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8/7 BSプレミアム 英雄たちの選択「参勤交代を緩和せよ!~松平春嶽 幕政の根幹に物申す~」

 今回の主人公は福井藩主の松平春嶽。英邁な藩主として知られた人物であり、百姓の生活の実態を知らない大名は犬猫にも劣ると言い切ったぐらい、領民の生活にも目を向けていた人物である。

破綻状態の大名達を救うために参勤交代の緩和を主張

 しかしこの頃の各大名の財政は破綻状態にあった。福井藩とてその例外ではなく、借金は現在の価値で450億円もの額になっていた。藩財政の危機は年貢に降りかかるために、一揆や打ち壊しが起こることになる。春嶽自身さえ、倹約のために一汁+白米、もしくは一菜+白米という質素な食事を取っていたという。

 大名の財政をこのような危機的状況に追い込んだ原因が参勤交代であった。多くの家臣を引き連れて長距離を移動するため、加賀藩などでは参勤交代の片道の宿泊費だけで2億円もの費用がかかったという。さらに妻子を人質として江戸において江戸屋敷を維持するため、年間で藩財政の半額である50億円もの費用がかかっていた。そもそも参勤交代は家康が諸大名の経済力を削ぐために導入した制度であるのだが、この頃になると諸大名の経済力が削がれすぎていたというわけである。

 時代はおりしもペリー来航などで風雲急を告げ始めた時期。日本は国防力を強化する必要に迫られていた。老中阿部正弘が諸大名に対して広く意見を募った時、春嶽は参勤交代を緩和して諸大名を経済的に楽にさせたところで軍備の充実をさせるべきであるとの建白書を提出する。これは幕府の代々の方針を覆すかなりラジカルな建白書であったのであるが、あえて春嶽がこれを提出したのは彼はそもそも田安徳川家の出身であり、11代将軍家斉の甥、12代将軍家慶のいとこという人物で、場合によっては自身が将軍になっていた可能性さえある親藩中の親藩。自分が天下に物申さないと誰も何も言えないという使命感のようなものもあったのだろうと考えられるとのこと。

仲間を集めて党派を組むが、井伊直弼の安政の大獄で失脚

 しかしやはり春嶽の提案はあまりに過激すぎて否定されてしまう。老中阿部正弘は「参勤交代は人体の骨のようなものであり、骨を砕いてしまっては取り返しが付かない」と反対したという。参勤交代は幕府と大名の上下関係を確認するための制度のようなものであり、幕藩体制の根本であるというわけである。

 春嶽は英邁で知られる島津斉彬に協力を求める。斉彬は建白書の内容にはもっともであると同意するが、「親藩であるあなたでも幕府に睨まれているのに、外様大名の自分が何かを言えるわけがない」と協力は断られ、さらにはあまり突っ走りすぎないように釘を刺されてしまう。

 そこで春嶽は仲間を集めて党派を組むことにする。島津斉彬に水戸斉昭などを加え、英明と言われる一橋慶喜を次期将軍に推薦する一橋派を結成する。また徳川家に近しい大名達に協力を要請する。これには尻込みする大名もいたが、中には鳥取藩主の池田慶徳のように春嶽の意見に共感して自らも建白書を提出する大名もいた。また幕府の中からも海防係の大目付などは改革の必要性を痛感しており、春嶽の意見に同調する機運も現れ始めていた。

 しかし事態は急変する。井伊直弼が徳川慶福を次期将軍に推し、彼が14代将軍家茂として就任したことで井伊直弼による一橋派の弾圧が始まる。これがいわゆる安政の大獄。そして春嶽も謹慎処分とされ江戸屋敷に押し込められてしまうことになる。2年後に井伊直弼は桜田門外で暗殺されるが、その後も春嶽の謹慎は解かれず4年に及んだという。

 

春嶽の先進的な政治構想

 この頃の春嶽は臣下の暴走を抑えつつ、新しい政治体制について考えていたという。春嶽の構想は幕府を行政組織として、大名からなる上院である巴力門(はるりもん)と武士に百姓町民まで加えた下院である高門士(こんもんす)からなる議会を設立する議会制をイギリスなどの制度に倣って構想していたという。当時としてはかなり先進的な考えであり、もしこれが実現していたら明治維新なしで日本は民主主義国家に向かって進み始めたかもしれないとも考えられる。

突然の幕政復帰、選択の時

 そしてまた時代は急変する。島津久光が藩兵1000名を率いて上洛して、朝廷を後ろ盾にして幕府に対して春嶽を大老に慶喜を将軍後見職に就任させることを要求する。まさに幕府の権威の低下を示す事態だった。春嶽は家茂に呼び出され、朝廷との関係を修復する交渉役を依頼されることになる。

