教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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11/13 BSプレミアム 英雄たちの選択「大阪が燃える!大塩平八郎の乱~世直しの衝撃~」

 大阪を火の海とし、当時の幕府を震撼させた大動乱が大塩平八郎の乱である。当時は天保の大飢饉の直後で多くの餓死者も出ていた時代。大塩は何を考えて乱を起こしたのかに迫る。

腐敗し、庶民を見殺しにする幕府に憤って決起する

 大塩平八郎は大阪奉行所の与力であった。ただしいわゆるキャリア組ではなくたたき上げのノンキャリアに当たる人物だという。

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大塩平八郎

 大塩平八郎が周囲の村に決起を促すために送ったという檄文が残っている(かなりカッチリした文字で書かれており、真面目な人物だったんだろうなという印象を受ける)。それによると社会の腐敗に対する憤りが感じられるが、直接のきっかけは大阪でも餓死者が出ているというのに、大阪の米を江戸に送ったことであるようだ。

 前年の飢饉によって江戸では混乱が起こっていた。そこで幕府は大阪の米を江戸に回すように指示、大阪の町奉行は大阪でも餓死者が出ているのに幕府の命に従って大阪の米を江戸に送ってしまったのである。なぜ庶民に米を分け与えることをせずに江戸に送るのかということに大塩は憤った。将軍のお膝元の江戸さえ良ければ他はどうでも良いという江戸中心主義。この悪しき伝統は現代でも東京中心主義として残っている。

 また当時の社会は腐敗を極めていた。大阪でも商人が利益を増やすために役人に賄賂を渡して便宜を図ってもらうことが横行(モリカケが日常化していたということだ)、そして大阪で金銭を手に入れた役人は、江戸に戻ってその賄賂を使って出世するなどということが日常的に氾濫していた。与力の身であった大塩はそういう現場を日常的に目撃してきたのである。民を救わず私利私欲にのみ走っている役人たちを大塩は許すことが出来なかった。

 

大塩を行動に駆り立てた陽明学

 では大塩平八郎とはどのような人物であったのか。彼は陽明学を学んでいてその世界では名の通った人物であった。彼は陽明学を教える私塾を開いており、そこには与力・同心といった士族だけでなく、多くの豪農(いわゆる庄屋クラス)の子弟も通っていた。江戸時代は身分制度の時代だが、唯一このような学問の世界だけが身分の差なく対等の議論を行える場であったという。大塩は門弟たちには私的な悩みでもすべて相談するように言っており、家族的なつながりを重視していたという。だから飢饉によって苦しんでいる農村の状況もつぶさに聞いていた。飢饉によって崩壊寸前になっている村々では、農民たちのために無償で米を提供している豪農などもいたが、彼らも既に借財で身動きの取れない状況になっていたという。この状況下で家族的な結びつきの門弟たちが結束して蜂起したことになる。ものを言う百姓が登場したということでもあるという。

 陽明学というのもポイントだという。陽明学は知行合一といって社会変革のために行動する学問であり、吉田松陰が学んだのも陽明学。そして長岡藩の熱血空回り男・河井継之助が学んだのも陽明学だった。この時代の変革に絡んだ人物の多くの背景に登場するちょっとやばめの学問である。

 決起した門人や農民達は300人にもなったという。しかしこの蜂起は幕府側の鉄砲なども用いた攻撃によって呆気なく崩壊する。しかしこの蜂起は社会に大きなインパクトを与えることになる。そもそも大塩自体が檄文を見ているといわゆる出口戦略を考えておらず、「我々の行動を見ろ!」と言うような内容になっており、そもそもが捨て石になる覚悟だったのだと思われるという。

 

