教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

3/25 BSプレミアム 英雄たちの選択「逆転人生に賭ける!~関東武者 新田義貞の挑戦~」

 今回は後醍醐天皇の建武の新政に協力し、鎌倉幕府滅亡という大功績を上げたものの、足利尊氏に敗れて歴史の影に埋没した感のある新田義貞について。磯田氏によると、足利尊氏という超リアリストと後醍醐天皇という豪腕政治家に挟まれた普通の人が新田義貞との評。作家の高橋源一郎氏によるとスティーブ・ジョブスについてしまった普通の部下の悲劇だとか。

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新田義貞

 

鎌倉幕府に反旗を翻して幕府を滅ぼす殊勲を上げる

 新田義貞は北関東の武士だった。義貞が治めていたのは現在の群馬県太田市。多くの水田が存在する豊かな地であったという。鎌倉幕府末期、天皇親政を目指した後醍醐天皇は鎌倉幕府討伐の狼煙を上げ、関西では楠木正成が幕府の大軍を相手にゲリラ戦で奮戦していた。義貞も正成討伐に出陣したが苦戦を強いられたという。戦中に一度本国に戻った義貞に対し、幕府は臨時の税を要求する使者を送ってくる。この時、義貞はこの使者の一人を殺害、もう一人は捕縛して幕府に対して反抗の兵を挙げる。これは義貞にとっては大きな決断だったという。一般的には落ち目になった鎌倉幕府を義貞が見限ったというようにとるが、東京大学の谷口雄太氏によると、実際にはこの頃の鎌倉幕府は北条氏に権力を集中を進めていて、むしろ外目には盤石に見えていたという。それだけに義貞にとっては一世一代の大胆な決心だったはずであるとのこと。歴史学者の呉座勇一氏も同じ事を言っている。

 一方、畿内でも足利高氏が幕府に背いて六波羅探題を落とすという事件が発生する。義貞も呼応するように挙兵する。当初の新田の兵は150騎しかいなかったというが、これに鎌倉幕府に不満を持つ御家人が呼応、途中で鎌倉から脱出した後醍醐天皇の息子の千寿王も合流して大軍勢となった新田軍は一族に犠牲を出しながらもついに鎌倉幕府を滅ぼす

 

建武政権の中枢に抜擢されるが尊氏と対決することに

 新田義貞はその功によって後醍醐天皇による建武の新政において中枢を担うことになる。そして後醍醐天皇から尊の字をもらった足利尊氏は建武政権の武士のトップの位置につく。しかし天皇を中心とした建武の新政は武士たちの不満につながる。特に恩賞についての不満が渦巻いていた。そして関東に反対勢力の討伐に向かった尊氏が後醍醐天皇の命を無視して鎌倉に居座るという事件が起こる。そこで後醍醐天皇は新田義貞に尊氏追討を命じる

 太平記では新田義貞と足利尊氏はライバルのような扱いだが、現実はそうではなかったという。そもそも新田氏は足利氏と並んで源氏の名門だったのだが、長年の間に両者の差は開き、この時点では新田氏は実質的に足利氏の配下の位置だった。つまりは新田が足利を討つというのは一種の下克上であったという。足利討伐に向かった義貞だが、反撃に遭って撤退、京都を奪われ後醍醐天皇は日吉大社に逃亡する。東国からの援軍を受けて京都を奪還した義貞だが、西国の武士を従えて攻め上ってきた尊氏に惨敗して比叡山に撤退することになる。リアリスト二人の間で翻弄される「普通の人」義貞の悲哀がここに滲むという。

 

後醍醐天皇の裏切りに遭う

 日吉大社に籠もって徹底抗戦していた義貞だが、何と後醍醐天皇が尊氏と勝手に講和を進めてしまう。尊氏の「我々は天皇に反抗しているのではなく、君側の奸である新田義貞を排除するために戦っているのです」という見え見えの言い訳に後醍醐天皇が乗ったわけである。後醍醐天皇が日吉大社から立とうとしたその時に、新田義貞と共に戦い続けていた堀口貞満が不穏な噂を聞きつけて駆けつけてくる。堀口は涙ながらに新田一族と堀口の天皇への忠誠を訴えたという。義貞も3000の兵を引き連れて駆けつける。ここで義貞の決断が迫られる。尊氏と徹底抗戦するか、それとも尊氏に服従するかである。

