駿府城は家康が晩年を過ごした城であるが、現在大規模な発掘調査中である。その過程で新たな事実が明らかとなってきた。
駿府城で見つかった秀吉の金箔瓦
世間を驚かせたのは大量の金箔瓦の出土である。当初は家康が建造した城のものだと考えられたのだが、周囲の石垣は戦国期のものであって年代が合わないことが明らかとなった。実はこれは秀吉が築いた駿府城のものだというのである。家康ゆかりの城であるはずの駿府城になぜ秀吉が関わってくるのか。そこに家康と秀吉の攻防が絡んでいるのだという。
家康と駿府城の関わり
そもそも家康が駿府と関わりを持ったのは8才の時に駿府に人質として送られた時。この時の駿府は今川氏が本拠としていた地であるが、室町幕府が重視している京と関東の中間にあり、しかも周囲を山と海に囲まれた要地であって政治の中心であった。
その後、今川義元が桶狭間で倒れ、今川氏と袂を分かって信長と同盟を結んだ家康は東に侵攻、駿府を配下に治めることになる。
しかしその信長も本能寺に倒れ、家康の前には秀吉が立ちはだかることとなる。この当時の家康の居城は浜松城。西の秀吉の支配地に近すぎ、何かの時に秀吉の軍勢に囲まれる危険があった。そこで家康は駿府に城を築くことにする。
秀吉を迎え撃ち城を築城するべく駿府城の建設に邁進していた家康の元に、驚きの知らせが舞い込む。秀吉が家康討伐のために軍勢を集めているというのである。その数10万、とても家康に対抗できる力はなかった。やむなく家康は秀吉に臣従することにする。
秀吉に下った家康から駿府を取り上げた秀吉
家康を配下に入れた秀吉は天下統一の総仕上げとして関東の北条征伐に繰り出す。その軍勢は20万、家康もこれに従軍することになるが、ここで思いがけないことを秀吉から要求される。それは小田原攻めの拠点として駿府城を貸してくれということであった。わざわざ築城した城を秀吉に貸すことには反対する家臣も多かったが、家康としてはここで秀吉に反抗するわけにもいかず、それを了承する。
しかし北条攻めの最中、家康は秀吉から予想外のことを命じられる。北条氏配下の関東を与えるので江戸を本拠として駿府を明け渡せというものであった。国替えの強制である。これには家康も内心では煮えくりかえる思いもあったかもしれないが、ここで拒んでも徳川家の滅亡になりかねない。苦渋の選択でそれを承知する。
家康に変わって駿府の主となった秀吉は、家康が築いた駿府城を破壊して、ここに新たな巨大な城を建設する。今回の発掘調査の結果、秀吉が築いた天守台は大阪城に匹敵する当時最大のものであったことが分かったという。さらにここに秀吉は金箔瓦を使用した。これはまさに家康の力を己が凌いでいるというアピールでもあった。
秀吉の死後に駿府を奪還して再び築城する家康
しかし間もなく秀吉が亡くなり、家康はいよいよ天下を狙って動き始める。そして関ヶ原の合戦で勝利、再び駿府を取り戻すことに成功する。
駿府を取り戻した家康がまず行ったことは新たな築城である。秀吉による駿府城を完全に破壊し(この時に金箔瓦も破壊されて埋められたらしい)、より巨大で豪華な城を建設したのである。この時の天守台の規模は何と江戸城の1.5倍というとんでもないもので、銅瓦を使用した豪華な6層天守を多門櫓が取り巻くという超豪華かつ極めて堅固なものであったという。この築城には全国の大名が動員されているので、皆がこの城の規模や堅固さをよく理解している。これはまさに秀吉を否定して家康がそれを超越したことを示すと共に、こんな城を築くような相手に戦って勝てるはずがないと思わせる抑止力を持った城でもあった。
駿府城を築いた後に家康はいよいよ豊臣との決戦に動き始める。家康が方広寺の鐘の銘文に因縁をつけた時、大阪から弁明の使者として片桐且元が送られるのだが、彼はこの駿府城を見て家康と戦うのは不可能であると悟り、大阪に戻ってからそのことを伝えるのだが、駿府城を見たことのな大阪方の面々は且元を裏切り者扱いする始末で、結局は大阪を追われた且元は家康に仕えることになる。
そしていよいよ大坂の陣が発生し、豊臣家は滅亡してしまう。そして天下を完全に掌握した家康は駿府城でその生涯を終えるのである。
駿府城がまさに天下そのものを示す城であるかのように、その時の権力者の元を転々としていたというのが興味深いところ。確かにこの城は東海道の要衝を抑えることになるので、この城を押さえることは天下にとっては影響力の大きいものであることは確かである。にしても、家康の執着のしようはそれ以上のものもあったように思われるが。やはり若き頃の思い出のある城という面もあるのだろう。実際に幼年期の家康は人質生活で苦労したと伝えられているが、実際には義元は家康を氏真の側近にすることを考えていたようであり、十分な教育も受けさせていて決して粗略には扱っていない。だから家康は実は今川にも駿府にも意外に悪い印象がないのではないかと感じている。実際に家康は今川家の領地は奪ったが、今川氏真には相応の処遇をしている(そもそも大名向きでなかった氏真にはその方がかえって気楽で良かったかもしれない)。
それにしても秀吉も家康も、あえてお互いの城を完全ぶち壊して新しい城を作るというのは露骨すぎるほどの意地の張り合いでもある。今なら「無駄な公共事業の最たるもの」と言われるところである(笑)。で、その駿府城の超巨大天守閣は、いつ頃にどういう経緯で消失したんだろうか? そこのところについて一言ぐらいあったもよかったような。それにしても6層の超巨大天守なんて、もし復元しようとしたら木造では到底不可能だから(そんな巨大建築に使える木材が今は入手不可能だと思う)、完全に鉄筋コンクリートになってしまうだろうな・・・。
忙しい方のための今回の要点
・駿府城の発掘調査の結果、秀吉が築いた駿府城のものと思われる金箔瓦が出土した。
・家康を江戸に移した後にこの地に秀吉が築いた駿府城は、大阪城に匹敵する規模の天守閣を持ち、金箔瓦を施した極めて豪華な城であった。
・秀吉の死後に関ヶ原で勝利して駿府を取り戻した家康は、秀吉の城を完全に破壊して自ら新しい城を築く。その天守の規模は江戸城の1.5倍という超巨大で堅固な城で、これは自らに刃向かうことは無駄であることを知らしめる効果も持った城であった。
・大坂の陣で豊臣氏を滅ぼした家康は、晩年をこの城で過ごしている。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・まあ無粋な鉄筋コンクリートの天守だけは建てて欲しくないところですね。まあせいぜいが天守台の復元ぐらいかな。実際に今の駿府城は本丸部分しか残っていないので、あそこに超巨大な天守が建ってもバランス悪いだけですし。
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