大塩が幕府に送り付けた幕閣の大スキャンダルの暴露

 なお平成になって、大塩が乱の直後に幕府に送っていた建議書の写しが発見された。そこには幕府の老中にまでつながる不正の詳細が綿密な調査の結果として記されていた。幕中枢にまでつながる大不正を大塩は告発したのである。この不正に関与した人物の中には後に天保の改革を行う水野忠邦の弟までいたという。これは幕府を震撼させる内容であったため、幕府はこれを封印してしまったらしい(臭いものにはふたという今でも通じる対応である)。
乱は幕府に改革を目指すように訴えるアピールだったのである。

 幕府方の攻撃で総崩れとなった後、大塩は逃亡する。この意図については幕府が実際に改革に動くか見定めたかったのだろうとも言われているが、理由は不明であると言う。潜伏先を取り囲まれた大塩は蓄えていた火薬に火をつけて、息子と共に壮絶な爆死を遂げたという。

 

大塩の決起が社会に与えた影響

 大塩の乱が社会に与えた影響は大きく、その後も農民達による決起などが続いた。幕府は慌てて事件の捜査を行って調査報告を出した。その中には大塩の人気を貶めるために、意図的にスキャンダラスな内容も入れたようであるが、このことが大塩を知る与力の一部を憤慨させることにもなったという。結局はこの乱が幕府の統治が限界に来つつあることを社会に示すことになったのだが、その後江戸幕府が倒れるのには30年を費やすことになる。

 

 日本では革命が起こったことがないといわれるが、革命につながる数少ない可能性の一つがこの乱だったような気がする。フランス革命が「パンをよこせ」で始まったのは有名なところであるが、この乱も「米をよこせ」で始まっている。結局は人間にとっては食べていけないというのは一番切迫した危機であり、さすがにそこまで追い込まれると抑圧されていた民衆もついには声を上げると言うことである。そういう点では現在の日本は政治は腐敗を極めていても、国民はまだ食べていけないというところまで追い込まれてはいないから切迫感がなく、政治屋共も安閑として利権をむさぼっているのだろう。「パンとサーカス」なんて言葉があるが、権力者が民衆を抑えるための手段は、とりあえず食べるのには困らないようにしておいて、適当なガス抜きを与えるということになる。ただそれでも、一般民衆は貧困に陥っているのに権力者やその周辺だけは私腹を肥やし、上級国民は人殺しをしても逮捕されないなんて世の中が続いていると、いずれは限界が来るというのも歴史の必然である。

 それにしても大塩平八郎という人物はとことん真面目な人物だったんだろうなというように思われる。その真面目な人物が不満を溜めに溜めて、最後に爆発したのがこの乱ということに。真面目な人間ほどぶち切れた時は怖いという話もあるが、もろにそれが出ている事件でもある。

 

忙しい方のための今回の要点

・大阪奉行所の与力であった大塩平八郎は、天保の飢饉で餓死者が出ているにもかかわらず大阪の米を江戸に送らせた幕府に対して非常に憤りを感じており、これが乱の一つのきっかけになった。
・また大阪では一部の商人が賄賂で役人と結託して便宜を図ってもらっており、こういう現状に対しての憤りが大塩を突き動かしている。
・大塩は陽明学の学んでおり、その私塾には与力や同心などの士族のみならず、豪農の子弟なども通っていた。これらの門弟が大塩の乱の中心となる。
・大塩は乱の直後に幕府に対して、幕府中枢の老中なども絡む一大不正を告発する建議書を提出している。乱は幕府に変革を迫るためのアピールでもあったと考えられる。
・乱はすぐに武力鎮圧され、大塩も息子と共に潜伏先で壮絶な爆死を遂げるが、この乱が幕府の体制に対する疑問を社会に投げかけることとなり、以降は倒幕の動きが活発化することになる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・大塩平八郎なんかも大河ドラマはともかくとして、スペシャルドラマぐらいにはしてもよい人物ではあります。ただ彼を主人公にしたドラマなんか企画すると、政府から文句が付きそう。一方で長州系倒幕テロリストはどんどん美化してドラマ化するように言われているようですが。

 

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