教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

12/5 BSプレミアム 偉人たちの健康診断「現代医学で読み解く"忠臣蔵"」

 今回は赤穂浪士の討ち入りについて、健康の観点から分析するというもの。

浅野内匠頭が抱えていた深刻な病

 まず松の廊下で刃傷事件を起こしてしまった浅野内匠頭。彼がこのような短慮を起こしてしまった背景には彼が抱えていた病気があったのではないかとしている。

 事件後に浅野内匠頭を取り調べた時の記録によると、浅野内匠頭は「私は持病に痞があり、物事を取り鎮めることが出来ない」ということを証言しているという。痞とは江戸時代の医学書によると「腹にものがあるかのような違和感があるが、実体がない」としている。実体がないということから胃がんの類いの病気は排除され、結果として考えられる病気は神経性胃炎ではないかと思われるという。しかし神経性胃炎でそこまでのことを起こしてしまうかであるが、これについては天候が影響しているとしている。この事件の3日前には雨が降っており、その後も曇天のぐずついた天気が続いており、事件当日も曇天だったという。このように天候が悪い時は、低気圧が内耳に影響を与え、混乱した内耳が脳に誤った刺激を与えて暴走した脳のせいで持病のある部分が強く痛み始めるなどということが起こるという(天気が悪くなると神経痛が起こるというようなことか)。このような人知れない苦痛を抱えていた浅野内匠頭に、吉良上野介からのプレッシャーがあり、ついには浅野内匠頭がぶち切れてしまったというのが番組の分析。

 浅野内匠頭が病を抱えていたのは間違いないが、私は浅野内匠頭の病は統合失調症の類いのメンタルの病だと考えている。それでなくても浅野内匠頭は以前から行状が不安定という話もあるし、被害妄想は統合失調症で現れる大きな症状の一つである。斬りつけられた吉良上野介は「何のことやら全く分からない」という類いの事を証言したと言われているが、客観的に見たら遺恨につながるはずがないものを浅野内匠頭が一方的に遺恨だと思い込んだという可能性はある。統合失調症は本人に病識がない事が多いのもたちが悪いところであり、浅野内匠頭本人に「乱心か?」と聞いても「乱心でした」と答えるはずもないというものである(乱心ということになれば浅野内匠頭が強制隠居させられるぐらいで、赤穂藩がお取りつぶしにはならなかったはずなのだが)。私も実際に統合失調症患者を見たことがあるが、彼はある人が自分を陥れようとしていると根拠なく思い込んで、執拗にその人を付け狙っていた。付け狙われた方としては災難以外の何物でもないが、当の患者本人は「合理的根拠から自分を陥れようとしている犯人を見つけた」と思い込んでいる(その合理的根拠なるものが支離滅裂で全く無意味なものなのは客観的に明らかなのに)。だからこそ昔から「キ○○イを止められるのは権力だけ」なんて言葉もある。

 

かなり危ない状態だった吉良上野介

 さて被害者の吉良上野介の方だが、こちらも大変な状況であった。当時の記録によると額の傷は骨にまで達しており、大量の出血があって危ない状況だったらしい。急遽、金瘡医(戦場での刀傷の治療などを行う当時の救急救命医)の栗崎道有が呼び出されたが、吉良上野介は出血性ショックの状態で、脳の酸素不足から生あくびを起こしていたという。道有は危険と判断して、血止めのために源氏ノ薄色なる軟膏を傷口に塗布したという。この軟膏は石灰やシカの角などのカウシウムと髪を整える油などから出来ているとのことで、カルシウムが血管を収縮させ、油が傷口を覆うことで出血を防ぐのだとか。同様の措置はボクシングの血止めでもなされており、氷で冷却して血管を収縮させ、ワセリンで傷口を塞ぐのだという。この道有の処置が功を奏して吉良上野介は命を取り止め、額の傷もわずか十四五日で全快したらしいが、その後も道有はしばらく吉良上野介の元を往診している。それは吉良上野介がもう一つの傷を負っていたからだという。

 それは心の傷。いきなり刀で斬りつけられた吉良上野介はそのことがトラウマになっていたという。さらにこの直後にかれは長年勤めていた幕府の儀式指導役を辞任し、屋敷も江戸の外れの本所に移転させられている。さらには世間では吉良上野介が悪いという評判が広がっており、精神的にかなり追い詰められた状態になっていたことが想像できるという。道有の記録によると吉良上野介は浅野内匠頭の家来が自分のところに復讐に来るのではないかと気味悪がっていたという。道有はこのようなメンタルケアまで行っていたらしい。そしてようやく吉良上野介は好きだった茶の湯を始めるようになり、事件から1年10ヶ月後の12月14日に茶会を企画する(多分、もう時間も経ったしほとぼりも冷めたという意識もあったろう)。しかしこれが運命の日となってしまう。