 

第三極形成を狙うも北陸で果てる

 とは言うものの、実際に番組ゲストの議論も、尊氏に服従しても結局は殺害されるだけという結論(私も同感である)。だから実質的に決断は選択肢がない。この辺りが「運命に流されるしかなかった人」ということにもなる。実際に義貞はここで北陸に落ち延びて徹底抗戦する道を選ぶ

 京に戻った後醍醐天皇も案の定尊氏と上手く行くわけもなく、結局は吉野に逃れて南朝を設立して尊氏に対抗することになる。だが義貞はここに合流しようとする動きは見せなかった。この時になって義貞はついに後醍醐天皇を見限って北陸を中心とした第三極を作ろうとしていたのではとしている(選択としては正解だと思うが、いささか遅すぎたのは否めない)。しかし尊氏の激しい追討にあって敗北、結局は戦いの最中に命を落とす。

 

 結局は運命に翻弄された悲しき「普通の人」だったのであるが、正直なところ、もっと早く後醍醐を見限っていればという気はする。ただそれができなかったのが「普通の良い人」だった所以。ただこの新田義貞の行動は後の戦国時代の下克上や群雄割拠を先取りしていた行動とも言え、義貞のこの時の行動が後の戦国時代につながったのではという解釈もあったが、実際には別に義貞の行動が範になったわけではなく、時代の空気がそういう方向に向かいつつ合ったということだろう。もしここで義貞が北陸で独立勢力を築く事態になっていたら、室町時代の前に戦国時代が到来していた可能性も無きにしも非ずである。そうなっていたら、随分と様相の異なる戦国時代となっていたであろう。全体的に歴史が早回しになるので、日本において封建時代を経由して絶対王政の時代を経て、もしかしたら日本においても市民革命による近代国家成立という歴史が展開したかもなんて妄想してしまう。そうなっていたら、今のような無能な政府に盲従するおとなしい民ではなく、もっと積極的に政府に対して行動する国民になっていたかも・・・これはあくまで私の妄想です。

 

忙しい方のための今回の要点

・新田義貞は後醍醐天皇の鎌倉幕府討伐の呼びかけに答え、関東の兵を集めて鎌倉幕府を滅亡させる功績を上げる。
・後醍醐天皇の建武政権で要職に抜擢された義貞であるが、同じく鎌倉幕府討伐で功績を上げていた足利尊氏が後醍醐天皇に対して非服従の意志を示したことから、尊氏討伐を命じられる。
・太平記では新田義貞と足利尊氏は対等のライバルのような描き方をされているが、実際にはこの時代の新田は足利の支配下であり、これは一種の下克上であるとする。
・義貞は尊氏と戦うものの敗北、京を奪われ後醍醐天皇は日吉大社に逃れる。義貞は一度は京を取り戻すが西国の兵を率いて反撃してきた尊氏に惨敗、結局は後醍醐天皇と共に日吉大社で抗戦する。
・しかし後醍醐天皇が尊氏と勝手に講和してしまう。義貞はこの後も北陸で尊氏と戦い続けるが戦において命を落とす。

 

忙しくない方のためのどうでもよい点

・新田義貞は戦術レベルにおいての能力はあったようですが(そうでないと鎌倉幕府を落とせない)、残念ながら政治家としての能力はなかったようです。その辺りが結局は滅亡に追い込まれた理由。これに対して後醍醐天皇は絵に描いたような権謀術策に長けた政治家そのものですから、結局はいいように手玉に取られた感がありますね。
・一番最初の「鎌倉幕府を滅ぼす」という時には果断な決断をしたのですが、その後は決断しようがなく、情勢に翻弄された感があります。結局はこの辺りがあからさまな彼の悲劇ではあります。

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