教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

7/24 NHK 歴史秘話ヒストリア「最後の大名 時代を駆ける」

 今回の主人公は、昭和の時代まで一番最後まで生き残った大名・林忠崇。彼は最後まで生き残ったと言うだけでなく、非常に数奇な運命をたどった人物である。

大名が脱藩?!

 林忠崇は上総国請西藩1万石の大名であった。林家は木更津の港を押さえる譜代大名だった。忠崇が当主となったのは1967年6月で20歳の時。忠崇は文武両道に秀で、また藩士と共に砲術を学ぶなど親しみやすい性格であったために藩士や領民からも慕われ、将来は幕府の老中にもなれる器だと噂されていた。

 しかし時代がそれを許さなかった。徳川慶喜が大政奉還をしたのはその4ヶ月後、慶喜はその後謹慎するが、それでも新政府は慶喜の命を狙っていた。周辺の諸藩が新政府に降伏する中で請西藩もその去就の決定が迫られる。しかし林家はかつて徳川家の先祖である世良田親氏が戦で落ち延びてきた時に兎汁を振る舞い、その後世良田親氏が松平親氏として三河国で勢力を伸ばした時にその恩で家臣に取り立てられたという経緯があり、徳川家の最初の家臣との自負があった。そのため忠崇はどうしても幕府を裏切ることは出来なかった。しかしここで戦うと領民達を戦に巻き込んでしまう。悩んだ忠崇がとったのが、なんと大名でありながら脱藩して一兵士として幕府のために戦うという行動。

 忠崇の熱意に打たれた多くの藩士が彼と行動を共にすることを決意する。そこに旧幕府軍遊撃隊の人見勝太郎と伊庭八郎が訪ねてきて協力を要請してくる。そこで忠崇は行動を共にする藩士を引き連れて遊撃隊と100名ほどで出陣する。さらに他の藩にも行動を共にすることを呼びかけた結果、総勢400人ほどの部隊となる。

 

忠崇達の戦い

 忠崇は箱根関を守る小田原藩に向かう。ここを押さえれば江戸の新政府軍の補給を断つことが出来る。しかし小田原藩は忠崇との面会を拒絶、忠崇らが対応を検討していた時、上野で彰義隊が新政府軍と戦いを始めたとの情報が入る。それを聞いた忠崇らは箱根関を攻めて1名のけが人も出さずに小田原藩を全面降伏させる。この戦いは徳川びいきの多い江戸で大評判となり、後に錦絵まで描かれるほどの話題になったという。

 しかし上野の彰義隊がわずか1日で全滅したことで戦況は急変する。小田原藩が再度態度を翻して攻撃を開始し、新政府軍との大軍に包囲されることになり、忠崇らは撤退を余儀なくされる。この戦いでは伊庭八郎が手首を切り落とされながら獅子奮迅の働きをしたという。

 その後、忠崇らは奥羽越列藩同盟に参加することになり、福島の磐城平城に駐屯する。そして新政府軍の上陸作戦を知った忠崇らは仙台藩と共に上陸阻止のために出撃する。しかし戦いの経験がない仙台藩兵士は大砲の音に驚いて総崩れとなって逃亡する始末で、結局彼らは新政府軍の上陸を許してしまう(伊達政宗が見たら大いに嘆くだろうな・・・)。

目的を果たし、切腹を覚悟しての降伏

 磐城平城まで引き上げた忠崇に知らせが届く。徳川家が存続を許されたという知らせである。徳川を守るという自らの戦いが無駄でなかったことを感じる忠崇だが、その後、奥羽越列藩同盟の諸藩が相次いで新政府軍に降伏したところで、今後さらに抗戦するかどうかを悩むことになる。しかし彼はこれ以上の戦いは無駄であると判断して新政府に下ることを決意する。その時に詠んだ歌が「真心のあるかなきかはほふり出す腹の血潮の色にこそ知れ」というものであり、まさに辞世の句。忠崇は切腹になることを覚悟していたのである。

