斎藤道三といえば油売りから身を起こして美濃一国を手に入れたと言われている戦国成り上がりストーリーの主人公である。そして織田信長の舅でもある。実は信長の先進的政策は道三の影響をかなり受けていると考えられるという。
父から二代で美濃の領主に成り上がる
まず道三の成り上がりストーリーだが、近年の研究では実は道三一代の話ではなく、道三の父との二代での話であるということになっている。道三の父は元々僧侶であったが、そこから還俗して美濃の長井氏に仕えて長井の姓を名乗ることになったという。道三は新参者として見下される立場だったが、40歳で家を継いだ道三は土岐氏の家督争いの戦いで土岐頼芸について大活躍をする。こうして美濃で存在感の増した道三は、長良川氾濫時に出家する。これは大名である土岐氏に代わって災いの責めを負うという意味である。これで土岐頼芸から絶大な信頼を得ることになり、斉藤の姓を賜ることになる。この時に道三は頼芸に頼んで要害の稲葉山城を手に入れている。道三の権力基盤がこれで固まったのである。美濃での実力者となった道三だが、彼の野心はこれでは留まらない。彼は土岐氏の排除を試みる。そして土岐氏の一族に娘の帰蝶を嫁に送るのだが、その先では主人の病死などが相次ぐ。これは道三と帰蝶による暗殺とみられている。そして土岐一族を次々に排除して最後に残った頼芸を追放、これで道三は美濃を手に入れることに成功する。
尾張の信長の元に娘の帰蝶を送り込む
道三にとっての脅威の一つは隣国尾張であった。信長の父の信秀は稲葉山城にまで攻め込んでいる。そこで道三は信長の元に帰蝶を嫁入りさせる。うつけと言われている嫡男のあわよくば寝首でもかこうという考えがあったのではと思われるが、帰蝶から信長についての報告でも受けたのか、一度信長と直接に面談することにする。
会見場所の聖徳寺に先に到着した道三は信長の行列を密かに見学してみることにする。すると信長はとても織田家の嫡男とは思えないような格好をしてやって来ている。やはりただのうつけかと落胆する道三だが、その後に続く家臣達が異様に長い長槍を装備し、当時はまだ珍しかった鉄砲を500丁も装備しているのを見て驚く。さらに会見場に現れた信長は格式に則った服装に着替えていた。道三は信長をただ者ではないと見直すことになる。一方信長も道三に対する認識を改めたようで、ここで両者は意気投合したらしい。
道三を参考にした信長の政策
1554年に信長が今川の軍勢と戦った時は、信長は道三に援軍を求め、それに対して道三は1000の兵を送っている。信長はこの兵に本拠の那古野城を守らせ、全軍で今川軍に当たって1日でこれを撃退している。信長は道三が那古野城を乗っ取ることはないと読んだのである。道三は信長の見事な手際に感心している。
最近、岐阜城で大発見があった。道三時代の石垣が発見されたのである。石垣作りの城は信長が初めてというわけではなく、信長は道三に習ったと考えられるという。また道三も信長も茶の湯を好んだが、信長が最初に茶の湯を習ったのは道三と同じ不住庵梅雪であり、茶の湯も道三の影響だった可能性があるという。さらに信長と言えば楽市楽座で城下を繁栄させたことが知られているが、これも道三が稲葉山城の城下に人を集めて城下町を作ったことを参考にしたと考えられるという。
息子の義龍と対立して命を落とす
しかし道三の改革は常に独断的決定であり、それについていけない家臣の不満が高まっていく。不満を持った家臣達は自ずと道三の息子の義龍の元に集まる。義龍は道三と違って保守的であり、重臣の意見も聞くタイプであって家臣からの信頼が篤くなっていく。そうしてついに道三と義龍が決定的に対立、家臣のほとんどが義龍に付いたために道三は隠居を余儀なくされる。しかしそれでただ収まっている道三ではない。何かと裏で活動を行う。そこで義龍は道三に付いているとみられる弟たちを殺害するという非常事態にうってで、これに危険を感じた道三は稲葉山城から脱出する。
自らの地位を取り戻すには最早武力によるしかないと考えた道三は兵を挙げて稲葉山城に攻め寄せるが、道三の兵は2000に対して義龍の兵は1万7000、勝負は端から明らかであった。信長も援軍に参じたが、途中で敗北が確実なのをみて兵を止める。道三も元より信長の援軍をあてにはしていなかったろうとの話。道三は少数の兵で斬り込んで戦死する。
道三は最後の時に美濃を信長に譲るという書状を残したという。道三が信頼したのは息子の義龍よりも婿の信長であった。信長が美濃を手に入れるのはその11年後である。
信長が道三を参考にしたというのは最近よく言われているところで、そういう辺りから斎藤道三の存在がクローズアップされています。なお信長の寝首をかくべく送り込まれた帰蝶ことお濃の方ですが、この時代の女性のご多分に漏れず、その後にどうなったかの記録がキチンと残っていないとか。そのためにドラマなどでは本能寺の変の時に信長の横で長刀を持って戦う濃姫の姿が描かれることも。今回の大河では帰蝶の存在は大きいようなので、果たしてどういう描き方をするか。
なお道三が築いた稲葉山城の石垣を信長が参考にしたという話があったが、以前に総石垣の城は最初に三好長慶が築いているという話が出ていることから、石垣の使用はこの時代に畿内で流行りだした最新技術だった可能性が高い。まあなんにせよ信長の独創ではなかったわけである。同様に楽市楽座も信長の独創と言うことではなかったことも近年に明らかになっている。要は時代が変革期にあったので、その変革を何でもかんでも信長に結びつけるのはどうやら過剰評価のようである。
忙しい方のための今回の要点
・信長が取り入れた先進的政策は、舅である斎藤道三を参考にした可能性が高い。
・斎藤道三は一代で油売りから大名にまで成り上がったとされてきたが、近年の研究によると父と二代がかりで成り上がったらしい。
・道三は脅威であった隣国尾張の嫡男である信長の元に娘の帰蝶を嫁に送る。これは場合によっては信長の暗殺も考えてのことだったとされている。
・しかし道三は信長と直に会ってみることにし、そこで会見した信長からただ者ではないという印象を受けたことから、ここで両者は意気投合したようである。
・信長も道三を信頼していたのか、今川からの攻撃を受けた時には援軍を送ってもらって、その援軍に本拠の那古野城を守らせるという大胆なことをしている。
・しかし道三は独裁的な態度のせいで家臣が離反し、息子の義龍に美濃を乗っ取られることになる。最後は兵を挙げて義龍と戦うが敗北して戦死する。その前に美濃を信長に譲るという書状を残したとされる。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・まあ道三が美濃を信長に譲ると残したという事については、信長によるでっち上げの可能性もあると思います。何にしろ信長は最初から美濃を狙ってましたので、美濃を獲得するための大義名分に使ったのは間違いない。
・何やら今年になってから大河ドラマ関連番組ばかりだが、今回もその一環。光秀は以前に登場したので今回は道三ということのようだ。ところで、モッくんの道三はやっぱりあまりにイケメン過ぎる気がしてならない。
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