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7/1 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「古代史ミステリー 遣隋使と遣唐使」

 進んだ中国の文化を習得するために日本から隋や唐に送った国の使節が遣隋使及び遣唐使。これは300年の間続き、遣隋使が4回、遣唐使が15回に及んでいるという。

なかったことにされた第一回遣隋使

 遣隋使の最初の使者は小野妹子と一般に思われているが、実はその前にもう一回使節が送られていたのだという。しかしそれはなぜか日本の記録は残っていない。記録は隋書にあるだけとのことだが、要はその時の使節は通訳の拙さなんかもあって、隋の皇帝に意図を伝えることが上手くいかず、野蛮人と馬鹿にされて門前払いを食らうという大失敗だったらしい。

 で、この大失敗を受けて聖徳太子は隋に馬鹿にされないような国家作りを目指す。冠位十二階を定めて十七条憲法も制定し、外交使節の迎賓館も設置、万全の体制を整えた上で小野妹子を使節として送り込むわけである。

ハッタリが功を奏して隋と国交樹立

 この時の隋の皇帝は代わって煬帝。しかし煬帝は例の「日出ずる処の天子」の国書を見て、東の野蛮国が隋と台頭の立場とは何事ぞと激怒するわけだが、この時は隋は朝鮮の高句麗と戦を構えている最中で、ここで日本ともめることは得策ではないと思い返して国交を樹立することにする。まんまと対等の関係を結ぶことに成功したわけであり、これは時勢を読んだ聖徳太子の戦略勝ちであろう。

 小野妹子は隋からの返書を携えて帰国するのであるが、なんとこの返書を彼は途中でなくしてしまう。妹子は「百済で盗られた」と言ったらしいが、どうやら真相は隋から日本の失礼な態度を咎める内容が書いてあったので、これをこのまま朝廷に持っていくのはまずいと妹子が隠してしまったのではとのこと。これは妹子の責任を問う声もあったのだが、推古天皇の「隋からの使者も来ているところでそういうドタバタを起こすとまずい」という裁定で不問に付される。それどころか妹子は大出世して、翌年の遣隋使で再び隋に渡ることになる。

 なお帰国した妹子は出家して、聖徳太子にゆかりのある六角堂に入ったとか。ここには聖徳太子にゆかりのある池があり、ここに御坊があったことから池坊と呼ばれ、これは生け花の池坊のこと。そもそも仏に花を供える習慣は妹子が中国から持ち帰ったものとのことで、小野妹子は華道の祖でもあるのだとか。

 4回目の遣隋使の時は隋は大混乱の時で、それから間もなく隋は滅んで唐に代わることになる。改めて遣唐使が送られたのは政情が安定した30年後になる。

遣唐使の派遣

 遣唐使で送られるのは国からの使節がメインだが、これ以外にも留学生などもいたという。彼らは中国に滞在して次の遣唐使で帰る長期留学生と、行った遣唐使でそのまま帰る短期留学生の2種に分かれていたという。また使節と同行する要員には通訳や医師、さらには陰陽師、また船を修理するための船大工や風が凪いだ場合の漕ぎ手などもいたとか。

 また遣唐使と言えば非常に遭難が多いことでも知られていたが、実際に中国に行って帰ってきたのは6割程度とのことで、半分は帰ってこれないことになる。こんなに遭難が多いのは船の性能の問題もあるが、一番は朝鮮半島情勢が悪化して半島沿いの北回り航路が取れなくなり、東シナ海を突っ切る南回り航路を取らざるを得なくなったからだという。こちらの航路は外洋で荒れやすいのでいきおい海難事故が増えると言うことらしい。実際に南回り航路を取るようになってから、それまでの2隻250人の船団を4隻600人に増やしたとか。最悪でもどれかはたどり着くだろうということらしい。

 多くの人が中国に渡ったが、その中には日本に帰って大出世した吉備真備のような人物や、日本に結局は帰ることがかなわなかった阿倍仲麻呂のような人々がいる。また逆に鑑真のように日本に渡ってきた人もいたりなど、それぞれのドラマを抱えている。

遣唐使を廃止したのは有名なあの人

 しかしこの遣唐使も廃止される時が来る。それを主張したのは菅原道真だとのこと。当時はかなり唐の国力が落ちてきて、国内の治安も悪化したことから、唐の中を安全に移動することが困難であるし、もう得るべきものはあまりないと訴えたらしい。またこの頃になると日本と中国の間は商船が行き来するようになっていて、あえて国使を送るべき理由も薄くなっていたのだという。こうして遣唐使300年の歴史の幕が下ろされる。


 遣隋使と遣唐使の歴史をザクッと紹介というところですが、途中で奈良の平城宮跡に展示されている復元遣唐使船の案内もありました。ところでほとんどの者は看板で雑魚寝と言ってましたが、それにしてもあのサイズの船の看板で100人以上が雑魚寝するスペースってあるんでしょうか? 私にはそれが一番の疑問でした。それと紹介されてませんでしたが、一応看板の下には船倉はあるんでしょうかね? 水や食料その他の積み荷もあると思うので。にしても、あんなひ弱い船で玄海の荒海を行くのは御免蒙りたいですね。そう言えば小野篁も遣唐使に指名されたが、乗る予定の船がボロかったのでブッチしたってエピソードがありますね(良い方の船が高官に回されたのでぶち切れたとか)。

 


忙しい方のための今回の要点

・遣隋使は小野妹子の前に実は一回送られているのであるが、それは失敗したので日本の歴史には残っていない。
・聖徳太子はその失敗から反省し、国内の体制を整えてから改めて遣隋使を派遣、隋との国交樹立に成功する。
・隋の滅亡後は唐の政情が安定するのを待ってから遣唐使が派遣される。遣唐使には国使だけでなく留学生なども含まれていた。
・遣唐使は当初は朝鮮半島沿岸を進む北回り航路を取っていたが、半島情勢の悪化で東シナ海を横断する南回り航路を取らざるを得なくなったため、難破が増加することになる。
・遣唐使の廃止を主張したのは菅原道真で、唐の国力低下による治安の悪化などがその背景にある。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・遣唐使船と言えば、私が初めて目にしたのはポートピアでのIBM館ででした。あの遣唐使船も後でどこかに展示されていたはずですが、今はどうなったんだろう?
・あの船、どう見ても明らかにトップヘビー(竹で作った網代帆が重すぎる)で、いかにも揺れそうだし転覆しそうなんですよね。たとえ難破しなくても猛烈な船酔いにはなりそう。やっぱり絶対乗りたくないな、あんな船。