教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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12/2 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「なるほど!江戸時代~殿様の暮らし」

 江戸時代260年の間に、藩主、いわゆるお殿様は3500人もいたという。しかしお殿様の暮らしもそれはそれでいろいろと大変なこともあったようである。

階級が厳密に分けられていた大名

 まず幕府の家臣にもいろいろな階級があって、それが厳密に分けられていた。まず知行高一万石未満の幕臣は御家人や旗本と呼ばれ、一万石以上の者が大名となる。さらに大名は徳川家に仕えた時期などによって親藩、譜代、外様に分けられている。このうち老中などの要職は譜代以上でないとなれなかったらしい(だから松平とか水野とか井伊なわけだ)。またさらに官位や石高、家の由緒などから家格というものが厳密に定められていたという。個別に将軍に拝謁できるのは家格の高い大名だけであり、そうでない大名は大広間で将軍に対して平伏することになったらしい。これは太平の世になって大名を統制するためのシステムだったという。

 

大変だった参勤交代

 さて大名の暮らしであるが、とにかく一番大変だったのは参勤交代だったとう。妻子を江戸の屋敷に置き、大名は1年ごとに江戸と領国を往復するわけであるが、これの費用が馬鹿にならない。また石高によって人数なども決められていた(加賀藩100万石だと4000人、福江藩1万5千石だと37人だったとか)というから、勝手に節約するわけにもいかないというわけで大変だったわけである。城が丸ごと移動するような行列なので費用は莫大で、荷運びの人足を雇う金などが莫大で、津山藩10万石の例だと約2億円の費用がかかっているという。どんどん華美で派手になっていく行列に幕府も度々統制を出したと言うが、大名の側も世間体があり、急に行列を質素にするというわけにはいかなかったらしい(いかにも日本人的である)。

 費用の節約となると到着までの日数を減らすというのが考えられるが(「超高速参勤交代」という映画があったっけ)、そんな中で困った殿様もいたらしい。弘前藩の津軽信順は別名「夜鷹大名」とまで言われる夜遊び好き。毎夜毎夜女遊びで翌日は寝過ごすので、金はかかるわ予定通りには出発できないわで遅刻の可能性が出てきたのだという。参勤交代の遅刻は厳罰に処されたと言うから、藩士は殿を諫めるのだが聞く耳を持たない。結局は思いあまって藩士が切腹してしまったとのことで、さすがにこれで津軽信順も江戸に駆けつけたそうだが、いつの世もどうしようもないのはアホな上司である。ただこの後も彼の行状は改まらず、70両(今の金で700万円)の借金を作り、40歳で強制的に隠居させられたと言うから、これはタイガー・ウッズと同じ病気(セックス依存症)だったのではという気もする。

大名の江戸での暮らし

 江戸に登った大名は江戸城近くの上屋敷に入るらしいが、これ以外にも中屋敷や下屋敷などもあり、下屋敷は別荘や他の大名との交流のためのサロンの役割もあったという。中には尾張藩の下屋敷などは中に人工の滝があったり、宿場町を復元していたりなどさながらテーマパークだったとか。あんなこんなで江戸滞在の費用はかなりかかったとのことで、紀州徳川家の記録によると、藩主が国元にいる時の経費は11080両なのに対し、江戸にいる時は21250両かかっているという。今も昔も東京はやたらに金のかかる住みにくいところだったようだ。

 殿様の仕事はというと、朝7時に起床すると一汁三菜の質素な朝食(庶民に対するしめしのために贅沢はできないそうな)、8時になると行列をなして江戸城に登城する。この時は大通勤ラッシュになるために時間に余裕を持って屋敷を出るのだとか(将軍に拝謁するのは10時)。昼過ぎになると屋敷に戻って自由時間だが、お勉強など意外と忙しかったとか。そして正室を過ごして就寝は夜の10時とのこと。

 

とんでもない殿様達

 殿様も多くいればとんでもない殿様もいたとか。尾張藩の徳川吉通は水泳が大好きだったらしいが、冬に寒中水泳で寒いと文句を言ったため、家臣が8000万円かけて幅5.4メートル、長さ27メートルの温水プールを作ったらしい。もっともこのプール、水漏れがして一回しか使えなかったと言うから大浪費である。

 さらには丸亀藩の京極高朗は幕内力士6人を抱えるほどの大の相撲好き。しかし相撲見物で大はしゃぎする姿が咎められ、大名の相撲見物が禁止される羽目に。だがそれが我慢ならなくなった彼は、御相撲方という役職を新設して10数人の家臣を屋敷と相撲場の間を早馬で往復させて、相撲の実況中継をさせたという。家臣にとってはえらい迷惑である。なおこの件は、世界初のスポーツの実況生中継の事例としてギネスブックには載っていない(笑)。

