教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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6/15 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「杉原千畝・ユダヤ人を救った命のビザ」

 第二次大戦の時、ナチスの迫害を逃れようとするユダヤ人のためにビザを発給したことで知られている杉原千畝。彼を紹介するのが今回。

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杉原千畝

 

父の意志に反して語学の道を選んだことから外交官へ

 岐阜県八百津町に生まれた杉原千畝は幼い頃から学業優秀で、父親は医者になることを期待していたという。しかし彼自身は外国語に興味を持ち、英語の教師になりたいという希望を持っていた。18才で上京して早稲田大学に入学する。しかし父の意向に背いていたために仕送りがなく、たちまち生活費に困ることになる。そんな時に外務省の官費留学生募集を見つける。3年間の学費と留学先への渡航費が支給され、学費は最大で年2500円。大卒の初任給が40円の時代なので破格の条件である。杉原はこれに応募することにする。しかし英語の募集がなかったため、当時人気だったスペイン語を選択し、猛勉強の末に合格する。ところがスペイン語の希望者が多数だったためか、ロシア語の選択に回されてしまう。

 こうして杉原は官費でハルピン日露協会学校に留学する。ロシア語の勉強に励むことになる。この時に、この学校の創設者の後藤新平の言葉「人のお世話にならぬよう 人のお世話をするよう そして報いを求めぬよう」を心に刻むことになる。24才で外務省に正式採用された杉原はハルビン日本総領事館に赴任する。ここで白系ロシア人と交流して情報網を築き、その後に満州国外交部に移籍する。ここで北満州鉄道を巡る交渉で杉原は活躍する。日本とソ連で共同経営になっていて、何かと紛争のためになっていた北満州鉄道の経営権を満州国がソ連から買い取ろうとしていたのだが、ソ連の提示額は6億2500万円、満州国の提示額は5000万円と開きが多すぎて交渉が暗礁に乗り上げていたのである。この時に杉原は白系ロシア人のネットワークから、ソ連が交渉中に車両を勝手にソ連に引き揚げているという情報を入手する。これは問題行為であり、ここをついてソ連に譲歩を迫り、1億4000万円まで譲渡額を下げさせたことで交渉がまとまる。これで杉原の外交官としての名声が高まることになる。

 

大戦前夜のリトアニアに赴任する

 そして1939年8月28日、杉原はリトアニアのカウナスに派遣される。杉原がリトアニアに送られたのは、ノモンハン事件を外交的に決着させるための情報を入手するためであったという。しかし当時のヨーロッパはまさに大戦前夜であった。カウナス到着のわずか4日後にドイツ軍がポーランドに侵攻、第二次世界大戦が勃発。さらにソ連も東側からポーランドに侵攻する。そして翌年の6月、ソ連がリトアニアに強引に進駐を開始、カウナスの各国の大使館に8/25を目処に閉鎖することを要求してくる。その準備をしていた7/18の朝、杉原は領事館の周りに押しかけている大勢のユダヤ人を目撃する。

 代表者を呼んで話を聞くと、ヨーロッパから逃げてきたユダヤ人が逃走のために日本の通過ビザを発給して欲しいのだという。ナチスだけでなくスターリンもユダヤ人を敵視していたため、リトアニアに逃げてきたユダヤ人にも危険が迫っていたのである。杉原よりも先にオランダ名誉領事のヤン・ズヴァルテンディクが彼らに手をさしのべ、南米のオランダ領のキャラソーやスリナムならビザがなくても入国できると彼らに教え、独断で入国許可のビザをユダヤ人に与えていた。しかし彼らがそこにたどり着くには、シベリア鉄道経由で東側に逃げるしかないのだが、ウラジオストクから先に進むには日本の通貨ビザが必要だったのである。

 

外務省の意向に反してビザの発給を決断する

 杉原は外務省に直ちに通過ビザ発給の許可を求めるが「渡航先の入国許可や渡航費用を持たない者には通過ビザを発給してはならない」との返答が帰ってくる。しかし彼らの中には入国許可を持っていない者も多く、さらには着の身着のままで逃げてきて渡航費用を持っていない者も少なくなかった。あれだけ大量の者にビザを発給すれば服務規程違反でクビになる可能性もある。杉原は悩むが息子の「あの人たちを助けて」という言葉と、「妻の「後で私たちはどうなるか分かりませんが、ぜひそうしてください」の言葉で杉原は腹を括る(息子も妻もなんと出来た人物なんだろう)

