教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

"間一髪の勝負だった新撰組の池田屋事件" (7/6 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「新撰組 池田屋事件24時」」から)

尊王攘夷派の中心人物をマークしていた新撰組

 テロリズムの嵐が吹き荒れ、治安の乱れが激しかった幕末の京。そこの治安維持のために投入されたのが、身分に関わらず取り立てられた剣豪集団の新撰組。最初は単なるゴロツキのように言われていた彼らが、一躍名を上げたのが池田屋事件である。御所を放火して京を混乱させるという長州藩士の陰謀を未然に叩きつぶしたことで、新撰組はその地位を大きく向上させることになった。しかしそれは実はかなり際どい勝負でもあった。

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新撰組局長・近藤勇

 池田屋事件の4日前、新撰組は桂小五郎と並ぶ尊王攘夷派の中心人物である肥後藩の宮部鼎蔵を追っていた。吉田松陰の親友であり、彼の志を継いでいる宮部は新撰組からは要注意人物としてマークしていたのである。また宮部には長州藩と共に御所に火を放ち、混乱に乗じて会津の松平容保と中川宮の首を狙っているという噂があった。長州藩は政変で京から追われたのであるが、その政変を仕掛けたのが容保と中川宮であったので、彼らの命を狙っているのだという。

 しかし新撰組はなかなか宮部の足取りをつかむことが出来なかった。そこで宮部がかつて定宿にしていた南禅寺塔頭の前で張り込みをしていたところ、宮部の小間使いの忠蔵がやって来たので新撰組は彼の身柄を拘束する。宮部の行方を追求するもののなかなか口を割らない忠蔵に作戦変更、南禅寺の山門に忠蔵をくくりつけてさらし者にし、仲間が助けに来たところで密かに後を追跡した。忠蔵は四条の枡屋という店に逃げ込む。

 

とんでもない大陰謀が露見する

 枡屋は以前から幕府側が目をつけていた店だった。局長の近藤勇が直ちに調査を命じる。その結果、枡屋の主人の古高俊太郎は尊王攘夷派と深いつながりがあることが判明する。元々古高は尊王攘夷派の梅田雲浜の弟子で、安政の大獄で投獄中に病死した師の志を継いで尊皇攘夷運動に参加していた。枡屋を継ぐことになったの彼は、商人を隠れ蓑にして諜報活動に打ち込み、枡屋は尊王攘夷派の活動拠点になっていた。また有栖川宮とつながりのあった古高は、長州藩に朝廷の情報をもたらす連絡係でもあった。そして宮部も枡屋に仮住まいしていた。

 早速、新撰組の隊士は枡屋へ取り調べに乗り込む。これが池田屋事件の当日である。しかし忠蔵が捕まったことで危険を感じた長州藩士達は尊王攘夷派の志士たちを藩の屋敷で匿っており、枡屋には古高しかいなかった。新撰組は徹底して枡屋を調べたところ、倉の奥から大量の武器や志士たちの密書が大量に発見される。新撰組は古高を連行して壬生の屯所に引き揚げる。

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鬼の副長・イケメン土方歳三

 壬生の屯所では鬼の副長・土方歳三が直々に尋問(と言う名の拷問)を行う。その結果、古高は「御所を焼き討ちして帝を奪い去って山口城に連れ去る計画がある」と白状する。尊王攘夷派は容保の暗殺どころか、孝明天皇の拉致まで計画していたのである。古高の自白によると計画決行は6月22日頃、この日は6月5日だった。しかし局長の近藤勇は古高を捕らえたことで尊皇攘夷派が計画を早める可能性があると懸念していた。そしてこの比は宵々山、京都は大勢の見物客が押し寄せる。この混乱に乗じて尊王攘夷派が仕掛けてくると考えた。

 

直ちに松平容保に援軍の要請をするが

 近藤はすぐに容保に相談、取締りのための支援を要請する。容保は一橋様(慶喜)、桑名様(松平定敬)、町奉行衆と相談の上で人を差し出すので、夜の五つ時(午後9時)に祇園会所前(八坂神社の近く)で待つようにと命じる。

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幕末に燃え尽きちゃった人・松平容保

 その頃、攘夷派の志士たちは長州藩邸に集まって捕らえられた古高に対してどう対応するかを議論していた。ここには宮部と長州藩士で高杉晋作や久坂玄瑞と共に松下村塾三秀と言われた吉田稔麿も同席していたという。

 昼過ぎになると新撰組は夜の摘発に向けて密かに動き始める。そして会津藩との約束の時間の前に隊を土方組24人と近藤組10人に分けて動き始める。そして土方組は祇園界隈、近藤組は三条界隈の茶屋や旅籠の捜索を開始する。そして約束の時間になるが、会津藩の援軍はやって来なかった。これについては容保の根回しに時間がかかったとか、会津藩は京都を包囲して一網打尽にするつもりだったのだが、新撰組が先に動いてしまったなどの説があるという。

 

結局は新撰組だけで踏み込んでの大立ち回り

 祇園周辺の探索は空振りになったが、近藤は池田屋で攘夷派の志士たちが密会をしていることを突き止める。ただちに近隣の者から池田屋の間取りを聞き出したところ、池田屋には裏手にも出口があることを知る。そこで近藤は表口と裏口にそれぞれ3人の隊士を配置し、自らは沖田総司、永倉新八、藤堂平助を連れて4人で踏み込むことにする。