 切腹を覚悟していた忠崇に言い渡れた処罰は謹慎であった。しかし各大名が華族になる中、自ら脱藩した忠崇は庶民に落とされることになる。その後の忠崇は請西に戻って農業をしたり、つてで東京の役人になったり、函館の商人の元で働いたりしたらしいが、役人になった時はかつて敵だった人物が上司になったことで辞めてしまい、商人になった時には2年で会社がつぶれてしまいという状況で、10年ほど消息が不明になる時期があるという。

 

殿様のために立ち上がる家臣達と最後にようやく得た平穏

 しかしそんな忠崇の窮状にかつての家臣達が立ち上がる。忠崇の側近だった廣部精は政府に忠崇を華族にするように働きかける。しかしそこで出された条件は華族の品位を保つため、年間500円以上の資産収入があることというものだった。しかしこれは貧困にあえいでいた忠崇には到底無理な条件。そこで廣部は旧家臣や他の大名の元を回って頭を下げて回る。そして5年後、47歳の時に忠崇は華族となる

 大正になった頃には忠崇は武術の指導者としてようやく平和な日々を送るようになっていたという。そんな忠崇が昭和になって92歳で「最後の大名」して再び世間の脚光を浴びることになる。そして94歳の時に病の床に就く。「大名らしく辞世の句でも作るか」という呼びかけに対し、忠崇は「それは明治元年にやった。今はない。」と答えたという。こうして最後の大名はこの世を去った。


 なんともはや、信念の人という印象です。若さ故の血気にはやった部分もあるでしょう。ただ明治以降になって旧家臣がそこまで必死に動いたというのは、人望があったのでしょう。まあ真っ直ぐな人は人に好かれると言うことでしょうか。ただ明らかに要領の悪さを感じさせる人生でもあります。明治以降の激動の世の中を彼はどのように眺めていたかというところも興味のあるところではあります。

 今回のこの番組は毎度のように再現ドラマ中心でしたが、本人が実際に美丈夫だっただけにイケメンを起用したドラマにしてました。雰囲気は非常に出ていたように感じます。もっとも臨終シーンはあまりに若々しすぎて無理がありありでしたが。ところでこの人、今の幕末イケメンブームを考えると、もう少し腐女子人気なんかが出ても良いような人物のような気がしますね。多分、あの後切腹していたら今頃土方歳三なんかと並んでいたかも。悲劇的な最後というのもドラマを盛り上げるんですよね。その点、この人は畳の上で死んでいるところが少々ドラマとして弱い(笑)。それとあまりに真っ直ぐな好青年よりは、少々ひねくれた陰影がある方がドラマの主人公にはしやすい。

 


忙しい方のための今回の要点

・林忠崇は昭和の時代になって生き残った最後の大名である。
・忠崇は徳川最初の家臣である林家の当主として徳川家に忠誠を尽くすために、大名自ら脱藩して一兵士として幕府のために戦うことを決意、旧幕府軍の遊撃隊と共に転戦する。・しかし旧幕府軍は敗北を重ねる。しかし徳川家が新政府に存続を許された報を聞いて、自らの目的は達成したことを感じ、切腹覚悟で新政府に降伏する。
・忠崇は切腹は逃れたものの、脱藩していたために華族にされず、その生活は困窮を極めることとなった。
・忠崇の窮状を見かねた旧家臣の廣部精らが政府に働きかけ、あちこちに頭を下げ回ってようやく忠崇は47歳で華族になる。

 

忙しくない方のためのどうでもよい点

・ちなみに無事に生き残った徳川慶喜は趣味の写真三昧の生活を送っていたようです。徳川家最後の切り札のように言われていた慶喜ですが、いざ将軍になると江戸幕府をさっさと畳んでしまって、あっさり身を引いちゃうんですよね。実際に回りの者は「?」という感じだったと思います。こういう事実だけ見ると、すごく無責任でスーダラした人に見えちゃうんですよね。
・ただ実は頭の良い人だっただけに、逆に徳川幕府の行く末が見えちゃったんですかね。慶喜があそこであっさりと退いたから、戊辰戦争が比較的短期間で終わったというところもあり、欧米列強がそこに乗じる暇がなかったという側面もありますからね。徳川慶喜という人の評価は難しいところです。
・ある意味、今日の林忠崇なんかも慶喜に振り回された一人と言えるかもしれないんですが。

 

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