教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

11/27 NHK 歴史秘話ヒストリア「走れ!たま 知られざる電気自動車の時代」

 今、自動車業界を賑わせているのは電気自動車。しかし今から70年前、戦後間もなくの日本で電気自動車の開発に挑んだ男たちがいた。敗戦によって空を奪われた航空技術者たち。まさにどん底の中からの挑戦だった。これはそんな男たちの執念のドラマである。

♪ 風の中のス~バ~ル~

プロジェクトX 「走れ!たま 電気自動車に賭けた夢 ~元航空技術者たち、執念の逆転劇~」

 

 1945年、敗戦後の日本。存続の危機に陥っていた企業があった。立川飛行機。軍用機の開発などを行っていた会社である。しかし戦後、GHQの命令で飛行機の開発は禁止され、4万人いた従業員も大幅に減少し、今は細々とアメリカ軍の依頼の仕事を行っている状態だった。

 会社の存続のために何の事業を行うべきか。誰もが考えあぐねる中、一人の男が口を切った「自動車を作りましょう。」元航空機エンジニアの外山保だった。だが「敗戦国の国民が自動車なんか買えるのか。」「自動車の技術なら欧米の方が上だ。今更勝てるものか。」周囲からすぐに反対の声が上がった。しかし外山は言い切った「日本は戦争に敗れこそしたが、航空技術は欧米を凌ぐものもあった。その我々が自動車の世界ではなぜ勝負にならないと言い切れるのですか。」外山の気迫に押された経営陣は、外山を責任者にして自動車製造部門を立ち上げることを決断した。

 1945年の暮れ、工場の片隅で自動車作りが始まった。外山は最も信頼する若手の航空機エンジニアの田中次郎に自動車の設計を託した。二人はまず自動車の動力について話し合った。当時の日本ではガソリンは入手困難であったが、一方で電気は山奥の水力発電所が無傷だったのに対し、電気を消費する工場が壊滅していたことから余っていた。そこで二人は電気を動力とする車を開発することにした。

 二人は自動車について猛勉強を重ねた。あらゆる資料を読み漁って計算を重ねた。それでも分からない時は町に出て実際の車を観察した。アメリカ軍の車の下に潜り込んでスケッチをしていて、アメリカ兵に見つかって取り調べされたこともあった。とにかく必死だった。

 

 しかし1年後、思いもかけない事態が起こる。アメリカが立川飛行機の工場明け渡しを要求してきたのだった。だが外山は自動車の開発を諦める気はなかった。外山の脳裏を過ぎったのは過去の屈辱的な出来事だった。

 キ77、戦時中外山達が開発し、無着陸飛行の世界記録を出した高性能機。外山たちの誇りの詰まった機体だった。しかし進駐してきたアメリカに機体の引き渡しを要求され、キ77にはアメリカ軍のマークが書かれアメリカに輸送された。外山は屈辱に震えた。二度とそのような思いはしないと決意していた。

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キ77 アメリカ軍のマークが描かれている

 1946年12月、外山は立川飛行機から独立、200人の部下達が彼に従った。東京府中の古い工場を借りた外山は、ここに東京電気自動車株式会社を設立した。しかし工場は雨漏りが激しく、雨が降ると屋内でも傘をささないと仕事が出来ない状態。また工場には機械もろくになく何でも手作りの状態だった。しかし熱い男たちは逆境をものともせずに開発を続けた。

 開発を初めて1年7ヶ月、田中の設計図がようやく完成した。トラックタイプと乗用車タイプの2タイプ。この自動車には多摩で作った車という意味で「たま」と名付けられた。航空機開発の経験を随所に生かした画期的な自動車であった。

 

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たま(出典:日産HP)

1947年5月、ようやく2つのたまが完成した。デモンストレーションとして工場のある府中から都心までパレード、日比谷公園での展示販売会では5台が即売れる上々の反響であった。

 

 手応えを感じていた外山たちに思わぬ出来事が発生する。国が主催する電気自動車性能試験に参加することになったのだ。これは一回の充電での走行距離や速度を競う試験である。これで認められれば鉄板やゴムなどを優先的に配給されるが、大手メーカーも多数参加する中、もし敗北すれば会社の存続が不可能となる。外山たちは合宿まで行って試験の対策を実施した。