 

意外にひ弱だった赤穂浪士達

 さて討ち入った方の赤穂浪士だが、ビンビンと健康な豪傑たちと思うところだが、どうもそうではないらしい。内科医の口分田真氏の家は先祖が赤穂藩の主治医であり、その時のカルテが残っているのだという。その中に四十七士の内の11人の記録があるが、大石内蔵助は胃腸のストレス症状を持っており、他にもぜんそくの浪士や胃腸の病気、マラリアなど様々な病気の浪士がおり、意外にひ弱な印象を受けるとのこと(まあ普通のサラリーマンだったと言うことだろうと思う)。貧困の中で体調を崩す浪士が出ることを警戒した大石は赤穂藩筆頭医だった寺井玄渓に浪士達の間を連絡係として回ってもらうと共に、彼らの健康情報も集めて、薬を送ったりなどをしていたという(財政的にはかなり大変だったらしい)。その内に浪士達の間でも健康情報が共有されることになり、互いに薬を融通したりなんてことも行われていたとか。

 そして12月14日に開催される茶会の情報を入手した浪士達は、その晩に吉良邸に討ち入りし、吉良上野介を討ち果たす。そして彼らは切腹することになる。

 なお関係者で一人生き残った寺井玄渓は浪士達の切腹の報を聞いて「夢」という言葉を残したらしいが、何やら諸々のニュアンスが籠もっているようだ。また道有は自ら望んで吉良上野介と同じ墓地に埋葬されたという。吉良上野介との間に何やら交流があったのであろう。なお吉良上野介の墓は悪い奴の墓として何度も引き倒されたのでボロボロだとか。まあこの人も不憫な気がする。

 

 以上、関係者全員ボロボロですが、この事件に関しては一番悪いのは短慮で騒動を起こした浅野内匠頭、次が感情に駆られて滅茶苦茶な裁きをしてしまった綱吉(マザコン綱吉が、母親の叙位のための根回し接待を無茶苦茶にされてキレてしまったようだ)。赤穂浪士の面々も、吉良邸の面々も巻き込まれた不幸な被害者という気がしてならない。

 吉良上野介については地元では名君と言われていたという話があるが、残念ながらこの話だけでは吉良上野介がすなわち善人であったかどうかは判断できない。と言うのは、当時の領民の生活の安定はすなわち自らの国力の強化なので、よっぽどの馬鹿でもない限り地元で圧政をするということはあり得ないから(実際にはそのよっぽどの馬鹿もちょくちょく登場するのですが)。

 大石内蔵助については昼行灯のあだ名があったなどと言われているが、実際にはそれの方がこの人の本質に近かったかも知れない。血気にはやる臣下たちに担がれてしまって、やむなく討ち入りの指揮をとる羽目になったという可能性はかなりある。本人にしたら昼行灯のまま生涯を終えれた方が幸せだったかもしれないが

 

忙しい方のための今回の要点

・浅野内匠頭は神経性胃炎を患っていた可能性が考えられる。また事件の当日は数日前から悪天候が続いており、低気圧の影響で内示が変調を来して脳が暴走して持病の痛みが悪化するという状態になっていた可能性が考えられる。
・斬りつけられた吉良上野介は大量の出血で危険な状態だったが、駆けつけた金瘡医の栗崎道有の適切な止血処置によって命を取り止めた。しかしその後も精神的な傷を負っていたために、道有がしばらく往診してそれを癒やしたと考えられる。
・赤穂藩の筆頭医の子孫が持っていた当時の診断記録によると、赤穂浪士の中には持病の有る者も多く、大石も浪士達の健康には気を使っていたという。大石は元赤穂藩筆頭医の寺井玄渓に浪士達の間を連絡役として回ってもらうと共に、彼らの健康についての情報を集め、薬の支援などを行っていたという。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・まあ社長が馬鹿をしでかしたら社員が路頭に迷うというお話です。なおかつて「忠臣蔵を現代の企業的な観点からリアルに扱う」と銘打った大河ドラマだった「峠の群像」は散々な評判でした。やっぱり忠臣蔵は虚飾や誇張が入っている方がちょうど良いようです。となるとやはり吉良上野介は憎っくき悪党でないと困るようで。

 

次回の偉人たちの健康診断

tv.ksagi.work

前回の偉人たちの健康診断

tv.ksagi.work