教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

4/27 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「信長の夢!安土城ミステリー」

常識外れの安土城

 織田信長が築城した安土城。いろいろな意味でその後に建てられる城の基準を作ったとも言われている画期的城郭である。この築城に込められた信長の意図は。

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安土城模型

 まず信長が他の大名と異なっていた点の一つが居城に対する考え方。他の大名はほとんど居城を変えないのに対し、信長は勢力の拡大に伴って居城を転々と変えている。最初は那古野城から清洲城、さらに小牧山城を経て岐阜城、そして近江を手に入れて京を睨むのに築城したのが安土城である。

 

総石垣の巨大な城

 安土城築城を担当したのは丹羽長秀。彼の政治・経済の手腕が見込まれたのだという。彼は領国から労働力を京都・奈良・堺などから職人を動員して築城に当たる。信長は築城開始後1ヶ月で安土に居を移しており、これは嫌でも現場にプレッシャーをかけることにもなっているという。

 安土城の特徴の一つが総石垣。信長は小牧山城から石垣を採用しているが、これは当時の最先端の技術であった。石垣の石は琵琶湖周辺の湖東流紋岩が使用された。きめが細かくて硬いので石垣に適した石材だという。この際に信長は大きな石だけを使用させ、なかには重さ100トン以上の巨石もあり、1万人を動員して3日がかりで運び上げたという。ただしこれだけの大工事だけに、建設中の事故による死者もかなり出ているとか。

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安土城の石垣

 安土城の石垣は当時の最新の技術を導入して作られたことを示す一例として、400年以上が経過しているにもかかわらず孕みだし(石垣内部に雨水が溜まって石垣が膨らんでくる現象)が起きていないことからも分かるという(そもそも野面積みの石垣は排水性が高い)。

 

家臣達を安土に集める

 安土城で話題となった一つが真っ直ぐに伸びる大手道だが、これは城郭防御の常識に反したものである。これについては家臣の屋敷のある地域は無防備な真っ直ぐの道にし、その上の信長がいる部分では防御を施していることから、「守られるべき者とそうでない者」を明確に分けて信長が特別であることを示す作りにしているというのが番組(と言うか、千田氏)の解釈である。

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家臣の屋敷はこの大手道の脇に配された

 また信長は家臣達に安土の城下で暮らすことを命じた。しかし移転に従わない者も少なくなかったことから、家臣に家に火を放たせたとの逸話も残っている。信長は武士のあり方をも変えたという。さらには安土城には城下町を作り、街道を移転して町中を通すことで商業の発展をも促したという。この時に信長が取った政策の一つが楽市楽座である。

 

信長の権威を示す巨大天守

 10階立てのビルに相当する高さがあるという巨大天守であるが、その5階は朱塗りの八角形構造になっていたとされている。内部には龍の彫刻などがなされており、これは中国の皇帝を意識したものであり、自身が日本の支配者であるということを示しているのではとのこと。実際に天皇を迎える御幸の御間の方が天守よりも低い位置に作られており、信長が天皇よりも上であることを示しているという。八角形の間はそもそも神聖なものを示しており、まさに信長が天皇を凌駕しているという宣言でもあるという。

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安土城5,6階の実物大復元

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5階内部

 5年以上を要して完成した安土城。完成した後に信長は入場料を取って家臣たちに見学をさせているという。この辺りも「商売人信長」を示すものであったようである。

 

安土城天守の謎の構造

 なお安土城跡に残っている礎石の跡と文献に残っている天守の広さが食い違うという謎があるのだが、これについて千田氏は天守の一階は懸け造りという土台よりも柱がはみ出した作りをしていたと見ている。千田氏の推測は天守台の外に足場のあるバルコニーのようなものが迫り出していたのではというもの。実際に近年の発掘調査の結果、その柱の跡らしきものが発見され、そこまで天守の一階が迫り出していたと考えると、文献の広さと合致するという。

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天守礎石跡

 さらに信長は安土城ライトアップまで行ったことが記録に残っている。盂蘭盆会の際に城を数千の提灯でライトアップしたとのことである。

 しかし間もなく信長が本能寺の変で倒れ、その13日後に安土城も炎に包まれる。完成からわずか9ヶ月後のことだという。

 

 安土城について今まで諸々言われていたことの総集編の印象。正直なところ、特別に新しい話はないです。

 とにかく安土城は諸々の意味で「非常識城郭」だったのですが、これが新しい城郭のスタンダードとなり、その後に天下を取った者は皆、安土城を凌ぐ巨大城郭を造ることでその権威を占めそうとしている。ただ明らかにパフォーマンスをかなり重視していた安土城に対し、秀吉の大阪城、家康の江戸城はもっと実用性を重視している辺りは各人の性格の違いも現れていて面白いところ。信長の安土城は、攻撃されることを想定していないように思えるのに対し、大阪城も江戸城も攻撃に対して極めて堅固に作ってある。この辺りの大胆さというか細心さが欠けているという辺りは、信長が志し半ばで本能寺で倒れる原因ともなったと思われるのでもあるが。

 なお本能寺内部は狩野永徳による障壁画などが多数存在したようであるが、これらは安土城と共に失われている。同様に大阪城内部にも狩野永徳による作品が多数あったようである。権力者に近すぎたがゆえに狩野永徳の作品は権力者と共に失われており、この辺りが今日に残存する永徳作品の少なさにつながっているとか。安土城の障壁画など、もし残っていたら今頃は国宝クラスの作品なんだろうが。ああ、勿体ない。

 

忙しい方のための今回の要点

・信長が築城した安土城は、巨大な石を用いた総石垣作りの城で、当時の常識を覆すものであった。
・信長は家臣を強引に城下に居住させており、また城下町を作ると言うことも行っている。
・天守には信長の権威を示す仕掛けが諸々なされており、明らかに信長が天皇をも凌駕したことを示すものになっていた。
・しかしこの城は、完成後わずか9ヶ月で本能寺の変の後に焼失している。

 

忙しくない方のためのどうでもよい点

・安土城についてはあまりに記録が残っていないために、実際は今回説明されていたことの一部は未だに「仮説」なんですよね。だから今後の調査で見解が覆る可能性はかなり高い。

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