教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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番組リスト

8/5 BS11 歴史科学捜査班「茶人・千利休はなぜ秀吉に切腹を命じられたのか?」

 安土桃山時代、茶人として頂点を極めた千利休。しかしその千利休は秀吉に切腹を命じられることになる。その背後に何があったのかというのが今回のテーマ。

政治と密接な関係のあった茶の湯

 まずこの時代における茶の湯文化であるが、そもそも茶の湯を政治の世界に持ち込んだのは信長であるという。信長は室町幕府が資金調達のために売りに出した名品などを積極的に買い集め、手柄を挙げた部下などに褒美として与えていたという。また自らが下した大名などの名品もコレクションに加え、茶会などで披露していたという。信長にとってはこれは自らの権力を誇るパフォーマンスであった。

 信長は本能寺の変の際も大規模な茶会を開催する予定で天下の名品を多数持参していた。これらの名品の大半はこの乱で失われることになる。信長亡き後の天下人となった秀吉は信長が所蔵していた茶器なども蒐集するが、やはり圧倒的に数が足りなかったという。そこで秀吉が行ったことは、千利休に天下一の茶人である称号を与え、千利休を一つのブランドとして新たな名品を作り出すことであった。

佗茶の体系を確立した利休

 この時代までの茶器は輸入物が多く、それは必ずしも茶の湯に合致したものばかりではなかった(中にはご飯茶碗を転用したようなものもあったとか)。そこで利休は日本の茶の湯にあった器を考案する。その一つが黒楽茶碗であり、樂茶碗は天目茶碗などよりも低温で焼成するために土の粒子の密着度が低く、熱伝導性が低いという。だからお湯を入れても熱くなりにくい。そういうわけで茶を点てるのには非常に適した器である。またろくろを使わずに作った歪みのあるフォルムは自然に手に馴染むものでもあった。

 

大名との間の取り次ぎなどの役割も果たす

 利休は独自の佗茶を確立すると共に、政治的な影響力も増していく。当時の利休は秀吉に意見を出来るフィクサーのような位置にいたという。大友宗麟が島津に攻められて秀吉に助けを求めてきた時も、秀長から「表向きのことは自分に、内々のことは利休に相談するのが良い」とアドバイスされたという。さらに島津討伐の九州攻めにも先だって、利休は島津義久に降伏を勧める文書を送っているという。さらに小田原攻めに遅れてきて秀吉の怒りを買っていた伊達政宗に対し、白装束のパフォーマンスを勧めたのも利休ではないかとされている。秀吉の性格を知り尽くしているからこそのアドバイスであったという。

秀吉と利休の思惑のズレと悲劇的な最期

 しかし秀吉の天下平定がなった頃から両者の間に微妙な緊張感が生まれてくる。決定的な事件となったのは大徳寺の三門に設置された利休の木造の件。これは秀吉や天皇までも通る門の上に雪駄を履いた利休の像が設置されたことで、これは秀吉や天皇を利休が踏みつける意味になり不遜であると秀吉が激怒したのだという。

 ただ両者の確執はそれ以前からいろいろとあったという。一つは佗茶の利休に対して黄金の茶室を作った秀吉といった志向や路線の違い、さらにはこの頃の秀吉は朝鮮出兵を睨んで博多の復興に力を入れて、博多商人を重用してそれに接近したために堺の商人である千利休が不満を持ったとも考えられるという。とにかく何が決定的要因であったかはハッキリしないが、微妙に両者の思惑にズレが生じたのであろう。なお秀吉は最後まで利休が頭を下げてくることを待っていた節があるのであるが、プライドの高い利休は頑としてそれを拒絶し、とうとう切腹することになっている。最後は意地と意地のぶつかり合いの様相を呈している。


 利休の切腹の理由については諸々言われているが、実際のところは何が決定的だったかは明らかではないです。ただ私としては原因の一つとして「秀吉の老い」も挙げておきたいです。晩年の秀吉は独裁者となった奢りからか、性格からそれまでの寛容な部分をなくしていった傾向があるのですが、この背景には老化に伴うものも含まれていると考えています。人たらしと言われていた秀吉が、晩年になると異常に過酷な処断を下していたりする場面が多々あります(その際たるものが関白秀継に対する仕打ち)。認知症の症状の一つに短気になるというのがありますが、朝鮮出兵の頃の秀吉は明らかに「耄碌した」としか言えないような異常な判断や行動が多々あります。つまりはもうこの頃からその傾向は現れていたのではないかということ。だからそれまでなら「まあ、あいつなら仕方ないか」というように許容できていた利休との考えのズレなども、許容できなくなって来ていたのではないかということ。

 もっとも文化人トップとして権力者と渡り合う立場の者というのは、どうしても立場が微妙なことになる宿命があるようです。権力者としては利用価値がある内は良いのですが、それが思惑がズレてくると自身が制御できない権威とということで鬱陶しくなってくるもののようです。千利休の死後に茶の湯の頂点に立つことになった古田織部も、結局は家康に切腹させられてますし。

 


忙しい方のための今回の要点

・織田信長が茶の湯を政治利用するようになったところから千利休が台頭し始める。
・豊臣秀吉は千利休を一種のブランド化することで、新たな名品を生み出すことが可能となった。
・その一方で千利休は自らの考えに基づいた佗茶の体系を完成させる。
・しかしやがて秀吉と千利休の考えにズレが生じるようになり、ついには利休は切腹を命じられる。決定的な事件は大徳寺三門の木像の件だが、それ以前に茶の湯の路線の違い、博多商人を重用する秀吉と堺に拠点を置く千利休といったすれ違いが起こっていたと考えられる。

 

忙しくない方のためのどうでもよい点

・文化人の中には千利休のように権力と寄り添うことで名を成していくタイプと、逆にそのようなものに一切背を向けた上で独自の路線を進んでいくタイプがいます。絵師などでは狩野永徳なんかがまさに権力と一蓮托生でした。このタイプは栄華を極めるのですが、トップとズレが生じた時とか、そのトップ自体が没落した時に地獄を見ます。
・弟の秀長を失った頃ぐらいから、秀吉を諫めることが出来る者がいなくなり、豊臣政権は崩壊に向かい始めます。ここで千利休という秀吉に別の観点から意見を言えるものを切り捨ててしまったことは、結果としては豊臣政権の崩壊に拍車をかけることになったと言えるでしょう。とにかく晩年の秀吉は「耄碌した」としか言いようがないです。この時点で成人した息子がいれば隠居できたのですが、それがいなかった上に、そうなり得た秀次は自ら殺してしまったし・・・。