教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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"平将門と藤原純友は共謀して反乱した!?" (7/20 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「平将門と藤原純友 東西同時反乱の真実!?」」から)

 平安時代中頃、関東独立を目指して朝廷に対して猛然と反旗を翻した平将門。その頃、瀬戸内海でも藤原純友が反乱を起こしていた。反乱の3年前、比叡山で会合した二人が京の町を見下ろしながら、反乱成功の暁には天皇の血を引く将門は天皇に、藤原家に連なる純友は関白になるという約束をしたと記す書物もある。果たしてこの二人は本当に共謀して同時に反乱を起こしたのだろうか。

 

若い時から波乱の人生となった平将門

 まず将門と純友の若い頃の話であるが、実は二人とも大きな挫折をしている。将門は桓武天皇の曽孫である高望王の三男の平良将の子として生まれた。良将は関東の要である鎮守府将軍を務めて武勇に優れていた。そして将門は京で藤原忠平に仕えていた。当時の宮中での有力者である忠平の後押しで将門は天皇を警護する滝口武士に任命され、いずれは官位を授かって出世することが約束されていた。しかし父・良将が亡くなったことで無位無冠で故郷の下総に帰ることを余儀なくされる。一方の純友は藤原の一族に産まれ、若き頃は父の赴任先である太宰府で武芸に励んだという。しかし純友も父親の死で出世の道を断たれてしまう。

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平将門

 下総に戻った将門を待っていたのは一族内での壮絶な争いだった。父・良将が牧場や製鉄などの軍事拠点を押さえていたことから、それを狙って親族達が動き始めた。そして伯父の平国香と野本で激突する。この戦いで将門は勝利して国香は命を落とすが、さらに将門は敵方の拠点を次々と襲撃していく。将門がここまで執拗な攻撃をしたのは、国香が官軍の幡や鉦を持ち出してきたことに怒ったからだという。しかしこのことは国香の息子の貞盛や伯父の良兼の恨みを買うことになり、紛争は拡大していく。この紛争を知った朝廷は反乱を治めるための追捕使を任命するが、それに紛争の当事者である将門が選ばれる。この背後には藤原忠平の将門に対する期待があったという。賊軍となってしまって追い詰められた良兼は将門を襲撃するが返り討ちにされてしまい、貞盛は逃走する。これで紛争は終息し、朝廷に認められた将門は坂東の治安維持を任されることとなる。

 しかしその坂東は富士山噴火や大地震などの天変地異に見舞われて凶作となる。しかし国司達はかまわずに膨大な税を取り立てる(まるで安倍内閣だ)。たまらなくなった農民達は逃げ出すが、将門はそういった農民達を受け入れると自ら先頭に立って荒れ地の開墾に取り組むなどを行ったという(良い領主である)。

 

成り行きで叛乱者になってしまった将門

 938年、下総の隣国の武蔵で、国守代理の興世王と補佐の源元基が税を滞納する足立群郡司の武蔵武芝と対立する事件が発生、将門はこれの仲介に乗り出す。これには無事に仲介を果たせば朝廷から恩賞が期待できるとの目論見があったという。そして将門は無事に興世王と武芝を和解させるのだが、この席に同席していなかった元基が何を勘違いしたのか、興世王と将門が武芝に唆されて元基を殺そうとしていると逃走、京で「将門を反乱をしようとしている」と嘘の報告をする。さらに都に逃げていた平貞盛(将門の従兄弟)もあることないことを訴えたので、朝廷は将門に都に来るように命じる。これに対して将門は藤原忠平に坂東の国司が将門の無罪を訴える書状を送る。朝廷は判断に困るが、当の将門は朝廷から恩賞がもらえるものと考えていたという。

