教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

8/26 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「鉄砲伝来の真実」

 1543年、種子島にポルトガル人によって鉄砲が伝来したと言われている。今回はその鉄砲伝来の真実について。

種子島にやって来たのはポルトガル船ではない

 1543年、種子島に大きな船が到着した。村長の西村織部丞が対応したが、言葉が通じないので砂浜に漢文を書いてコミュニケーションを取ったという。その結果、明の船であってポルトガル人の商人が同行していることが分かったという。織部丞は一行を領主である種子島時尭の元に連れて行く。若い時尭はポルトガル人が持っていた銃に興味を持ち、試射を体験すると共に、大金を払って(今の価値で数千万円)火縄銃2丁購入したのだという。

 なおポルトガル人から銃が伝来したと教科書などに記されていることから、ポルトガルの南蛮船がやって来たというイメージを持ちがちだが、実際の船は明のジャンク船であり、この一行は倭寇であったと考えられるとのこと。倭寇と言えば朝鮮沿岸などを荒らし回った日本人の海賊のイメージがあるが、この時期の倭寇は主に中国人の密貿易者であるとのこと。また倭寇のメンバーになっているポルトガル人などもいたとのことで、彼もそういう一人だったと考えられるという。また種子島にやって来た理由は、台風で流れ着いたという説もあるが、実際は種子島は堺などから明に向かう際の中継地であり、明から日本を目指そうとすれば必然的に最初に立ち寄る場所であったと考えられるとのこと。

 なおこの時の銃であるが、当時のヨーロッパの銃とは構造が違うことから、当時銃の生産が行われていた東南アジアのものであると推測されるという。実際にこの船はタイから日本にやって来たらしい。

 

苦労の結果、鉄砲の国産化に成功

 火縄銃を入手した種子島時尭は、刀鍛冶の八板金兵衛にこれと同じものを作ることを命じる。種子島は良質の砂鉄が産出するために刀製造が盛んで、八板金兵衛もそのために美濃の関から招かれたのだという。

 金兵衛は火縄銃の製造に取りかかるが、銃身の根元を塞いでいるネジの作り方がどうしても分からなかった。それまで日本にはネジというものは存在せず、これは日本人が初めて遭遇したネジであったという。製法に悩んだ金兵衛はそれを教わるためにポルトガル人に娘の若狭を差し出したと言われている。ポルトガル人は翌年鍛冶屋を連れてやって来て、金兵衛にネジの作り方を伝授した。なお若狭はポルトガル人と共に帰国して、そのまま死ぬまで種子島で暮らしたとのこと。ただこれは実は半分は伝説の世界であり、真偽のほどは不明らしい。なおそのネジの作り方は、まず雄ネジを作ってから、加熱した銃身にその雄ネジを差し込み、銃身を叩いて雄ネジに密着させてから雄ネジを抜くことによって銃身内部に雌ネジが出来るという鍛造法だという。

鉄砲を全国に伝えた種子島時尭の「気前よさ」

 この鉄砲が全国に広がっていった経緯だが。これは種子島時尭が気前が良かったことによるという。鉄砲の噂は堺の商人を通じてまず畿内に広がる。すると根来寺の僧兵であった津田監物が種子島時尭の元を訪ねてくる。彼は根来寺の兵力を強化する必要を感じており、そのために鉄砲の導入を考えたのである。鉄砲を一丁ぜひ譲って欲しいという頼む監物に対し、時尭は気前よくも鉄砲を与えた上に砲術や火薬の調合などまで伝授する。さらに鉄砲の商いをするために作り方を会得したいと堺の商人の橘屋又三郎がやって来た時は、これまた気前よく八板が苦労して確立した製法を教えたという。これがなかなか理解しがたいところで、例えば時尭が天下に対して野心を持つ大名なら、絶対に鉄砲は秘密兵器として門外不出にしただろうし、そこまでしなかったとしても、製法を秘匿して種子島からでないと鉄砲を調達できないようにしただろう。しかし時尭は「みんなが欲しがるものを出し惜しみしたくない」と非常に善意に満ちているというか、この時代のことを考えると馬鹿なのではないかと思える(笑)ような考えを持っていたらしい。正直なところ私のようなゲスは、何か裏があるのでは勘ぐりたくなるところだが。