 踏み込んできた近藤達を見て、宿の主人は「御用改めでございます」と2階に向かって叫ぶ。主人を殴り飛ばした近藤は沖田と共に2階に駆け上がる。そこには十数人の志士たちが密会していた。向かってきた志士の一人を沖田が切り捨てると、志士たちの大半は直庭や裏手に飛び降りる。近藤は急いで1階に向かうがなんとその時に沖田が突然に倒れてしまう。沖田が倒れた理由については、今までは結核の発作が出たとされていたのだが、沖田が亡くなったのはこの4年後であり、ここで喀血したのならそんなに生きられないとのことで、最近は暑さによる熱中症だったのではないかという説が出ているという。

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そっち系を騒然とさせた沖田総司の肖像

 元々人数的に劣勢だったのに沖田の離脱でさらに追い込まれた近藤は、永倉には表口付近の台所で、藤堂には中庭付近で戦うことを命じ、自らは奥の間で敵を迎え撃つ。まずは永倉が表口で逃げようとする敵を2人仕留める。しかし中庭の藤堂は敵に額を切られて永倉に助けられたものの出血がひどくて戦線離脱、奥では大勢を相手に近藤がかなりの苦戦をしていたという。そこに助けに飛びこんだのが永倉。永倉は実際には剣の腕では新撰組一だったという。永倉のあまりの強さに一部の志士は刀を投げ捨てて降伏した。そしてその頃、ようやく土方組が駆けつける。これで勝負は決する。踏み込んで1時間ぐらいが経過していた。さらには会津藩や桑名藩の援軍も到着して、新撰組達は周辺に潜伏する残党を一網打尽にする。新撰組は7人を斬殺、4人を手負いにして、23人を捕縛したという。なおこの時に長州の誰が犠牲になったのかの記録はなく、一説によると宮部鼎蔵は池田屋で自刃し、吉田稔麿は援軍を呼ぶために長州藩の屋敷に戻る途中で討ち取られたという。

 なおこの時、桂小五郎(後の木戸孝允)も池田屋に向かうはずだったのだが、池田屋に来たもののまだ誰も来ていなかったことから一度引き返し、そのことによって難を逃れたのだという。これも逃げの小五郎伝説の一つである。

 

 以上が池田屋騒動の顛末とのこと。これで一躍ヒーローになった新撰組であるが、このことで長州藩から徹底的に恨まれ、その後の戊辰戦争では立場が逆転して朝敵として徹底的に長州藩から叩かれることになってしまうのである。近藤勇は斬首され、土方は北海道で戦死している。

 なおこの時も永倉新八最強伝説が出ておりますが、実際に剣の腕は抜群に強かったそうです。また新撰組の中で一番最後まで生き残った人物でもありますので、そういう意味でも「最強」だったようです。剣術師範をしていて、50歳の時に日清戦争に抜刀隊として参加することを志願した(さすがに断られたようだが)というエピソードもあるらしく、生涯暑苦しい爺さんだったようです。

 逃げの小五郎と言われた逃げの達人・桂小五郎はここではひょんなことで難を逃れています。ただ桂小五郎、実はかなりの剣の使い手であり近藤よりも強かったとのことですので、実はこの時に桂小五郎がいたら戦局もまた変わったかもしれません。

 松下村塾と言えば一種のテロリスト養成校みたいなものでもあったのですが、その三秀の一人の吉田稔麿はここで命を落とし、久坂玄瑞は蛤御門の変の時に、さらに高杉晋作は長州の動乱の中で病死といずれも若くして早々と亡くなっています。やっぱりあまりエリートテロリストになってしまうと長生きは出来ないと言うことです。

 

忙しい方のための今回の要点

・尊王攘夷派の中心人物である宮部鼎蔵を追跡していた過程で、新撰組は枡屋の古高俊太郎にたどり着く。古高を捕らえた新撰組は拷問によって、長州が御所に火を付けて天皇を拉致する計画を立てていることを知る。
・今度は直ちに松平容保の元を訪れて兵を出すように養成する。その一方で新撰組は土方と近藤の2組に分かれて、祇園と三条の捜索を開始する。
・しかし約束の時間になっても会津の援軍は現れず、攘夷派が池田屋に集まっていることを察知した近藤は、自分の組(10人)だけで池田屋を襲撃する。
・池田屋の表と裏に6人を残して近藤は4人で踏み込むが、沖田総司が熱中症で倒れ(最近は結核でなくてこの説が有力らしい)、藤堂平助が深手を負って離脱、人数的に劣勢の中で近藤は苦戦するが、新撰組一の剣の使い手である永倉新八の活躍で持ちこたえる。
・そこに土方らも参戦して勝負は決する。結局は新撰組は7人を斬殺、4人を手負いにして、23人を捕縛した。この功で新撰組は一躍名を上げるが、これが長州藩に深く恨まれる原因となる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・新撰組人気って、源義経人気と同じ判官贔屓なんですよね。昔から日本人は負けた方を応援したくなる習性がある。もっとも最近の日本人は勝ち馬に乗っかって、弱者を罵倒したがる輩が増えたと言うが。
・で、新撰組人気のもう一つのポイントはやはりイケメン土方の存在でしょう。やっぱりこういう集団はイケメンがいないと格好付かない。ジャニーズ系イメージのあった沖田総司の肖像は、そっち系にはかなり衝撃を与えてしまったようですが(笑)。ちなみに近藤勇だけは常に「いかつい男」(笑)。で、女にやたらもてた土方に対して、近藤はブス専だったとか(笑)。

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