大日本帝国憲法を制定し、総理大臣にもなった伊藤博文。しかし憲法制定は一筋縄ではいかない大変な作業だったというお話。
木戸孝允と大久保利三から憲法を託される
伊藤博文は不平等条約改定の交渉と海外の視察を兼ねた岩倉視察団に、英語力を買われて参加する。そして欧米列強の工業力や軍事力に打ちのめされた挙げ句、日本を近代国家にするためには憲法が制定する必要があると考える。特に大久保利通と木戸孝允はこのことを強く感じていた。しかし彼らは日本で憲法を制定するのは自分達が生きているうちには無理だろうと考え、憲法制定を若き伊藤に託すことになる。
帰国した伊藤は、政府から憲法制定のための調査を正式に命じられる。しかし当時の日本は征韓論で政府が分裂、国内は自由民権運動などで混乱していた。民権運動家は国会の開設と憲法の制定を要求、独自の憲法案などまで登場していたという。しかし伊藤は議会制定は時期尚早で、憲法制定には時間をかける必要があると考えていた。
伊藤の前に立ちはだかった大隈重信
盛り上がる民権運動を政府は強引に弾圧して終熄させる。この頃になると木戸孝允が病死、大久保利通が暗殺され、いよいよ伊藤は託された憲法制定に対する責任を感じることになる。しかし大隈重信から有栖川親王に憲法制定の意見書が提出される。大隈は議院内閣制を採用して直ちに憲法を制定するべきと訴えていた。これは伊藤にとっては寝耳に水の話だった。大隈の裏切り行為と感じた伊藤は激怒するが、同時に大隈の意見書が極めて具体的であったことに対して、このままでは憲法制定の主導権を奪われてしまうとの脅威も感じていた。
そんな時、北海道開拓関連の官有物を薩摩藩閥の民間企業に格安で払い下げようとしていたことが新聞にすっぱ抜かれる。まさに政府と薩摩閥の癒着を示すものだった(薩長藩閥政治の汚職ぶりは凄まじく、そのDNAは今の政府にも脈々と引き継がれている)。この情報を漏らしたのが払い下げに反対していた大隈ではと疑われ、政府は大隈に責任を取らせて追放する。
後9年で国会開設することに
これで伊藤も一息つけるかと思っていたら、この事件をきっかけに自由民権派を中心に藩閥政府に対する不満が盛り上がり、これに対して政府もやむなく9年後に国会を開設することを約束してしまう。いよいよ憲法制定が急がれることとなってしまったのである。
憲法制定の中心となって奔走していた伊藤の前に、またも脅威となる人物が現れる。それは岩倉具視のブレーンであった井上毅である。優秀な官僚であった井上は法律の専門家であり、既に憲法に対してドイツを手本にした憲法にするべきというかなり具体的なイメージを持っていた。井上の意見書を目にした伊藤は、自身は憲法に対する具体的なイメージもまだ持っていなかったことから、このままでは憲法制定の主導権を井上に奪われてしまうと恐れを抱くことになる。伊藤の友人の井上馨によると、この頃の伊藤は常に胃痛に悩まされ、さらには不眠のために飲酒しないと眠れない状況になっていたとか。相当精神的に追い詰められていたようである。
自信喪失になって追い詰められている伊藤に、政府内から「休養を兼ねて欧州に憲法調査に行っては」との声が出、伊藤もそれに乗ることにする。旅立つ伊藤に井上は「あなたはもう必要ないから、ゆっくり休息してきてください」と言わんばかりの手紙を送ったそうな。しかし伊藤はこの渡欧で主導権を奪回できると信じていたという。
ドイツで自信を取り戻して帰国
ドイツに渡った伊藤はベルリンの憲法学者のルドルフ・フォン・グナイトの元を訪れるが、「憲法はその国の歴史に根ざすもので、日本のことを知らない私には教えられない」と断られてしまい、伊藤の調査はいきなり頓挫することになってしまう。さらにドイツ皇帝に謁見した時「議会開設は日本では到底無理だろう」と言われてしまう始末。完全に行き詰まってしまった伊藤に救いの手をさしのべたのはウィーン大学のローレンツ・フォン・シュタインだった。日本に関心を持っていたシュタインは懇切丁寧に国家のあり方を伊藤に説明してくれた。彼は最も重要なのは憲法よりもそれを支えるシステムが大事であるということを教える。1年半の調査で伊藤は憲法の第一人者として自信を持って帰国、井上毅とも対等に議論できる立場となって主導権を回復することに成功する。
