承久の乱については以前にヒストリアは北条義時の立場の方から描いていたが、こちらは後鳥羽上皇の立場から描いたもの。
幕府と対抗して天皇の権威を高めようとした後鳥羽上皇
後鳥羽上皇は和歌も極め、さらには自ら刀を打たせるなど文武両道に渡って最強を極めようとした人物であるという。幕府が力を持つことによって朝廷の荘園などにも干渉を強めてきていたことなどに対する危機感があり、天皇を中心とした国家を確固たるものにしたいという信念が彼にはあり、そのためにすべてにおいて君臨する必要があるというような考えだったのだろうとしている。
その後鳥羽上皇にとって好機が到来する。幕府の執権である北条義時から、実朝の正室を京の公家から迎えたいと申し出てきたのである。後鳥羽上皇は正室を通して実朝をコントロールすることを考え、自分の従兄弟に当たる女性を鎌倉に送る。これが奏を功したのか実朝は朝廷に接近してくる。
実朝の暗殺で頓挫した計画と迫られる選択
実朝と後鳥羽上皇で次なる段階の計画が進行した。それは親王を鎌倉に送って次の将軍にして実朝が補佐するというものだった。後鳥羽上皇にすればこれが実現すれば朝廷が幕府を掌握することが可能となることだった。しかし彼も予期していなかった事態が発生する。実朝が暗殺されてしまうのである。北条義時からは次の将軍として親王を直ちに送るようにとの要請が来るが、ここれで後鳥羽上皇が決断を迫られることになる。
ここで後鳥羽上皇の選択は、義時の要請に従うか、拒絶するかである。要請に従うと当初の目論見通り幕府を掌握できる可能性はあるが、問題なのは実朝のような信頼できる後見がいないこと。義時が信頼できるかはかなり怪しく、下手をすると義時が親王を傀儡にして独裁権力者になってしまう恐れがある。後鳥羽上皇としてはこれは避けたい。
ついに幕府と対立することになるが
そこで後鳥羽上皇は義時を試してみることにする。摂津国の長江、倉橋の地頭を罷免することを要求したのである。これらの地は義時の所領であった。しかしこの要求に対して義時は兵1000を京に派遣して武力を背景に拒絶した。
結局は後鳥羽上皇は要求をむげに拒絶するのも得策ではないと、親王ではなくて摂政の子どもを鎌倉に送るという第3の選択を行う。しかし畿内に所領を持つ源頼茂が将軍就任を狙う陰謀を画策、後鳥羽上皇はこれを征伐するがその際に争いの中で大内裏が焼失してしまう。後鳥羽上皇は再建のための支援を幕府に要請するが、幕府はこれを拒絶する。これが後鳥羽上皇の怒りに火をつける。後鳥羽上皇は西国の武士を集めて義時追討の院宣を下す。
予想外の展開と完全なる敗北
しかし後鳥羽上皇の想定外だったのはこの計画が早々と鎌倉のしれるところとなったことである。それは後鳥羽上皇が寝返りを誘った三浦義村が後鳥羽上皇からの誘いの書状を義時の元に持参したからである。義村の弟は上皇側に付いていたので寝返りは確実と考えていたのだが、義村は鎌倉方と利益共同体になっていたのである。
鎌倉方は北条政子の源頼朝の恩を訴える演説もあって御家人衆が結束、上皇方の10倍の1万の軍勢で京に攻め上ってくる。結局上皇方はこれを食い止めることが出来ず、上皇は義時追討の院宣を取り消さざるを得なくなった。その後、後鳥羽上皇は隠岐に流されてその生涯を終え、幕府は天皇位の継承にまで口を出すようになる。また西国の上皇方についた武士は所領を奪われ、鎌倉の権威が西国にまで及ぶようになったのである。
というわけで今回は後鳥羽上皇の敗着の一手といっても良い選択についてでした。しかし実際にはこの時点で後鳥羽上皇に選択の余地はほとんどなかったでしょう。もし親王を送っていても傀儡にされたのは確実であり、最悪はその親王を錦の御旗として京に攻め上ってきた可能性さえあったと思われる。
またゲストが後鳥羽上皇はエリートだったために、下々の武士の考えを把握していなかったと言っていたが、これはまさに同感。後鳥羽上皇が招集をかけても、守護クラスの武士は駆けつけてきても、その下のクラスは協力をしなかったのは、後鳥羽上皇が自分達の権益を守ってくれると思っていなかったからだろう。後鳥羽上皇としては、院宣さえ出せば下の連中は平伏して従うと思っていた節がある。やはりこれがエリートの限界。実際にこの後、後醍醐天皇も同じ失敗をして最終的に建武の新政は頓挫することになっている。権威だけで人を従わせるのは無理と言うことである。やはり人が一番動くのは実利を示されてこそというのが現実。
忙しい方のための今回の要点
・天皇の権威を強めたいと考えていた後鳥羽上皇は、実朝を取り込むことでそれを半ば達成しかけていたのだが、実朝の暗殺で頓挫してしまうことになる。
・執権の北条義時から親王を次の将軍として送ることを求められた後鳥羽上皇は悩んだ結果、親王ではなく摂政の息子を送ることにする。
・しかしその後、鎌倉幕府との対立が深まり、ついには義時追討の院宣を下す。
・だが鎌倉方は義時の元に結束、大軍で京に攻め上ってきたために上皇方の軍勢は敗北、後鳥羽上皇は隠岐に流されて、以降は武家の世の中となる。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・後鳥羽上皇はそれなりに「出来る人」だったことが徒になったようです。おとなしく和歌だけ詠んでる人だったらこうはならなかったのでしょうが。
・改革を目論んで逆に最悪の結果になるというのは良くあることですが、後鳥羽上皇がまさにそうでしたね。「天皇の実力を見せてやる」と思ったのでしょうが、結局は逆に天皇の力が衰えていることを世に示してしまったという皮肉。
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