教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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番組リスト

"武家の都として作られた鎌倉は頼朝の自己表現だった"(8/5 BSプレミアム 英雄たちの選択「源頼朝 武家の都"鎌倉"をひらく」から)

 鎌倉に幕府を開き、武家政権の基礎を築いた源頼朝。鎌倉の都は頼朝の深い考えが反映されていた。

 

武家の都として鎌倉を選択

 まず頼朝が鎌倉を都に選んだ理由であるが、それはやはり防御を考えてのこと。鎌倉の地はやや手狭ではあるが、三方を山に囲まれ、南方は海に面しているということで四囲の防御が鉄壁である。この地に頼朝は武家の都を作り上げたのである。

 頼朝が挙兵したのは34才の時。頼朝の平家打倒の檄に平家に不満を持つ東国の武士たちが次々と集まってきて一大勢力となる。こうして膨れあがった軍勢は破竹の勢いで敵を打倒し、この勢いのまま京へ上ろうとした時、それに対して反対が臣下の中から湧き上がった。有力武将である千葉常胤、三浦義澄、上総広常といった面々が「未だに東国で服していない武将がいるので、まずは東国を固めるべき」というのが彼らの考えであった。在地色の強い東国武士たちとしては自分の領地を留守にするということに抵抗があったのだろうという。

 ここでいきなり頼朝の選択になる。東国に残るか、西国に上るかである。実際にこの頃に平家方の佐竹氏もいたし、その背後の奥州藤原氏は去就が明らかでなかった。それに何よりも、この時の頼朝は東国武士たちに担がれているだけで、誇れるものは血筋ぐらい(合戦での実績はないどころかむしろ負けている)、こういう状況では頼朝に彼らの反対を押しきる力はなかったという。で、頼朝はここで東国にとどまるという選択をする。そして拠点を置く地に鎌倉を選んだのである。

 

源氏の町としての町づくり

 頼朝の町づくりは、まず八幡宮を鎌倉の中心に移す。これが今日の鶴岡八幡宮だが、ここでは未だに流鏑馬などの武士の習慣が残っている。そしてその奥に頼朝が政務を執る御所を設置する。御所の完成時には300人もの御家人が列席して式典が行われたという。この時より東国の武士たちは鎌倉殿として頼朝を戴くことになったという。

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鶴岡八幡宮

 さらに八幡宮から海へ真っ直ぐ伸びる若宮大路を建設する。京を思わせるような構造であるが、ここの東と西で高度さがあり、高い東側が鎌倉の中心として整備されることになったという。なお磯田氏によると鎌倉こそは頼朝が自分の系図を描いたものだという。若宮大路がドンと通っていることで、源氏がこの後政権を引き継いでいるということを示しているとの解釈。また別のゲストは、自身の基盤などに自信がない者ほど、建設で力を発揮しようとするとのこと。そういう意味では自民党の無能議員がやたらに無駄な建築物を作らせるのは単に利権のためだけではないか。

 

平泉の毛越寺を意識して、大寺院の永福寺を建設する

  鎌倉を整備した頼朝であるが、その後、奥州藤原氏の拠点の平泉を制圧する。京にも匹敵すると言われた平泉を見た頼朝は大いに感銘を受ける。やがて頼朝の元に泰衡の首が届けられ、東北はこれで定まることになる。

 鎌倉に戻った頼朝は、御所の北東に広大な寺院を建設した。ここでは現在発掘調査が行われているが、手前に池を構えた平等院を思わせる広大な寺院である永福寺。頼朝はこの寺院の庭石の一つにまで注文をつけるほど、この建築に打ち込んだという。頼朝としては因縁をつけて滅ぼした(実質的にはだまし討ちに近い)奥州藤原氏に対する後ろめたさから来る鎮魂の思いと、鎌倉の鬼門封じという意味があったのではとする。この寺院は毛越寺を参考にしていることが分かっており、平泉の影響が非常に大きいという。さらには見つかった飾りなどには慶派の特徴が見られており、慶派による仏像が並んでいたのではという。

 さらにこの寺院は単に寺院と言うだけでなく、頼朝にとっての迎賓館の機能もあり、京にも負けない武士の都・鎌倉というものを京の貴族などにアピールするという目的もあったのではとする。

 

朝廷での影響力を増そうと図るが・・・

 その後、1190年に頼朝は満を持して上洛し、後白河法皇と対面して天皇を間近で守る武漢の最高職である右近衛大将に任命されている。1195年には東大寺の落慶法要のために二度目の上洛を果たしている。東大寺の大仏の再建には頼朝も多額の費用を出しており、さらに娘の大姫を後鳥羽天皇の后に入内させようと画策していたという。鎌倉にいて京の朝廷への影響力を増そうと図っていたのである(平清盛と同じことをしている)。しかしそれが完成する前に1199年に53才で突然亡くなってしまう。落馬が原因とのこと。

 鎌倉はその後も発展を続けるのだが、眼前にある海を交易に使用するために沖に湊も後に作られたという(鎌倉は遠浅なので、湊を沖に作らないと座礁する)。中国から輸入された陶磁器なども見つかっているという。鎌倉は国内外の物資の集積地となり、禅宗寺院なども多く建ち、中国との交流の中心にもなる(ことごとく清盛がやっていたことをなぞっているような気がするのだが・・・)

 

 こうして見てみると、頼朝は平氏を退けて権力を掌握した後は、清盛が描いていたグランドデザインに従って統治を進めていたような気がする。結局は頼朝の進めていた朝廷との一体化は頼朝の突然死によって有耶無耶になってしまうのだが、後白河法皇にしたら、やっと平氏を追っ払ったと思っているのに、清盛に頼朝が取って代わっただけでは何も変わらないので、大姫の入内の件なんかをのらくくらりとかわして時間稼ぎしたというのは当然のような気がする。後白河法皇にしたら、武家を手のひらで転がしながら、朝廷の権力を高めるということを考えていたはずで、当然ながら同じ考えは後鳥羽上皇も引き継いでいたはずである。で、頼朝が亡くなったのが好機と、承久の乱につながるわけであるが、後鳥羽上皇の誤算は頼朝の力が強かったと言うよりも、自らが思っていた以上に朝廷の権威が衰えていたということだったのである。そしてこの承久の乱の結果、鎌倉政権の権威が西国にまで及ぶようになり、実質的な全国的武家政権が確立すると言うことになる。

 

忙しい方のための今回の要点

・東国で挙兵した頼朝は、そのまま京に攻め上ろうと考えていたが、東国武士たちの「東国をまず固めるべき」という意見に従って、鎌倉に拠点を構えることにする。
・鎌倉は三方を山で囲まれ、南方には海がある堅固な地形で、頼朝はここに武家の都を作り上げていく。
・その後、頼朝は奥州藤原氏を制圧するが、平泉の町に感銘を受け、鎌倉に戻ってから毛越寺を参考にして巨大な永福寺を建立する。
・この永福寺は頼朝の迎賓館の役割も果たしており、京の公家などに武家の都をアピールするものでもあった。
・満を持して上洛した頼朝は、後白河法皇に面会し右近衛大将という高職に任命される。その後、朝廷と接近して娘の大姫を後鳥羽上皇の后として入内させようとするなど、朝廷内での影響力を高めようとする。
・しかし道半ばで頼朝は突然死、その後も鎌倉は海に面した交易都市としての発展を遂げる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・信長なくして秀吉の天下構想はなかったと言われているが、頼朝の天下構想も清盛なくしてなかったような気がしますね。どうもその辺りが頼朝が清盛よりも一回りぐらいスケールが小さく思える理由でもあると思いますが。

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