教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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10/30 BSプレミアム 英雄たちの選択「明治日本 首都は三択だった!~大久保利通 東京遷都の真実」

 日本の首都である東京。しかし歴史的に見た場合、首都が東京であるということを規定した法律などの類いはなく、明治新政府が事実上東京を首都にした時も、遷都という言葉は用いていないという。その辺りの事情を東京遷都を決定した大久保利通を中心に紹介。

大坂遷都を考えていた大久保利通

 そもそも天皇はずっと京にいて、日本の首都は京であるという意識が特に公家を中心に強かった。しかし大久保は日本が近代国家となるためには、旧弊に支配された京が首都ではいけないと考えていた。大久保が新たな首都として考えていたのは経済の発展した大坂だった。それまでの天皇の存在も京では公家の奥に隠されたものであり、庶民からは遠いものであった。大久保は「京は最早腐っている」と考えていた。大久保は新たな国家の元首たる天皇像として、ヨーロッパの王侯のようなイメージを抱いていたという。

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「京は腐っている」と考えていた大久保利通

まずは天皇の大坂行幸を実現する

 しかし京の公家たちは遷都はおろか、天皇が京から出ることさえも反対であった。そもそも江戸時代に天皇が京を出る行幸は今まで3度しかなく、しかも京都の近郊ばかりである。そこで大久保は一計を案じ、まずは明治天皇の大坂行幸を計画する。大久保は岩倉具視に相談、岩倉は天皇自ら大坂で軍艦を視察することで軍の士気が上がると、遷都のことは微塵も匂わさずに提案したため、公家も反対することが出来なかったという。

 天皇の行幸には多くの見物人が集まった。まだ十代の明治天皇は好奇心旺盛で、これをきっかけに大久保は天皇から呼び出されて直接の対面が叶い、その後は大久保たちは天皇の前で議論が出来る立場となる。

 

前島密の江戸遷都案と大久保の選択

 その大久保の元に旧幕臣の前島密からの江戸遷都案の提案を受ける。前島は大坂は首都でなくても商業の町として発展可能であるのに対し、政治の中心であった江戸は首都でなくなると寂れてしまう可能性が高いこと、さらに大坂の水路は大型船の通行は不可能なのに対し、江戸には横浜港がある上に、横須賀にドックも建設中であることなど、江戸遷都の優位性を論理的に主張したものであり、大久保はこの提案に大きな可能性を感じる。しかし当時の江戸には新政府に反発する者が多くいた上に、奥羽越列藩同盟が新政府に対抗するなど、江戸はまだ政府要人の安全を守るのは難しい状況であった。

 一方江藤新平などは、江戸と京の間に鉄道を敷設して、天皇がそこを行き来するという東西二都案を提出していた。ここで大久保の決断となる。1.大坂遷都案。しかし大坂には政府機関を置くべき場所がない(大阪城は鳥羽伏見の戦いで炎上してしまった)。2.江戸遷都案。江戸城に大名屋敷など新政府の役所にする建物は十分にあるが、未だに反新政府の輩がゴロゴロいて情勢が不穏。3.東西二都案。鉄道敷設する費用をどうやって捻出するか。

 以上の3案からの決断となるが、番組ゲストは江戸遷都案と大坂遷都案に分かれた。江戸遷都のメリットは江戸には既に新政府の官僚に出来る人材がゴロゴロいるということ。大坂遷都案については、大坂に遷都したからと言っても当時の主力輸出品である生糸産地の北関東に近い江戸は商業都市として発展できる可能性が十分にあったとの分析なども出ていたのが面白いところ。また当時の新政府に出資していたスポンサーは大坂商人であり、大坂に首都を持っていくことでさらに彼らから金を引き出すことも可能となったのではという分析なども興味深かった。

 結局は大久保は江戸遷都を選ぶ。上野で幕府残党の彰義隊が一掃され、徳川家が駿府に移動したことなどが大きいという。江戸の人々に対して日本の主が将軍から天皇に変わったということを示すためにも江戸遷都が最も有効と判断したのだという。

 

遷都ではなくて行幸として実行された天皇の移動

 天皇が江戸に向かうことになるが、それは遷都ではなく天皇の江戸行幸として行われた。天皇は各地で積極的に民衆とふれあった上で、江戸に到着すると天皇の名で庶民に酒が振る舞われ、2日間はお祭りとなったという。こうして天皇の印象を江戸の人々に焼き付けることに成功。その後、天皇は一旦京に戻るが、翌年再び江戸に来てそのまま江戸に居住することになる。つまりは日本お得意の「なし崩し」で遷都してしまったのである。

 東京と改められた江戸は政治の町として発展し、寂れてしまっていた京都も伝統を活かした観光都市として復活、大坂は商業と工業の発達した大阪として東洋のマンチェスターとも言われるほどの発展をその後することとなる。


 今回は東京が首都となった経緯だが、東京を首都にするのが一番ドラスティックな改革が可能であるが、そのことが「西洋化=近代化」となってしまったのは、後々のアジアの発展を考えた場合に正しかったかが微妙であるという分析が出ていたのが印象的。確かにこの後の日本は脱亜入欧、富国強兵の道をばく進し、結果として戦争に明け暮れることとなってしまったのである。確かに大坂辺りを首都にしていたら、もっと商人的に周囲とも融和を図れるしたたかな国になっていた可能性もないとは言えない

 まあ明治時代に首都を選んだ経緯はともかくとして、現在の東京はその首都ということが重荷となって、都市としては既に破綻していることを考えると、遷都を検討すべき時期に来ていると思う。ただ単に遷都をしただけでは東京の問題を移転先に持ち込むだけになるので、私が提案するのは首都分散である。今日のように高速交通網や情報網が発達している時代に首都として集中させておくことは、災害に対する備えや都市機能のことを考えても最早メリットはないと考えている。むしろ首都機能を分散させることによって災害などにも強い日本となれるのではないかというのが私の考え。私の構想は、日本の各地に人口100万レベルの中核都市と、それを取り巻く農村圏で自給自足経済圏を確立し、それらの中核都市が高速交通網で接続されて人が行き来するという国家構想である。脳が発達した高等生物は脳が損傷すれば一発で死ぬが、梯子状神経柵の昆虫類のしぶとさはよく知られているところである(体が半分つぶれていてもすぐには死なない)。これが今後の日本の社会モデルだというのが私の考え。

 

忙しい方のための今回の要点

・天皇を中心とした近代国家を目指す大久保利通は、首都を大坂に移して、強兵に支配されている京を離れることを考えていた。
・大久保は公家たちの反対を抑えるため、まずは天皇の大坂行幸を実現させる。
・前島密による江戸遷都の提案を受けた大久保は江戸への遷都の可能性を考え始める。
・旧幕府勢力の彰義隊が上野で一掃され、徳川家も駿府に移ったことで江戸遷都の障害はなくなり、具体的に遷都プランが動き始める。
・しかし天皇は江戸への移動は遷都ではなくて行幸という形で進められる。江戸では天皇は庶民たちにも受け入れられ、新たな時代の象徴となる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・もしこれが50年後のもっと鉄道技術が進んだ時代なら、東西二都という考え方もあり得たかもという話があったが、それは全く同感。だからこそそれよりもさらに鉄道技術が進歩し、通信技術も進歩した今日では東西二都どころか、もっと分散しても良いというのが私の考え。そもそも首都という概念をなくしてしまっても良いぐらい。

 

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