今回の主人公は「富山の薬売り」。何やら唐突感のある地味ネタであるが、彼らがどのように成立して歴史にどう関わったかという話。
藩財政建て直しのために製薬業に力を入れる
まず富山が製薬業に力を入れるようになったのは富山藩主の前田正甫に遡るという。富山藩は立山からの急流などのために洪水や火災などの天災が多く、財政的に困窮していたという。それに対応できる収入源をと悩んだ正甫が思いついたのが、自身がコレクションを趣味としていた薬(彼はこれ以外にも古銭収集も行っていたらしい)。腹痛に苦しめられていた正甫は反魂丹という漢方薬を愛用しており、この製法を公開して生産を奨励したのだという。薬の製造には大量の上質な水が必要なのだが、立山連峰を擁する富山は銘水に恵まれていた。また中国との交易が盛んなために漢方薬の知識も豊富であったという。富山城下の清水地域には最盛期には500軒の製薬工房が軒を連ねることになったという。
そして富山の薬の名を知らしめた事件が「江戸城腹痛事件」だとか。江戸城に登城した秋田輝季が急の腹痛を起こし、それを前田正甫が持っていた反魂丹で治療したという事件だそうな。これで反魂丹は一躍有名になったらしい。
顧客サービスで全国に広がっていく
とは言うものの、大名はともかく庶民にとってはやはり薬は高価な物であった。そこで薬売り達が行った工夫が「先用後利」というシステム。いわゆる置き薬と言う奴で、使った分だけ後で支払ってもらうという仕組みである。これは立山の山伏がお札を置いていって、翌年に御利益を感じたらお金をもらうというシステムを参考にしたのだという。こうして富山の薬は全国に広がっていく。
しかし享保の改革が思わぬ逆風となる。幕府が諸藩に財政の健全化を求め、各藩が特産物の開発などに尽力して藩内の産業を保護しようとした結果、外から入る薬売りなどを閉め出す事例が増えたのだという(全国が保護貿易体制になったようだ)。そこで薬売り達は版画などのオマケをつけたり、農家には種籾を渡すなどのサービスを行ったという。そして懸場帳というデータベースを作成して、徹底して顧客向けのサービスを強化したのだという。また富山には薬売りを育成するための臨池居という学校まで設立された。
明治維新を裏から支えた薬売り達
さらに富山の薬売りが明治維新に関与したという例もあるのだとか。財政難に苦しむ薩摩藩は中国に昆布を販売することで利益を上げようと目論んでいたが、昆布の輸出は幕府しか出来ないことになっていたので、富山の薬売りに金を貸したことにして、薬売りが昆布を買い付けて薩摩に回すという抜け道を使用したのだという。富山は北前船の中継地でもあったため、昆布の入手は容易であった。これで薩摩は財政再建する。
その後も薩摩と薬売りの関係は続き、薬売り達はその人脈を利用して隠密行為まで行っていたという。また病になった薩摩藩士の看病をした薬売りまでいたらしい。このような薬売りの働きが島津久光に感謝され、刀を拝領した者までいる。
以上、時代の影で活躍していた地味な人たちの話です。ちなみに今でも富山の薬売りは健在で、富山を発祥の地としている全国的製薬メーカーも少なくないです。後は私がイメージする富山の地場産業と言えば・・・YKKでしょうか。
産業の方は正直なところ余り詳しくないのですが、やはり富山と言えば海産物を中心に海の幸が豊富なイメージがあります。市街には美味い寿司屋なんかも多数あり、郊外の回転寿司屋まで含めて寿司屋のレベルが異様に高い地域でもあります。ただし暮らすには夏の暑さがとにかく異常なので(私が夏に富山駅に降り立った時には、出口から吹き付ける風がエアコンの室外機の風が直撃しているのだと勘違いした)、夏の日中に戸外をウロウロとしていたら命取りになります。
忙しい方のための今回の要点
・富山の薬売りの発祥は、藩主の前田正甫が薬を藩の特産として財政強化を図ろうとしたことに端を発している。
・全国に広がった薬売りは、先用後利(置き薬をして、使った分だけ後で支払う)のシステムで顧客を増やしていった。
・しかし享保の改革で各藩が地場産業を優先しようとした結果、多くの薬売りが閉め出されることとなった。彼らはそれに対応するため、徹底した顧客情報の管理と顧客サービスを行った。
・幕末には密かに薩摩藩の昆布交易の仲介をしたり、隠密の役割まで果たして島津久光に感謝された。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・よく山伏が各地を回って情報を集める隠密だったりしましたが、富山の薬売りもそういう役割を果たしたことがあるんですね。江戸時代とかには各地に不審がられずに行き来できる人間というのは貴重でしたから。だから松尾芭蕉隠密説なんてのまである。
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