教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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10/2 BSプレミアム 英雄たちの選択「悲運の天才・菅原道真~なぜ怨霊は神となったのか~」

 今回は主人公は菅原道真。そもそもは平将門、崇徳上皇と並ぶ三大怨霊であったのであるが、彼らとは違ってそこから学問の神様、天神様として崇拝されることになった。どうやって菅原道真が怨霊となりそこから神に転じたかというお話。

学問で出世した菅原道真

 菅原道真は中流貴族の家に生まれたが、菅原氏は学問で朝廷に使えている家系であり、父も祖父も学問における最高職である文章博士を歴任している。道真も若き頃より儒学や漢詩の勉学に励み、33才で文章博士に抜擢される。しかし彼の父は息子の出世を「文章博士は高官故に妬まれて孤立するだろう」と悲しんだという。実際にすぐに道真の周囲は誹謗中傷の類いに満ちあふれることになる。しかし道真は周囲の雑音を気にせずに朝廷の務めに励んだ。

 道真の転機となるのは宇多天皇の即位。当時の朝廷は財政破綻状態にあり、宇多天皇はその立て直しに情熱を燃やしていた。彼は太政大臣である藤原基経を頼りにしていたのだが、その基経に対して宇多天皇が発した詔が思わぬ騒動となってしまう。そこに「宜しく阿衡の任を以て卿の任と為すべし」とあったのだが、これについて基経は、阿衡は政治権力のない名誉職であると憤慨して、政務をボイコットして出仕しなくなってしまったのである。政務の停滞は1年に及び、学者たちも権力者である基経に阿るだけの中で、道真が基経に送った文書が自体を動かす。道真は「文章を作る場合、言葉はその時の状況に合わせて用いるのが常である」という筋道の通った主張を行い、これを受けて基経は1年ぶりに出仕する。道真は身分が上の者にも臆せずにものを言う人物であった。事態を解決した道真はこれで宇多天皇から厚い信頼を受けることになる。

 

政治のブレーンとして宇多天皇の元で活躍するが・・・

 道真が47才の時に藤原基経が亡くなり、宇多天皇はいよいよ自らの親政を行うことになる。この時に宇多天皇のブレーンとなったのが道真だった。道真は天皇に対しても堂々と諫言を行った。遣唐使の再派遣を検討していた宇多天皇に対し、現在の唐の国内の混乱状況を告げて遣唐使の廃止を提案したのは道真であり、宇多天皇も道真の意見を入れて遣唐使の廃止を決定している。

 しかし道真の周囲に暗雲が漂い始める。宇多天皇は譲位して若い醍醐天皇が即位することになる。宇多天皇は醍醐天皇の補佐役に道真と藤原時平を任命する。宇多天皇は醍醐天皇に対して、道真に従うようにというようなことを告げていたらしい。道真は醍醐天皇によって地位を引き上げられ、ついには左大臣の藤原時平と共に右大臣に任命されることになる。果たしてこの任命を受けるべきかというのが道真の決断である。

 

右大臣に出世するも、陰謀と嫉妬で左遷されてしまう

 とは言うものの、天皇が決定した以上道真に拒絶することは出来なかったろうというのがゲストも共通の認識。実際に道真は天皇の意向に逆らうことは出来なかった。しかしこの道真の異例の出世は当然のように周囲の嫉妬を買い、今まで以上に誹謗中傷の嵐にさらされることになる。中には道真に対して自ら辞職すべきと批判する者までいたという。道真自身も右大臣になってから心が安まらないというようなことを言っていたらしい。

 そして右大臣になって1年と3ヶ月後、道真は突然に「権力を私物化しようとして宇多上皇を欺いて欺した」と太宰府に左遷されてしまうのである。そもそも権力など欲してはいなかった道真にとっては、全くの冤罪と言ってもよいものであった。