 ここで春嶽に選択が迫られる。今こそ長年の懸案で参勤交代の緩和を要求するか、それとも今は公武合体を優先してこの不穏な時期には見送るかである。

 

参勤交代の緩和を実現、しかし・・・

 春嶽は結局は前者を選択する。春嶽は「幕府が主導して改革を実行しないのなら、朝廷との関係修復が幕府の命令であっても断る」と言い切ったのだという。この春嶽の意見は入れられて参勤交代が2年から3年に緩和され、江戸に送られていた大名の妻子も国元に帰ってもよいことになる。これによって大名の財政の負担は減少し、各大名が藩政改革に取り組むようになる。これによって幕府の求心力が回復することも春嶽が期待していたことであった。

 しかし春嶽が委ねられた朝廷との関係修復がうまくいかなかった。春嶽が幕府に期待されたのは攘夷で固まる朝廷に幕府の開国の方針を受け入れてもらうことだったが、孝明天皇は頑として春嶽の意見を聞き入れなかった。その上に盟友であった慶喜との間にも政治方針を巡っての対立が生まれるなどして、結局は春嶽は職を辞すことになってしまう。

 そのうちに長州が倒幕に動き始めて長州征伐が起こる。さらには幕府は大名に対する統制を強化するために参勤交代を元に戻すことを決める。この事態に驚いた大名は春嶽にどう対応するべきか相談したようだが、この時の春嶽の返答は「幕命には従わないといけないが、そのまま様子を覗い、もし幕府から催促があれば病気ということで断れば良い」というものだったらしい。何となくもう事態がどうしようもなくなっていることを感じている半分投げやりなような気持ちが覗える内容である。

 結局は時代は倒幕に転がってしまい、大政奉還を経て時代は明治と変わっていく。晩年の春嶽は主に執筆活動を行っており、その中で井伊直弼に対して「徳川家の威光を盛んにせんとの志にて、決して私欲のためにやったことではない。彦根公の英断が今に至りては感すへし。」と述べているという。自分は幕府を建て直すために改革を志したのに、結局はそれはかなわずに幕府が倒れてしまったということに対する後悔も含めた思いがこもっているようである。


 優秀な人物であったのは間違いないのですが、どこか空回ってしまった感のある人物でもあります。なお彼は島津斉彬は自分を含めて誰も及ばないような優れた人物であったと残しているようで、斉彬の早すぎる死がかなり残念だったようです。確かに斉彬は幕府を支える方向で動いていたので、彼がもっと長命であったなら幕府のその後もかなり変わっていた可能性があります。恐らくその時は幕府も含めたもっと穏健な形での新政体につながっていて、それは春嶽が考えていた構想に近い物になったような気がします。

 番組では磯田氏が「春嶽は善意の人」というような発言をしていますが、確かに彼の行動には「領民や大名も含めた日本国はどうあるべきか」というのが一番にあり、そこに私欲のようなものは見えません。やはり純粋な人だったんでしょう。もう一つ思うのは、もしこの人が将軍になっていたらその後の幕府はどうなっていただろうかということ。特に幕末の将軍は無能だったり早死にだったりが続いていただけに。

 


忙しい方のための今回の要点

・松平春嶽は幕末に貧窮する大名を助けるために、参勤交代の緩和を幕府に提案するが却下される。
・そこで春嶽は一橋慶喜を担ぐ党派を結成して自らの構想を実現しようとするが、井伊直弼が実権を握ったことで安政の大獄で謹慎処分を食らうことになる。
・島津久光の要求で春嶽は幕府の中枢に復帰、参勤交代の緩和を実現するが、幕府から命じられていた朝廷との関係修復には失敗、職を辞すことになる。
・その後の幕府は迷走、結局は春嶽の意志とは裏腹に世の中は倒幕に動くことになってしまう。
・晩年の春嶽は政治から離れて執筆活動などに専念している。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・なんか悲しい人ですよね。使命感は人一倍持っているのに、運がないというか・・・。諸々の思惑に振り回された挙げ句、結局は空回ってしまったという印象。
・福井藩は春嶽が育てた人材が多くいたのですが、明治の薩長藩閥政治の中で彼らは排除されてしまって、結局は活躍できた人物は誰もいません。そういう辺りも不運というか何と言うか。
・春嶽が調停に走りすぎたせいで、討幕派からは佐幕派と見られ、幕府側からは討幕派と通じる裏切り者と見られていたということもあるようです。やっぱり磯田氏の言うように「善意の人」だったんだろうな。