教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

3/4 NHK 歴史秘話ヒストリア「薬師寺 千三百年の祈り 国宝東塔 全面解体」

 史上初の解体修理中の東塔

 薬師寺の東塔が史上初の全面解体修理が行われているとのことで、それにちなんで薬師寺についての紹介。この前の法隆寺に次いでお寺付いているこの番組です。東塔が建立されたのは730年で日本では三番目に古い塔だという。解体の過程でいろいろと新しい事も分かったという。

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東塔(出典Wikipedia)

 六重に見える東塔だが、実は三重の塔。小さな屋根は裳階と呼ばれ、これがあることが東塔の姿を優美に見せている。塔の内部は1万もの木材で組まれているという。これらの木材に非常に良質のヒノキを使っており、現在では入手が困難な代物である。そのためにできる限り元の木材をそのまま使用しての修理となる。9割の木材がそのまま使用されたという。その一方で需要部分で一大事が発生している事が分かった。中心に立つ巨大な心柱の根元の3メートルほどがシロアリの被害で中が空洞になっている事が分かった。しかし心柱は仏舎利を収める塔の御神体そのものなので取り替えるわけにも行かない(その上にこれだけ巨大なヒノキの柱は今では調達困難だろう)。そこで空洞になった部分を綺麗に削って、そこに接ぎ木をする事にしたという。サイズにズレがあると柱を傷めてしまうため、その調整に1年かかったとか。

 

 

東塔に秘められた超高度な技術

 この東塔は建築の知恵が凝縮されてるという。一本の心柱が通っているが、その後は各階ごとに柱がつながっていない積み重ね構造というものになっているため、シミュレーションで南海トラフの地震の揺れを加えても塔全体はそう大きな揺れを起こさず、倒れる事がない現在の最新の柔構造に通じる耐震設計になっているのだという。高度な測定器や重機も存在しない時代(当然ながらコンピュータシミュレーションも存在しない)に、どうやってこのような高度な建築をなす事が出来たかは謎でもあると言う。さらには塔の土台は土を突き固めた版築工法が取られているのだが、その硬さはコンクリート並みで、土を突き固めるだけでこの強度を出すというのはかなり驚異的であると言う。ここには清めのための銭も埋められていたとの事で、聖なる塔の土台としてかなり手間をかけて建築されたようである。

 今回の修理では東塔の一番上に据えられた相輪に、古代の天皇が薬師寺にこめた願いが刻まれていたことが発見された。そこには喜びが永遠に続くように、幸せが万人に広がるようにという主旨の事が書かれていたという。

 

 

薬師寺に込めた古代の天皇の祈り

 薬師寺の建立を行ったのは壬申の乱をくぐって天皇となった天武天皇である。この時代の世は内憂外患を抱えていた。国内では内乱がようやく鎮まったと思えば皇后が病に倒れてしまった。そして海外では唐の強大化が脅威となっていた。日本は先に百済を救援するために兵を送り、唐の海軍に惨敗を喫した後であり、唐の侵略の可能性は切実たる脅威であった。そんな時に天武天皇は薬師瑠璃光如来本願功徳経という経文に出会う。そこに国内での反乱、皇后の病、外国での危機に星の異常などの現在の異変を予測したかのような内容と対処法として王が生きとし生けるものに慈悲を施し、薬師如来を信仰すれば危機は消え去ると記されていた。これを見て天武天皇は薬師如来を祀る薬師寺の建立を決意する。

 しかし工事を始めて6年後、その天武天皇が病に倒れそのまま亡くなってしまう。後は皇后が持統天皇として即位して引き継ぐ事になる。そして7年後にようやく本尊の薬師三尊の開眼供養が催される。そして薬師寺が平城京に移転されて完成し、今日に至るという。

 

 

薬師寺再建にかけた僧

 しかしその後の薬師寺の通った道は平坦ではなかった。薬師寺の現在の仏像は黒い色をしているが、これは本来は金剛像だったという。それが戦火で焼かれて金箔が溶けてしまったのだという。何度も地震や火災などの災害にさらされ、昭和になった時にの薬師寺はわずかな建物(建造当時の建物は東塔のみ)を残すだけの粗末な寺院となっていたという。本尊が置かれた金堂は安土桃山時代の急ごしらえの粗末なもので、雨が降ると傘をささないとお経が唱えられない状態だったという。ここを訪れたアメリカ人は、こんな粗末な建物にこんなに重要な仏像を置いておくぐらいならアメリカに売ってしまえと言ったという。