 こうして堺は鉄砲の一大産地となり、堺近傍では根来衆や雑賀衆と言った鉄砲を装備した傭兵集団が登場することになる。

 

もう一つの鉄砲伝来ルート

 一方、これ以外の鉄砲伝来ルートもあるらしく、それは西国大名だという。例えば大友宗麟は肥前で鉄砲を入手し、それを将軍足利義輝に献上したという。幕府の権威を高めたいと考えていた義輝は、東国大名に鉄砲を下賜するなどを行っており、上杉謙信には味方に付けるために火薬の調合法を記した秘伝書を渡したりもしているという。

戦国の合戦に大変革をもたらした鉄砲

 こうして普及した鉄砲は合戦の様相を一変させることになる。当時の火縄銃の性能としては、50メートル先の的に当てることが出来る精度と、100メートル先でも殺傷能力があったという。また鎧を貫通する能力があったので、防弾性能を高めた当世具足という新しい鎧が登場することになる。また城の建て方も防弾のための厚い壁に、堀などを築いて敵を接近させないように変化することになる。

 戦国大名の中で鉄砲を最も効果的に使用したのは織田信長である。彼は浅井氏との姉川の合戦では500丁、武田勝頼との戦いでは3000丁の鉄砲を使用している。彼がそれだけの鉄砲を用意できたのは、大産地であった堺を押さえていたことが大きい。さらに浅井氏滅亡後はもう一つの産地である国友も支配下に置いたので、全国の鉄砲を支配したに等しいことになる。

 また鉄砲は非常に高価な武器であったため、これからの合戦は財力がものを言うようになる。そして財力のない大名は戦わずして降ることになり、結果として合戦が減ることになったという。信長後は秀吉、家康が財力で天下を治め、江戸幕府成立後の泰平の世の中になると鉄砲は規制をさせることなり、その技術は他の分野に転用されることになる。こうして誕生したものの一つが花火であるとか。


 以上、鉄砲伝来と普及の経緯について。特別に目新しいというほどの内容はありませんでしたが、実は私も種子島に漂着したのは南蛮船だと思ってました。まさか中国の密貿易船だったとは・・・。砂浜に漢文を書いて意思を疎通したという話は知っていたのですが、南蛮船に中国人船員がいたのだと思ってました。なお全体を通して一番印象に残ったのは種子島時尭の異常な気前よさ(笑)。もしかすると彼は鉄砲の戦国時代における意義とかそういった大きなことは考えておらず、単に「鉄砲って面白いから、もっとみんなに知らせてやろう」ぐらいの考えだったのかも・・・。

 


忙しい方のための今回の要点

・鉄砲は種子島にポルトガル人から伝わったが、彼が乗船していたのは中国の倭寇の密貿易船だった。
・鉄砲を入手した種子島時尭は刀鍛冶の八板金兵衛に同じものを作るように命じる。金兵衛は銃身の基底部のネジの作り方が分からなくて苦労するが、その製法を知るためにポルトガル人に娘を差し出したというエピソードが残っている。
・銃の情報は堺の商人を通して畿内で広がる。銃を求めてやって来た根来寺の津田監物や、堺の商人の橘屋又三郎などに種子島時尭は惜しげもなく銃を与えたり製法を伝えたりしており、それによって堺は銃の一大生産地となり、また根来衆や雑賀衆などの傭兵軍団も登場する。
・鉄砲を効果的に用いた織田信長は、堺を支配化に治め、さらには国友をも支配したことで鉄砲を一手に握ることになる。

 

忙しくない方のためのどうでもよい点

・意外と時尭は鉄砲のことを実用性の高い武器とは考えていなかったのかも。当時の火縄銃は装填に非常に時間がかかるという弱点があったので、武器としては合戦には使いにくいとも考えられており、武田信玄なんかも一発目をかわしたら二発目を撃つ前に接近戦に持ち込めると考えていたようですから。
・ただこの武器はゲリラ戦に使われるとかなり効果的なんですよね。物陰などに潜んで接近したところを一撃してヒットアンドアウェイって戦法です。だからこそ雑賀衆なんかが恐れられたわけですが。また要人暗殺なんかにも向いている武器です。武田信玄は遠距離狙撃されて死んだという説もあるぐらいですから。