 しかし隣国常陸国で税を払わずに略奪を繰り返していた藤原玄明を将門が保護したことで国司と対立することになる。939年11月、玄明の処遇について常陸の国司と話し合うべく1000ほどの兵を率いて常陸に向かうが、交渉が決裂して待ち受けていた3000の国司軍が襲いかかってくる。将門はこれを撃破するのだが(とにかく将門は戦には強い)、勢い余って兵が国府まで焼きはらってしまう。恐れた国司は刻印と倉の鍵を将門に渡して逃げてしまう。これで将門は常陸を乗っ取ったということになってしまい、完全に反逆者となってしまう。どうしたものかと将門は興世王に相談するが、それならいっそ坂東8カ国を手に入れてしまえばと唆され、将門は実際に伊豆を含む坂東全域を支配下に治めてしまう。ただし将門は朝廷に刃向かうと言うよりは、先に既成事実を作ってから、それを朝廷に認めてもらおうと考えていた節があるという。しかしその後、勝手に国司を任命したことで完璧な謀反人となってしまう。そうなったら毒食えば皿までか、ついには939年12月19日、自らが新皇に即位する宣言をしてしまう。

 

同時に発生した藤原純友の乱

 将門謀反の報は939年12月27日に京に伝わるが、これを聞いた藤原忠平は頭を抱える。ほんの数日前に藤原純友が反乱を起こした報が伝わっていたからである。

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藤原純友

 乱の3年前の936年、伊予にいた藤原純友は瀬戸内の海賊を平定することを朝廷から命じられた。彼は海賊達に土地を与えることなどを約束して投降させる。彼はこの功績で現在の官位の六位から五位への昇進ができると期待していたという。しかし六位と五位の間は貴族か下級役人かの境界であってこれを越えるのは容易ではないのだという。純友も期待した昇進の沙汰はこなかった。これでは京に上ってもろくな役職には就けないと考えた純友は伊予に残る。

 そして939年12月、純友は突如海賊を率いて備前を目指す。凶作だった備前で備前介の藤原子高が地元豪族の藤原文元に対して税を求めて激しい弾圧を行い、これに耐えかねた文元が純友に助けを求めたのだった。また純友には3年前に与えられなかった恩賞を要求するという思惑もあったという。12月26日、文元が上洛途中の子高一行を摂津で襲撃して子高の耳と鼻を切り落として復讐を果たす。これが純友の反乱の始まりとなる。

 朝廷では二人が共謀して反乱を起こしたに違いないと、京が両側から挟み撃ちにされると騒然となる。しかし現実にはこの二人の接触は全くなく、共謀はあり得ないという(そもそも共謀がなされたという3年前には将門は坂東にいる)。ただ純友の方が将門の反乱の話を聞いて、今がチャンスと便乗した可能性はあるという。ちなみに平将門を主人公にしたNHK大河ドラマ「風と雲と虹と」では二人は互いに連絡を取り合っていたことになっていた。

 

朝廷の対応と乱の終息

 東西で同時に発生した反乱に対し、朝廷は将門の乱の鎮圧を最優先にし、純友の方は妥協して時間を稼ぐという方針を定める。そして940年1月11日将門討伐の太政官符が下り、将門討伐軍が編成される。そして純友には要求通り五位の官位が与えられる。懐柔した純友軍を将門討伐に使用することも朝廷は考えていたという。

 将門討伐令が出たことで平貞盛が動く、彼は下野の有力豪族である藤原秀郷を味方につけて4000の大軍で将門の本拠地を襲撃する。これに対して将門の手勢はわずかに400だった。朝廷からの討伐令が出たことで離反が多かったのだという(この時代はまだ朝廷の権威がそれだけあったということだ)。激突した両軍は圧倒的兵力差にも関わらず、追い風を受けた将門軍は善戦する。しかし風向きが逆転したことで将門軍は劣勢に追い込まれ、ついには将門は飛来した矢でこめかみを打ち抜かれて死亡する(件の大河ドラマでは、ここから落馬するまでの間に人生の走馬燈などが入って滅茶苦茶時間が長いのである)。将門の首は京でさらされたが、武蔵国に飛び去ったという伝説がある。そして今でも関東に強烈な悪霊として存在していると言われているのだが。

 一方の純友は官位ももらったし和解しても良かったのだが、周囲の連中が勝手に反乱を続けてしまっていたという。そこで940年6月に朝廷は討伐軍を派遣、藤原文元を攻撃した後、純友に従っていた藤原三辰を攻める。救援要請に配下を見捨てることの出来ない純友は動く。そして討伐軍を撃退しながら京の都に上ろうとする。しかし討伐軍が陣容を建て直して形勢は逆転、日振島に逃げ込むことになる。そして太宰府を占領することで朝廷と交渉をしようと最後の賭に出る。そして純友は太宰府の占領には成功するのだが、朝廷は軍勢を送ってそれを鎮圧、純友は捕らえられて斬首される