伊藤はまずは内閣制度を制定し、自ら初代内閣総理大臣に就任する。そして井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎の3人を集め、伊藤を中心に憲法制定に当たることになる。横浜の東屋旅館で彼らは憲法の起草作業を行っていたが、憲法草案を入れていた鞄が盗まれるという事件が発生、盗んだのが金目当ての泥棒だったために、盗まれた草案は鞄と共に近くの畑に捨てられていたのが発見され事なきを得たが、これに危険を感じた伊藤は夏島にあった別荘に作業場を移す。そして数ヶ月にわたる激しい議論でようやく憲法の草案を完成させる。
明治天皇を説得して憲法発布へ
しかしここに来て明治天皇が最後の壁となる。憲法では天皇の権限は憲法によって規定されることになっていた。自ら親政の意志が強い天皇にどうやって納得させるか。そこで伊藤は天皇の側近である藤浪言忠をシュタインの元に送って立憲君主のことについて学んでもらい、藤浪に天皇に対して憲法について講義してもらうことにする。これで天皇は憲法下における自らの立場を理解して、憲法の制定を見守ることになったという。
枢密院でさらに議論を重ねてから、ようやく憲法全文が決定された。そしていよいよ憲法発布の日。緊張のあまり眠れなかったかグッタリとやつれて宮中に現れた伊藤は、肝心の憲法を官邸に忘れてきてしまうなんていうドタバタまであったそうな。
こうして紆余曲折の結果、明治22年2月11日、大日本帝国憲法が発布されることになった。民衆は提灯行列で歓呼して憲法の発布を祝う。しかし実際には憲法の内容について知っているものは誰もいなかったという・・・。
今回は憲法制定に関わる伊藤博文の悪戦苦闘を紹介。しかしこうして聞いていると前々から何となく感じているところはあったのであるが、伊藤博文という人物、思っていた以上に人間が小さかったようである。最後までプライドに必死にぶら下がっていた様は滑稽にも見える。
この時代に必死で作った憲法ですが、そもそも君主制に基づいて作っている憲法のため、天皇の統帥権に関する部分が神聖不可侵な穴になってしまって、結局は軍部が天皇を担ぎ上げさえしたらやりたい放題ということで、あの無謀な戦争に突入してしまうということになります。この事態は恐らく憲法を制定した連中は全く想定していなかったことでしょう。法律というものはいくら細心の注意をもって制定しても、それの裏をかいてその精神を破壊してしまう悪い奴というのは出てくるものです。さらには安倍のように、いくら法律があってもそもそもそれを守る気が全くないという輩も登場します。そういう輩はまさに法に基づいて厳重に処分する必要があるのですが、それが出来なくなった時が国家の滅びが近い時です。
忙しい方のための今回の要点
・欧州視察で憲法の制定の必要性を感じた木戸孝允や大久保利通は、その作業を若き伊藤博文に託すことになる。
・伊藤は憲法は時間をかけてじっくりと作成する必要があると考えていたが、自由民権運動の高まりなどから政府は9年後の国会開設を約束する事態に追い込まれ、慌てて作業を行うことになる。
・しかしエリート官僚である井上毅などに比べて、自分は憲法に対しての具体的イメージが全く描けていないことに気付いた伊藤は精神的に追い込まれ、休養と視察を兼ねて欧州に出向くことになる。
・そこで伊藤はウィーン大学のシュタインから近代国家のあり方について学び、日本での憲法についての第一人者としての自信を取り戻して帰国、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎らと共に憲法の草案作りに取り組む。
・伊藤らの奮闘で何とか憲法の草案は完成、明治天皇についても側近を通して立憲君主制下の天皇のあり方を学んでもらい、何とか憲法は発布されることになる。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・実は「憲法の発布」を「絹布のハッピ」だと思って、お上がハッピを賜ってくれると思っていた者もいたということを私は聞いたことがあります。よく分からないがとりあえず目出度いらしいから祝え、というのはこれまたいかにも日本人らしいところであります。
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