 この状況をなんとかしないといけないと考えたのが、昭和になって薬師寺の管長となった高田好胤だった。子供の頃から話がうまかった彼はその特技を活かした軽妙な法話で修学旅行生などの心をつかみ、薬師寺の人気を盛り上げる事に貢献する。ちなみにその時の修学旅行生の感想文に「寺は金閣、庭は竜安、坊主は薬師寺ベリーグッド」というものがあったとか。なお好胤の軽妙な語り口は落語家の桂米朝も参考にしたという。

 参拝者も増えてきたところで好胤は金堂再建を決意する。しかしそれに必要な予算は当時の金で10億円だった。その費用を賄うために好胤が取り入れたのが写経。一回1000円で写経をしてもらうというもので、100万人が写経をすれば予算達成というものだった。好胤は時にはテレビにも出演しタレント坊主と陰口を叩かれながらも写経のPRを行った。しかし1年後、集まったのは2万巻。これでは無理だと思っていた好胤の活動を支えたのは、かつて修学旅行生として訪れた人たちだった。大人になった彼らが好胤の活動を知って写経の話を広げてくれたのだ。そして8年、見事に金堂は再建される。お披露目の時に好胤は「皆様おめでとうございます」と挨拶したという(ヤクルトの若松監督か?)。金堂は寺のものではなくて皆様のものという思いが籠もっているという(若松監督のはただのボケだったが)。写経は再建された金堂の2階に納められているという。今でも薬師寺の写経は人気で現在までに870万巻も集まり、その後に西塔や大講堂も再建されている。

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再建された西塔(出典Wikipedia)
やや軒先が反り返って見えるが、これは年月が経てば真っ直ぐになると好胤氏が言ってた記憶がある

 

 

 構成は法隆寺の時と似た感じで、最後はプロジェクトXでした(実際に大昔にプロジェクトXのネタになった記憶があるのだが)。ちなみに薬師寺は私も小学生の時に遠足で訪れており、坊さんの話がやたらに面白かった記憶が残っているのだが、どうやらあれが高田好胤氏だったようだ。ちなみに私や上の世代は「薬師寺の坊主の話は面白い」というのは共通の有名な話のようで、ゆうきまさみの「究極超人あ~る」の修学旅行のエピソードでも「薬師寺の坊さんの話、面白かったな」という台詞が出てきてます。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・現在薬師寺の東塔が創建以来の解体修理中。その過程でいろいろな事が分かってきている。
・東塔は現在の最新の柔構造建築物に匹敵するような耐震構造となっている。
・また頂上の相輪に喜びが永遠に続くように、幸せが万人に広がるようにという主旨の文言が刻まれていた。
・薬師寺を建立したのは天武天皇で、内憂外患の中で薬師信仰によって問題が解決するという経文に出会った事で薬師寺の建立を決意した。
・薬師寺は天武天皇の死後に皇后から即位した持統天皇によって完成する。
・しかしその後の薬師寺は戦国自体に火災など何度も災害に遭い、昭和時代には東塔以外の建物は残っておらず、金堂は雨漏りが激しいような悲惨な状態だった。
・この事態を解決するために管長の高田好胤は自らの話術を活かした軽妙な法話で修学旅行生の心をつかみ、薬師寺の人気向上に貢献する。
・そして好胤は金堂再建のために写経勧進を行う事にする。彼はあらゆる手でPRに励んだが、その時に大人になったかつての修学旅行生達の輪によって目標を達成する。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・芸は身を助けるなどといいますが、好胤氏の話術はまさにそれでした。しかし実際に残っている好胤氏の法話の音声を聞くと、米朝が参考にしたというのが確かに納得できる。人を引き込む独特のテンポのようなものがあり、このテンポが確かに米朝の落語と共通している。

 

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