 杉原のこの行動を支えたものには日露協会学校での後藤新平の言葉があった。さらにはリトアニアで知り合ったユダヤ人一家を通して、ポーランドから逃れてきたユダヤ人たちと出会って、その苦境を実際に聞いていたのだという。

 杉原は1日250通ものビザを愛用の万年筆が折れるまで書き続けた。その作業に手だけでなくやがては体中が痛み出したという。杉原からビザを受け取った最初のユダヤ人が日本に到着した8/16に外務省から、行き先国の入国手続きが済んでいない者がいて上陸を許可できなくて困っているから、入国手続きが済んで十分な渡航費用を持っている者以外にはビザを発給しないようにという通知が届く。杉原はこの電報を一旦黙殺することにする。そして「本ビザはウラジオストク乗船までに入国許可及び乗船券予約を完了するべきであることを条件にして発給した」という印を押してビザを発給する。杉原は領事館を閉鎖するまでの12日間、この条件付きビザを発給し続ける。

 

ギリギリまでビザを発給し続けた杉原

 8/28にカウナスの領事館を閉鎖するが、この時になってようやく外務省に電報の返事を送る。そこには「ウラジオストク到着までに入国許可と乗船券予約を済ませることを条件にビザを発給しています」と記しているという。これは杉原がビザを発給したユダヤ人がウラジオストクに到着する前に日本に届き、彼らのビザが偽造ではないことを証明することになった。さらにはわざわざ「発給しています」と現在進行形で書いたことにもポイントがあり、これに対して外務省からは9/2に「以降は先の電報の条件を厳守するように」と返ってきたことから、それまでのビザは有効であるということになったようである。しかしこれを聞いていると、どうも本国の外務省の方にも表だって杉原の行為を認めることは出来ないが、密かに黙認しようとしていた者がいたのではという気がする。

 杉原が救ったユダヤ人は6000人とも言われており、彼が発給したビザは2140通まではリストがあるのだが、その後はリストを残している余裕さえなくなったらしい。杉原の行為はナチスにも伝わっていたので、実は杉原は命を狙われる危険さえあったという。しかし杉原はユダヤ人を救うことは日本の国益にもつながるという信念を持っていたという。

 領事館を閉鎖した後はベルリンに向かうことになっていたが、ベルリン行きの汽車を待つホテルにまでユダヤ人はやって来たという。そこで彼は公印がなくても発給できる渡航許可書を発行したという。杉原の行為は列車に乗ってまで続いたという。発車の汽笛が鳴り「許してください、もうこれ以上書くことは出来ません。皆様のご無事を祈っています。」と言う杉原にユダヤ人は「スギハラ、私たちはあなたを忘れません。いつか必ず再会しましょう」と語ったという。

 

杉原の意志を汲んだもう一人の人物

 しかしユダヤ人達がウラジオストクから日本に向かっていた時、それまでユダヤ人を受け入れていた南米が受け入れを拒否するという事態が発生(ナチスの支配が及んできたのだと思われる)、日本からウラジオストクに対して渡航先が中南米諸国の場合には日本に向かう船に乗せる許可を出さないようにという指示が飛ぶ。しかし乗船許可が得られなかったユダヤ人はソ連に拘束され、そうなると命の保証はない。この時に「ユダヤ人が命の危険にさらされることを分かっていて追い返すことは出来ない」と外務省の方針に異を唱えたのがウラジオストク総領事代理の根井三郎だった。彼は杉原とは日露協会学校での同窓生だった。根井も杉原と同じく後藤新平の教えを大切にしていた。彼は外務省に「日本の領事が発行したビザを行き先が中南米だと言うことで船に乗せないのは、日本が発行したビザの威信を損なうことになり面白くない」と電報を打ち、すべてのユダヤ人を船に乗せた。敦賀に到着したユダヤ人達は現地の人々に温かく迎えられて、敦賀の町が天国に見えたと語ったという。