 

 以上、平将門の藤原純友の乱の顛末。ちなみに上でも少し話を出しましたが、私の平将門のイメージは大河ドラマ「風と雲と虹と」に大分引きずられています。何しろ初めて見た大河ドラマがこれだったので(小学校内でも尻上がり的に人気が出て、最終回を見ていた者は結構いた)。だから未だに平将門と言われるとどうしても加藤剛の顔が浮かんでしまいますし、平将門が関東に仇なす悪霊なんて言われても「それは違うだろう」というのが正直な感想。あの作品での将門は、自らが権力を持ちたかったのではなく、腐敗した朝廷の悪政に苦しめられている民衆を救うために、関東を独立国にすることを目指すという理想を掲げた高潔な人物として描いてました。いかにも大河ドラマなあからさまな主人公アゲですが、実際に将門の考えにはそういう部分もあったんではと私は感じています。

 それにしてもあの時代の大河ドラマは実に見応えがありました。ちなみにこれの次に見た大河は3年後の「草燃える」です。これも名作だった。おかげで未だに私の中では北条政子のイメージは岩下志麻です(笑)。この後、大河ドラマは「春日局」まで「峠の群像」があまりにつまらなすぎて途中脱落したのと、「いのち」が現代劇で興味がないからすっ飛ばしたの以外はずっと見てます。「独眼竜政宗」や「武田信玄」が一つのピークだった気がします。その後ずいぶん長い間大河ドラマからは離れてましたが(「天地人」と「真田丸」は題材に興味を惹かれて見ましたが、「天地人」は最終回のあまりの強引な結論に唖然とし、「真田丸」は脚本のあまりのひどさに10話ほどで我慢できずに脱落しました)、明智光秀を扱うということで数年ぶりに「麒麟がくる」で大河ドラマに戻ってきたと思ったら、途中で「俺たちの戦いはこれからだ」になってしまったという次第(笑)。

 

忙しい方のための今回の要点

・平将門は元々藤原忠平に仕えて中央での出世を目指していたが、父の突然の死でそれがかなわずに帰郷、そこで一族の間での壮絶な争いに巻き込まれる。
・朝廷に追捕使に任命され、一族間の争いを治めると坂東を治めるべく、隣国の争いを仲裁したりをする。しかしその過程で朝廷から反乱を疑われることになる。
・その挙げ句に常陸の国主を追いだしてしまうことになり、ついには関東を完全に支配下に治めることとなる。将門はここで朝廷からの現状追認を期待していたようであるが、自ら国司を勝手に任命したことで完全に反逆者と見なされてしまう。
・一方の朝廷は、この時に藤原純友の反乱が同時に発生したために大混乱に陥る。
・藤原純友は海賊平定の功による官位昇進を期待していたが果たせず、備前で備前介の藤原子高が地元豪族の藤原文元を弾圧したことから、かつての同志だった文元救援のために兵を挙げる。そして果たせなかった官位昇進を要求する。
・朝廷はとりあえず純友は懐柔し、将門討伐に全力を挙げる。そして将門は従兄弟の貞盛に討ち取られる。
・純友は官位をもらったことで朝廷と和解するつもりだったが、配下が討伐されたために見捨てるわけにも行かずに兵を挙げる。しかしやがて劣勢となり、最後は太宰府を占領するものの、そこで討伐軍に敗れて斬首される。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・大河ドラマってのは、それで歴史を学んでしまうととんだ嘘歴史を覚えることになるんで大変なんですが(「天璋院篤姫」なんて幕末の様々な事件はすべて裏で篤姫が絡んでいるようなとんでもストーリーだったので、歴史家はかなり苦笑していたらしい)、歴史に興味を持つ入口としては非常に有用です。
・もっとも昨今の「江」とか「花燃ゆ」なんかは問題外でしたが・・・。
・「西郷どん」なんかもかなりひどかったし、「いだてん」に至っては問題外。
要するに最近の大河はろくな作品がなかったということ。
・最近の大河は、ある程度歴史を知っている者が「んな、アホな」とツッコミ入れながら見るドラマになってきてます。

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