教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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7/22 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「徳川家光と弟・保科正之の絆」

家光の異母弟の保科正之

 保科正之は秀忠の子であり、三代将軍家光の異母弟になる。しかし彼は浪人の家で生まれてその後も将軍の子であることを伏せて育てられた。彼の母は静という奥女中であり秀忠に見初められて子が出来たのだが、秀忠の正室である江は非常に嫉妬深いために子が出来たとなれば何をされるか分からないということで、その子は堕胎したようである。しかし再び江戸城に仕えるようになってからまた子が出来たため、将軍の子を二人も殺すわけにはというわけで密かに出産したのだという。

 その子は密かに高遠藩の保科家に養子に出されてそこで生育される。しかし回りの態度などから彼は自分が秀忠の子であることを知ったという。養父が亡くなった後は保科家の家督を継いで保科正之と名乗ることになる。

 

 

家光に重用される

 一方、幕府では家光が将軍位をついで三代将軍となっていた。生まれながらの将軍である家光は、大名達を家臣として扱い、不満を持つ大名家は改易する武断政治を実行していく。

 そんな家光がある寺に行った時に、そこの住職から保科正之が家光の弟であることを知らされる。家光は一度も見たことのない弟の存在に興味を持ち、正之が江戸城に出仕してきた時に密かに観察する。すると将軍の弟であるにもかかわらず、そんなことは全く匂わせずに末席に座る正之を見て好感を抱く。そしてその後、保科正之を自身の腹心として重用するようになる

 家光が正之を重用するようになったのは、もう一人の弟である忠長の存在があるという。江や秀忠は病弱で吃音だった家光よりも利発な忠長を偏愛しており、回りも忠長が次期将軍になると見ていた(江に至っては家光を殺害しようとしたという噂まである)。家光の乳母である春日局が家康に直訴して家康の裁断で三代将軍は家光に決まるのであるが、家光が将軍に就任後もそのことに不満を持つ忠長は「100万石を賜るか、自分を大坂城の城主にして欲しい」と要求するなど、家光も持て余していた。謙虚な正之の存在は家光にとっては忠長に対する牽制の面もあったという。なお忠長はその後にさらに不満を募らせたのか乱暴狼藉や奇行などが目立つようになり、ついには自刃させられている。

 

 

領民のために心を砕く政治

 保科正之は高遠藩5万石から山形藩20万石に移封となって家光の側近としてますます重用される。島原の乱が発生した時には、大方の予想に反して討伐軍を率いるのは保科正之ではなくて松平信綱で、保科正之は領国に帰るように指示される。これは実は西で乱が起こっている間に東で問題が発生にしないように正之に監視させる目的で、家光が正之を信頼しているしている証拠でもあるという。実際に島原の乱の直後に東でも山形藩の隣の幕府直轄領である白岩郷で一揆が発生し、正之はこれを鎮圧して首謀者達を処刑という果断な処置を下している。幕府直轄領での一揆は対応を誤ると家光の権威に響くためのあえての処置だった。

 しかしこの処置は正之にとっても非常に後味の悪いものであった。その後、会津藩23万石に移封された後は、一揆を起こさないようにするため領民達の福祉に心を砕いている。当時の会津藩は先の領主の悪政のせいで領民は困窮して逃亡する者も出ていたという。そこで正之は藩の金で米を買って蓄え、これを農民に低利で貸し与えるようにした。このことによってその後の会津藩では飢饉による餓死者がなくなったという。また間引きを禁止し、行き倒れた者は医者に連れて行くように定め、その者が金を持っていない場合には藩が医療費を払ったという。また90歳以上の者に米を支給するといった今日の老齢年金のような制度まで設けたという。

 

 

家光の死後、家綱の後見を託される

 徳川家光が病に倒れた時、自らの死期を悟った家光は、まだ幼少の家綱の後見を保科正之に託す。正之は領国に帰らずにひたすら将軍への忠誠を尽くすことになる。この時に正之がとった政策は、大名の妻子を江戸に人質としておく大名証人制度の廃止や殉死の禁止、さらには大名の末期養子禁止を緩和するなど、大名家が存続しやすくなるような政策をとっている。これは家光の武断政治によって取りつぶされた大名家の浪人たちが新たな社会不安要因になっていることから、浪人をこれ以上増やさないように配慮したのだという。武断政治から文治政治に切り替えて社会のソフトランディングを図ったようである。

 またこの頃の大事件としては明暦の大火がある。江戸の6割が焼失し、10万人が亡くなったという大災害で、江戸城も天守や本丸、二の丸、三の丸まで焼け落ちたという。この災害の際、正之はまず町民達のためにお粥の炊き出しを行い。さらには江戸城の金倉を開いてその資金で江戸の町の再建を行っている。なお江戸城の再建に当たっては、泰平の時代に天守は不要と天守の再建は行わなかったという。正之のおかげで江戸の町は大災害から復興している。

 かくして保科正之は最後まで民衆のため、そして徳川幕府のために尽くしたという。なお隠居した後は、政策に関する書類などをまとめて焼却処分しているとのこと。これは今までの政策が自分が行ったことという証拠を消して、すべて将軍家綱の意志で行ったこととするためだとか。最後まで幕府に忠誠を尽くした人物であった。


 逆境は人間を育てるというが、将軍の息子でありながら外で育てられたということが彼の人物形成には大きく影響しているのだろう。これと逆の環境で育ったために最終的には悲劇的な生涯となったもう一人の弟である忠長と対称的である。正之は最後まであくまで家臣としての分を守っており、やや人間不信の傾向がある家光が全幅の信頼を置いたのも納得できる。典型的な理想的な補佐役といったところで、豊臣家における豊臣秀長のようなものである。違いは秀長は秀吉よりも先に亡くなったこと。もし秀長が秀吉の死後まで生き残っていたら、豊臣家の滅亡はなかったろう。また保科正之が家光と同じ頃に亡くなっていたら、江戸幕府も家綱の時代でどうなったか分からない。

 

 


忙しい方のための今回の要点

・保科正之は秀忠の息子であったが、正室の江が嫉妬深かったために江戸城の外で産まれて密かに育てられた。
・家光は正之の分をわきまえた実直な性格が気に入り、腹心として重用する。
・島原の乱の時、正之は東国で起こった一揆に対して果断な処置で鎮圧する。しかしこの経験から、会津の領主となった時には一揆が起きないように領民の福祉に気を配る。
・家光は自分の死後、幼少の家綱の補佐を正之に託す。
・正之は家光の武断政治の歪みを修正して文治政治にシフトさせると共に、明暦の大火の対応では庶民の生活再建に配慮した政策をとる。
・正之は引退時に政策に関する書類等を処分しており、それは自分が取った政策があくまで家綱の意志によるものであると示すためであった。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・弟でありながら名補佐役であった人物といえば、上で挙げた豊臣秀長以外では武田信繁とかですかね。武田家も川中島で彼を失ったのは大きかった。後は長宗我部家の香宗我部親泰、毛利家の小早川隆景なんかも挙げてもいいかもしれません。島津義弘は補佐っていうよりも自分が前に出すぎですし(笑)。

・明暦の大火の時に庶民の生活再建に配慮したのは見事です。番組中でこんな政治家が大勢いたらと言ってましたが全く同感。今の政治家は、東北で大震災が起こっても、自分達の利権に直結するオリンピックの方を優先するような輩ばかりなので。

 

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