 これが誰の陰謀によるものかは諸説あるのだが、一般的には藤原時平が権力を独占するのに邪魔な道真を陥れたとされているが、番組ゲストは全員「醍醐天皇と時平の共犯説」を唱えている。この時期の醍醐天皇は、退位しながらもまだ影響力を行使している宇多上皇と確執が起こっており、その宇多上皇に信頼厚い上に、醍醐天皇から見ると父ほどの年の菅原道真は非常に煙たい存在だったのだという。醍醐天皇はほぼ同年代の藤原時平とは気が合っていたようで、時平と共に鬱陶しい道真を左遷することにしたのだろうということである。しかも悲しいことに、以前から妬まれて回りからの誹謗中傷にさらされていた菅原道真を擁護しようとする者は誰もいなかったようである(この辺りはいかにも朝廷人らしい陰険さだと思うが)。

 

道真の死後に沸き起こる怨霊伝説

 道真は太宰府に送られ、そこで寂しい生活を送りながら2年後にこの世を去る。しかしここからが菅原道真怨霊伝説の始まりとなる。まずは6年後に権力の頂点にいた藤原時平が病死、そして天皇の子たちは次々と亡くなる。また天変地異や疫病などが相次いで世の中が乱れる。世間では道真の祟りということが囁かれるようになり、恐れた宇多天皇は道真を右大臣に復帰させてその怒りを解こうとするが、それでも異変は終わらない。ついには御所の清涼殿に落雷があり、道真の左遷を見て見ぬ振りをした公卿たちに死者が出る。これで心底ビビってしまったのか、3ヶ月後に醍醐天皇が心身に異常を来して亡くなってしまう。菅原道真の怨霊は見事に恨みを晴らしたということになる。

そうして神になる

 この後、道真の怨霊を鎮めねば都に安泰は訪れないと、都の北西に道真を祀る北野天満宮が建立される。こうして道真は神になったのだという。番組ゲストも、道真のことはほとんどの者がうすうす冤罪だということは分かっていたので、関係者としては道真を祀らないことには心が安らげなかったのだろうとしているが、これは極めて同感。

 結局は先の三大怨霊の中で、菅原道真以外は明確に反乱などの乱を起こしているので、当時の基準としては犯罪者として扱われているわけだが、道真だけは明らかにそんな事実はなく、当時の連中も内心は「陰謀で追放された可哀想な人物」という認識はあったのだろう。だから「そりゃ祟っても当然」という発想になったのだと思われる。そして藤原時平や醍醐天皇という陰謀に関わった首謀者たちが亡くなった後だと、道真を神として祀ることに全く抵抗がなかったと考えられる。で、時代を経て、菅原道真は非常に頭がよかったと言うことから学問の神様となったわけである。実際の道真は政治なんかよりは実はずっと学問をしていたかったのではという気がする。ゲストの一人が、当時は文章だけで生きていける仕事がなく、政治をやらざるを得なかったというようなことを言っていたが、それが彼にとっての一番の不幸だったのだろう。もし彼が生きたのが江戸時代辺りなら人気作家として名を残したろうし、現在に生きていたらノーベル文学賞受賞作家辺りになったろうか。

 

忙しい方のための今回の要点

・中流貴族ので学問の家系だった菅原家に生まれた道真は、自らも学問を究めて文章博士という学者としての最高位に着く。
・さらに宇多天皇の問題を解決したことから宇多天皇の信頼を得て、そのブレーンとして活躍することになる。
・宇多天皇が醍醐天皇に譲位した後は、宇多上皇から醍醐天皇の補佐に任命されるが、醍醐天皇と宇多上皇に確執が生じたことで、醍醐天皇ともう一人の補佐である藤原時平の陰謀で太宰府に左遷されて、その2年後に没する。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・菅原道真が没した太宰府天満宮は今や合格祈願の総本山になっています。私も中学生の時に修学旅行で参拝しました。今はここからトンネルを通って九州国立博物館にアクセスできるようになってますね。さすがに学問の神様。

 

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