教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

5/6 にっぽん!歴史鑑定「家康の大都市計画~江戸の町づくり」

 今回は家康の江戸の都市計画について。今年の正月に「家康江戸を建てる」という番組がありましたが、どうやら元ネタはそれと同じようです。

 北条氏を倒して天下統一が近づいた秀吉から、家康は関東への移封を命じられます。秀吉にすれば家康が勢力を張る駿河から切り離し、未開の関東に送り込むことでその勢力を削ごうという考え。しかし家康はこの秀吉の無茶ぶりとも思える命令を承諾し、江戸に町の建設を始める。

まずは運河と治水

 家康が最初に行ったことは運河の開削。江戸城の前に半島状に突き出した江戸前島に道三堀という運河を作った。これは物資の輸送、特に戦略物資でもあった塩の輸送を睨んだものだという。この作業は家臣達によって行われたが、当時は関西での工事(当然秀吉の命によるもの)に人が狩り出されていた大変だったらしい。

 そして物資の輸送路を確保できたところで治水に乗り出す。当時の江戸は湿地であり、多数の川からの洪水が頻繁に起こっていた。そこで治水の技術を持つ伊奈忠次を抜擢してこの任に当てる。伊奈は中条堤と控堤を組み合わせたシステムで、利根川の洪水をコントロールすることに成功する。

天下普請で拡大する江戸の町

 家康が征夷大将軍となり、他の大名を工事に動員できるようになると江戸の開発は天下普請として一気に加速するようになる。まず江戸城前の日比谷入江を神田山を崩した土砂で埋め立てる。この際、入江に溝を掘って干潮の時に水が流れやすいようにして排水したらしい。こうして大名屋敷が建築できる土地を確保する。

 さらに町民の町を作るが、問題は肝心の町民が集まってこなかったこと。そこで家康はまずは駿府の知り合いを移住させて数々の特権を与える。そうやって町が整備されていくと、商売チャンスを求める者達が自然に集まってくるようになる。

インフラ整備と江戸城建設

 さらには人が集まると飲み水の確保が必要。これも大久保藤五郎に命じて2カ所の水源を見つけさせる。なお江戸の町がさらに拡大すると再び水が不足したので、この時にはさらに離れた井の頭池から神田上水で町に水を引いている。水道を整備したのである。

 これだけ町を整えてから、ようやく家康は江戸城の建設に取りかかる。城の建設に必要な石材は伊豆半島から切り出し、これを西国大名に命じて建造させた運搬船で江戸に運んだという。なお最近になって家康が建造した当時の江戸城の構造が明らかとなったらしいが、そこに現れた城は巨大な連立天守を持ち、五重の外枡形やさらに馬出も装備した当時最強の大軍事要塞だったという。未だ豊臣家が健在の時代であり、家康は戦闘の可能性も考えていたらしい。なおこの時の天守は大阪城も凌ぐ規模で、姫路城の天守が小天守になるぐらいの規模というのだから想像を超えている。

 以上、家康の都市計画について。なお家康が建造した天守は火災で焼失して残存していませんが、現在残っている天守台のとてつもない規模を見ただけで、その巨大さは想像を絶していることは分かります。また東京に行って皇居の回りを散策したら、とにかく江戸城の石垣の規模のすごさには圧倒されます。重機もないあの時代にこれだけの規模のものを作ると言えばそれだけで相当大変だったはずです。ある意味、エジプトのピラミッド建設にも匹敵するのではという気がします。

 なお現在の東京の発展の礎は家康によって築かれたのは間違いないところでしょう。あれだけの大土木工事を実施していなかったら、今の東京はまだ未開の湿地です。もっとも現在の歪で異形な都市である東京を見たら、もしかしたらその方が日本には良かったのではという気もしたりしますが・・・。

 

忙しい方のための今回の要点

・関東に移封された家康は、まずは物資輸送のための運河を築き、さらに河川の治水を行うことで江戸の町の土台を作った。
・家康が権力を掌握した後は、天下普請で江戸の建設は加速され、日比谷入江の埋め立てや上水の整備などが行われ、都市としての体裁が整えられる。
・最後に江戸城の建設が行われたが、伊豆半島から巨石を運搬する大工事だった。また建造された江戸城は実戦も睨んだ難攻不落の城であった。

忙しくない方のためのどうでもよい点

・江戸っ子にとっては神田上水の水を使っていたというのは自慢だったようです。ちなみに水道建設というのはローマでも行われており、各地に水道橋なんかが残っていますね。そう言えば東京の水道橋という地名もこの関連なんでしょうね。多分。
・家康は西国大名に船の建造を命じたとのことですが、これ以降も幕府は西国大名をとことん敵視しており、島津家なんか何度も難工事に狩り出されてそこで命を落とした家臣なんかもゾロゾロいます。結局はそういうことなんかに対する意趣返しを明治維新でされることになるんですが。
・東北の復興なんかも家康に差配させていたらもう完成しているような気がしますね。それを安藤忠雄なんていう実用建築を全く作れない奴なんかにさせるもんだから・・・。