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根井三郎

 なおベルリン到着後にプラハの日本総領事館の領事代理を務めるように命じられた杉原はプラハでもユダヤ人のためのビザを発給していたという。この後、プラハでも多くのユダヤ人が強制収容所で殺害されている。

 

戦後、恩を忘れていなかったユダヤ人達

 終戦後、外務省を退職した杉原は商社に勤めて海外勤務することになる。ユダヤ人達は杉原を探していたのだがなかなか見つからなかったという。それは杉原が自らの名前を「チウネ」でなく、外国人が発音出来やすいように「センポ」と読ませていたからだとも言われているとか。昭和43年、63歳になった杉原はユダヤ人達の消息が気になって調べ始めていた。そんな時に日本のイスラエル大使館から連絡が入る。大使館に出向いた杉原を彼によって救われたユダヤ人が待っていた。カウナスでユダヤ人の代表だったニシェリだった。28年ぶりの再会を二人は喜んだという。そして昭和60年、杉原はイスラエル政府から日本人で唯一「諸国民の中の正義の人」という称号をもらったという。杉原が亡くなるのはその翌年である。2011年の大震災の時、イスラエルは「恩返し」として日本に多大の支援を行ってくれたという。


 トルコとのエルトゥール号事件の件に対するトルコ航空の派遣のことといい、まさに「情けは人のためならず」である。外国に対して憎悪を輸出するばそれは憎悪として帰ってくるし、慈悲を輸出すればそれはまた思わぬところで帰ってくるということである。杉原の行為は外交官としては完全に越権行為だったのだろうが、しかし人道的観点から評価されるべき行為であったのは間違いない。とにかくナチスという極めて異常な権力から犠牲者達を救い出したのであるから。それを思うと、その後の日本が結局はそのナチスと同盟を結んで破滅への道を歩んでしまったことがどれだけ愚かしいか。

 ちなみに彼は近年になって注目されたことで映画やドラマにもなったようですね。

     

 

忙しい方のための今回の要点

・杉原千畝は医師にしたかった父の意向に反して、語学の道を選んだために生活費に窮することになり、外務省の官費留学生に応募する。
・日露協会学校でロシア語を学んだ杉原は、創設者・後藤新平の人のお世話にならぬよう 人のお世話をするよう そして報いを求めぬよう」という教えを深く心に刻む。
・ハルピンに赴任した杉原は、北満州鉄道の経営権のソ連との交渉をまとめたことで名を上げる。
・その後リトアニアに派遣されるが、まもなくドイツのポーランド侵攻によって第二次大戦が勃発、ソ連もポーランドに侵攻した後にリトアニアに進駐、日本領事館も退去を勧告される。
・その時に迫害を逃れてきた多くのユダヤ人が、渡航のための通過ビザを求めて日本領事館に押しかけてくる。杉原は彼らを救うために外務省の指示に反して通過ビザを大量に発給する。
・杉原のビザ発給は彼がベルリン行きの汽車で旅立つまで続き、6000名ぐらいユダヤ人が彼のおかげで救われたという。
・ウラジオストクに到着したユダヤ人の中には中南米の政策変更で日本への渡航拒否をされる可能性のあるものもいたが、ウラジオストク総領事代理で杉原の同窓生である根井三郎が外務省に抗議して彼ら全員を渡航させた。
・戦後、60歳を過ぎてからようやくユダヤ人達と再会した杉原は、昭和60年にイスラエルから日本人で唯一「諸国民の中の正義の人」という称号をもらった。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・杉原は6000人ぐらいを救ったということですが、それでもナチスによって虐殺されたユダヤ人は100万人単位でいるということですから、ほんの微々たる一部なんですよね。ナチスの行為がどれだけ常軌を逸していたかということです。ヒトラーのようなチンケな誇大妄想狂の男が、ドイツ丸ごとをこのような狂気に駆り立てたということは、歴史の脅威でもあり、今後も注意すべき危険な事例でもあります。それだけに「ナチスに習え」などというような馬鹿は権力者にするべきではない。

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