 田中には試験のための戦術があった。まずはバッテリー。バッテリーは新品よりも何度か充電した方が電気容量が大きくなることが分かっていた。そこで何回の充電で容量が最も大きくなるかを実験し、試験用の電池はその回数使用したものを用いることにした。またモーターの回転をタイヤに伝えるリファレンシャルギアの抵抗を減らすため、試験前に予備のバッテリーで事前にタイヤを回しておいてギアの抵抗を減らす策を取った。さらには電気消費量が増加する発車時は全員で車を手で押した。こうして万全の策を取って試験本番に臨んだ。そして試験本番。電気自動車の平均が距離50キロ、平均速度20キロの中、たまは距離96キロ、時速28キロの驚異的なスコアを叩きだした。

 たまは飛ぶように売れた。特に売れたのがタクシー用だった。当時のタクシーは木炭タクシーで出発に準備がかかったため、タクシーは呼んでもすぐには来ないというのが常識だった。呼んだらすぐに来る電気タクシーの登場で、赤坂の客が終電時刻を気にしなくなり、赤坂の料亭の営業時間が1時間伸びたという。

 しかし電気自動車の人気の裏で、東京電気自動車の経営は困難に直面していた。性能優先の開発体質のため、どうしてもコスト高となって経営は赤字が続いていた。倒産の危機だった。

 外山はブリジストンの創業者である石橋正二郎に資金援助を依頼する。しかしこんな小さな会社に対して援助を引き受けてくれるかどうか。外山は一計を講じることにした。石橋に実際にたまに乗車してもらったのだ。石橋の自宅近くの急坂・鳥居坂をたまはものともせずにグングン登った。その性能に感心した石橋は資金援助を約束した。

 これで一息ついた東京自動車だったが、また思わぬ方向から困難が襲いかかってきた。朝鮮戦争の勃発で砲弾の原料にするためにアメリカが鉛を買い占めたのだ。鉛の価格はかつての8倍にまで高騰した。これは鉛バッテリーを使用する電気自動車にとっては致命的だった。これ以上車の価格を上げれば最早売れない。外山は電気自動車撤退の苦渋の決断をする。

 こうして一時代を築いた電気自動車は日本から消えた。たまは5年で1099台を生産していた。

 

♪ヘッドラ~イト テ~ルラ~イト

 この後、日本はガソリン自動車の時代を迎え、外山たちもガソリン自動車の開発を行った。ゼロ戦のエンジンを開発した中島飛行機を前身とする富士精密工業と協力して開発したプリンスには皇太子(現在の上皇)も乗車、富士精密工業と合併してプリンス自動車となった後には名車スカイラインを産み出した。そして日本グランプリでポルシェと渡り合って日本人を熱狂させたR380を開発。それらの開発に活躍したのは田中次郎だった。その後、プリンス自動車は日産自動車と合併、かつての男たちの熱い想いは今の若者たちに引き継がれているのである。

    プロジェクトX  終

 

 元航空技術者の技術開発物語というかつてのプロジェクトXの鉄板ネタだったことから、今回はプロジェクトX風味で紹介いたしました。昭和の技術者の熱い魂を感じながら、田口トモロヲの音声で脳内再生しながらお読みください(笑)。

 

忙しい方のための今回の要点

・70年前、戦後の日本で電気自動車開発に挑んだのが、立川飛行機の外山保達だった。
・彼らが電気自動車を開発することにしたのは、当時の日本ではガソリンが入手困難だったのに対し、電気は工場が壊滅して余っていたからである。
・立川飛行機の工場がGHQに接収されるなどの事件もあったが、外山らは東京電気自動車工業を設立して電気自動車「たま」をこの世に出す。
・大手メーカーも参加しての電気自動車の性能試験で、たまは好成績を上げて飛ぶように売れるようになる。
・しかし朝鮮戦争勃発でアメリカが砲弾のために鉛を買い占めたことで鉛価格が高騰、鉛蓄電池を使う電気自動車は市場から撤退することになる。
・なお外山たちの会社は後にプリンス自動車となり、その後に日産と合併した。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・プロジェクトXと言えば、かつて「団塊世代の応援歌」とも言われた番組です。私は団塊世代よりは下の世代ですが、昭和世代に属する人間ですので、今でもあの番組を思い返しますと熱い想いが湧き上がるとと共に、涙腺が緩みます(笑)。
・だけど今の若い人たちにはプロジェクトXなんて言っても、さっぱり分かりませんよね。ただ私のようなプロジェクトX世代には今のプロフェッショナルはあまりにヌルすぎて。
・かなり以前に見た時に、プレゼンのプロなる人物が、パワーポイントは1枚1分ってしたり顔で解説していた時には絶句しました。そんなものプロに講義してもらうまでもなく、プレゼンする者にとっては常識以前です。あんなものでプレゼンのプロなら、私もとっくにプロだと思いました。それ以来、あの番組は見てません。

 

前回のヒストリア

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