後に降伏する。こうして蝦夷地共和国の構想は土方の命と共に散ったのである。
以上、五稜郭の戦いについてですが、正直なところ甲鉄乗っ取り作戦以外は私には目新しい話はありませんでした。五稜郭の形の意味なんかはある意味では一般常識レベルだろうと思います。
それにしても幕府軍はとことん運に見放されていたというところがあります。往々にして戦に負ける側というのはそんなものです。明らかに世の中の流れが新政府軍側に向かっていたというような気もします。ただ開陽丸の座礁については乗組員の技倆不足もあったのではないかと思われます。
忙しい方のための今回の要点
・蝦夷地で最大戦力の開陽丸を悪天候で失った幕府軍は、起死回生の策として新政府軍の主力艦の甲鉄を乗っ取る奇襲攻撃を実行する。
・しかし悪天候に阻まれ、計画通りに作戦を実行できず、作戦は失敗する。
・最先端技術を導入したはずの五稜郭であったが、その後の大砲技術の進歩には既に対応できなくなっていた。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・五稜郭タワーにはイケメン土方歳三の格好良い銅像が立っており、今でも多くのファンが訪れては記念撮影を行っています。
・蝦夷地での悲劇といえば、実は土方達に攻められた松前藩の悲劇もあります。松前城が落城して藩主達は船で逃げ出しますが、その船が嵐で漂流して藩主の娘が死亡するという散々の目に遭っています。元々この辺りは海がかなり荒れるので、船での移動が容易ではないという事実があります。
・なお土方の最後の模様は詳細には分かっていません。私は乱戦の中で味方に撃たれた可能性もあるのではと考えておりますが。