教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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番組リスト

7/1 BS11 歴史科学捜査班「解剖!真田丸 徳川軍撃破の秘密は地形にあり」

 大坂冬の陣で真田信繁が大活躍したと言われている真田丸。今回はその全貌に迫るとのこと。

大阪城の弱点を守備する真田丸の存在

 まず真田信繁がここに出丸を築いた理由であるが、それは大阪城は南側が一番弱点だったことにある。大阪城は北と東と西は川や堀によって厳重に守られているが、南側は上町台地が続いているために空堀があるだけで、ここを突破されると一気に本丸にまで迫られる可能性があったのだという。

 では真田丸はどこにどのような規模で築かれていたかだが、これを番組ではこういう企画になると必ず登場する千田氏と共に大阪市内をレポートしている。

実はかなり大規模だった真田丸

 真田丸は従来は大阪城南部に築かれた馬出のようなものだと考えられていた。しかし最新の研究によるとそれよりも遥かに規模が大きい独立した出丸であったという。千田氏が合戦後に測量されたという絵図を持参して現地を歩いているが、今でも現地には当時の地形の断片が残っている。それによる真田丸の規模は東西300メートルほどあり、大阪城の南の空堀の東側に位置しており、もし徳川方がそこを攻めようとすれば、それに対して横撃をかけられる位置にあった。また真田丸自体は深さ7メートル幅40メートルほどの堀に囲まれており、内部は二重構造になっており、周囲は土塁で囲んだ上に二階建ての櫓を築いて防御していたという。徳川方が攻め寄せようとすると、この二階建ての櫓から銃弾の雨を浴びせられるという仕掛けになっている。実際に真田信繁は徳川方を挑発してここに引き込み、これに痛撃を浴びせている。大坂冬の陣ではほとんど戦線はにらみ合いに終始しているので、ここでの戦いが最も大きな犠牲の出た戦いとなっている。

 真田信繁はこの真田丸を5日で築いたとされているが、実際にはそんなことは不可能であり、実はこの場所は以前に後藤又兵衛が出丸を築こうとしていて、そこに後で信繁がやってきて真田丸を築いたとのこと。つまりは大阪城の南側が弱いと言うことは豊臣方の共通認識だったと言うことだろう。なお戦経験が豊富とは言い難い信繁がこんな築城が出来た理由については、昌幸の重臣が信繁に付き従っていたとか、信繁自体が昌幸から築城術について教わっていたなどが考えられるとのこと。

最新の地形分析の結果で分かったこと

 また詳細な地形の調査の結果、真田丸の背後にはハッキリとしたかなり明確な谷があったことが分かったとのこと。つまり真田丸の背後の谷で大阪城の総構えとは完全に分離されており、真田丸が独立した城郭であった証拠でもあるという。

 

 以上、今回は映像による地形等の紹介が中心であったので、文章で要約してしまうとこんなに少なくなってしまった(笑)。

 徳川の天敵と言われた真田家であるが、真田信繁(幸村という名は、後世に江戸時代の軍記物で適当につけられたものだとのこと)も徳川家康に対して十分に天敵ぶりを思い知らせたということになります。ちなみに昌幸が徳川軍に打撃を与えた戦法は二回とも同じで、敵を挑発して城内に引き込んでから集中砲火で打撃を与えるというものです。上田城の戦いには信繁も参加してましたから、昌幸のこの戦法を実地で学んだのでしょう。そしてそのまま真田丸で実践しております。家康は真田が大阪城に入ったと聞いてビビったが、それが息子の方だと聞いて安心したとの話が伝わってますが、結果としては「真田やはり侮り難し」と痛感したことでしょう。

 ちなみに息子の秀忠は真田にコテンコテンにやられたせいで関ヶ原に遅参するという大失態をしでかしており、それを根に持ってずっと真田信之をネチネチといじめたそうですが(実に陰険で器量の小さい男である)、真田家はそれに耐えて幕末まで生き残ってます。今でも松代に行けば真田の記念館がありますので、真田ファンは是非とも見学しておくべきでしょう。なお真田の末裔は地球がガミラスからの脅威にさらされた時にヤマトの技師長してイスカンダルまで飛んでます(笑)。

 


忙しい方のための今回の要点

・真田信繁が築いた真田丸は、従来説の馬出というレベルではなく、完全に独立した出城であった。
・真田丸は深さ7メートル幅40メートルの堀で守られており、ここに入った敵は土塁上の櫓から狙い撃ちされる構造になっており、結局は徳川軍も突破は出来なかった。
・地形分析の結果から、真田丸の背後は深い谷によって大阪城と離れていたことも分かった。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・真田信繁に家康が「信濃一国を与える」と言って寝返りを誘ったという話がありますが、信繁がこれに乗っていたら真田の勇名は後世に残ってないでしょう。信繁は命を捨てて名を残したとも言えますね。
・もっとも信繁がこの話に乗ったとしても、恐らく後の秀忠の時代に何らかの因縁をつけられて取りつぶされるのがオチでしょうが。
・番組中で歴史学者の方が「大河ドラマの時に真田丸の研究がかなり進んだ」というようなことを言ってましたが、大河ドラマってそういう影響があるんですね。ということは、来年は明智光秀に対する研究が進むのか?