 またとんでもないことで命を落とした大名も。福知山藩の稲葉紀通は寒ブリが大好物だったが、内陸の福知山藩では寒ブリが捕れない。そこで近くの宮津藩の藩主の京極高広に寒ブリ100匹を送ってくれと頼んだらしい。しかし大量のブリの注文に幕閣への賄賂に使うのではと勘ぐった京極高広は、すべてのブリの頭を落として送りつけた(首を落とすというのは武士にとっては不名誉なことなので、当然ながら賄賂などには使えない)。これを見た稲葉紀通は怒り狂って家臣に「今後京極の者が城下を通ったらブリのように首をはねよ」と命じたという。これを知った京極高広が幕府に訴えたために、幕府は周辺の藩に稲葉紀通追討令を出して兵を配備、これを自分の領地が狙われていると誤解した稲葉紀通は乱心した挙げ句に銃で自分の腹を撃って自殺してしまったのだとか。好物の寒ブリを食べたかっただけの話がとんでもない結果にという顛末。別にブリを食いたいだけだったら、頭を落としていたブリを「これは料理の手間が省けたわい」とさっさと刺身なとブリしゃぶなとにして食べていたら良かったのに・・・それともブリの頭のあらを使ったブリ大根が食べたかったから怒り狂ったのか?(笑)。

 

7回も国替えをした引っ越し大名

 最後は7回も国替えを食らった大名。国替えは国丸ごとの引っ越しなのでかなり費用がかかるのだが、松平直矩はその国替えを生涯で7回経験したそうな。譜代大名の大野藩5万石藩主松平直基の嫡男に生まれた彼は、3歳の時に父直基が山形藩15万石に国替えを命じられ、まず1回目。その4年後に姫路藩15万石への国替えを命じられるが、その途中で父直基がなくなってしまい、直矩は7歳で家督を継ぐことになってしまう。すると姫路のような要衝を若年藩主に治めさせるのはということで、翌年村上藩15万石に国替えされてしまう。もうこの頃になると藩内は度重なる出費で大混乱だったという。ようやく腰が座ったと思っていたら、26歳の時に再び姫路藩に国替えとなる。ところが親族の越後高田藩でお家騒動が起こり、直矩は仲裁に入るもののその不手際を咎められて九州の日田藩7万石に減封の上に5度目の国替えという悲惨な状況に。しかし直矩はそれに負けずにここでコツコツと勤め上げ、4年後には山形藩10万石に加増、さらに4年後に白河藩15万石に加増された(7度目の引っ越し)。直矩が53歳でこの世を去ったのはこの3年ごとのこと。

 大変な話であるが、この引っ越しの顛末をネタにした映画が「引っ越し大名」。なんか今回は映画の影がちらつくな。もしかしてタイアップ企画か? と思っていたら次回は忠臣蔵の軍資金の話って、これはまんま「決算!忠臣蔵」。こりゃやっぱりタイアップか?

忙しい方のための今回の要点

・江戸時代の大名は、親藩、譜代、外様の区別だけでなく、石高や官位などによって家格が厳密に定められていた。
・大名の出費の大きなものは参勤交代の費用があった。行列の人数などまで定められているため、費用の節約には日程を短縮するなどの方法しかなかった。
・江戸に上がった大名は上屋敷で暮らすが、別荘となる下屋敷も存在し、尾張藩士も屋敷などはかなり趣向を凝らした作りとなっていたという。
・江戸時代で3500人も大名もいれば様々な者がいて、温水プールをつくらせたわがまま大名や相撲の実況中継をさせた大名など、とんでも大名も多数。中には好物の寒ブリがきっかけで自殺してしまった大名まで。
・国替えも費用のかかる大変な出来事であるが、生涯で7回の国替えを経験したのが松平直矩である。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・何やら映画の話があちこちに出てきたような・・・。そう言えば、最近はこういう映画のシリーズが多いですね。
・武士は食わねど高楊枝なんて言いますが、実際の武士は藩を経営しないといけないわけですから、武術よりも算術だったらしいです。家康が目論んだ武士を軍人から官僚に変化させるというのは見事に成功していたようです。
・お殿様の生活って、良いようで結構窮屈なところもあったようです。なお幕末になると殿様よりも豪商の方が経済力が強くなって身分制度がおかしなことになってきました。秋田などでは「本間様(豪農)には及びもないが、せめてなりたや殿様に」なんて唄われたそうですから。

 

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