教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

"借金まみれの米沢藩を建て直した名君・上杉鷹山とは" (8/17 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「なせば成る!名君・上杉鷹山の生涯」」から)

歴史に残る名君・上杉鷹山

 今回の主人公はリクエストでも一番要望が多かったという上杉鷹山。借金まみれで藩主が幕府へ領地返上することまで考えたという危機的状況の米沢藩を建て直した名君として知られる人物である。ちなみに「日本の政治家で尊敬する人がいますか?」の質問に対し、アメリカ大統領のケネディが「Yozan Uesugi」と答えたとか。なおこのリクエスト、私は田沼意次を要望したのだが、これは実現するのだろうか?

f:id:ksagi:20200818210820j:plain

上杉鷹山

 

破産状態だった米沢藩

 米沢藩はあの上杉謙信から連なる名門である。しかし鷹山が藩主に就任する頃には大変なことになっていた。その理由はいくつかあるが、まずは名家のプライド。上杉謙信に連なる名家との無駄にプライドが高かったために領地が上杉景勝の頃の120万石から、ついには15万石まで縮小しても、当時の5000人の家臣を抱えたまま一切リストラしていなかったのである。当然ながら人件費だけで藩財政は破綻寸前。人件費だけで13万3千石と石高の15万石の9割に迫っているのだから滅茶苦茶である。

 さらに藩主の悪政もあったという。4代目藩主の上杉綱憲は吉良上野介の長男で、父から家臣に軽く見られないように金の出し惜しみをするなと指示されていたことから、能につぎ込んだり藩施設を新築するなど派手に散財したという。さらに吉良家の借金6千両を肩代わりするなどの放漫ぶり。結局この時に米沢藩の貯えは底を着いて財政赤字に転落したという。吉良上野介が浅野内匠頭に対して何か嫌がらせをしたかは定かではないが、少なくとも上杉家に対しては悪事をなしている。今なら業務上横領に匹敵するのでは。

 この頃から始まった借金は年々膨らみ、8代藩主・重定の頃には16万両(今の価値で160億円)まで膨らむ。農民は重税のために逃げ出し、藩士達も俸禄の半分を強引に藩に貸すという形で召し上げられたことから下級藩士は生活が困窮を極めたという。それでも財政は立ち直らず、ついには重定は領地を幕府に返上すると言い出す(藩主自らが倒産宣言をしたわけである)。義父の尾張藩主の徳川宗勝に説得されて領地返上は思いとどまったものの、隠居してしまう。

 

藩主に就任した鷹山が改革に取り組むものの・・・

 この事態に後を継いだのが鷹山であるが、鷹山はそもそも九州の高鍋藩の秋月種美の次男として産まれ、10才で重定の養子となった。そして重定の娘の幸姫と婚約する。鷹山は儒学者の細井平洲に師事し、「為政者は民の父母たれ」という精神を教育されたという。そして鷹山が家督を継いだのは17才の時だった。なお幸姫は心身障害があったとのことだが、鷹山は幸姫を子供のように慈しみ。回りの側室をとってくれとの願いに対しても、江戸藩邸には側室はおかず、国元に一人の女性を置いたのみだという。

 江戸屋敷で藩主となった鷹山は財政再生に取り組む。一番手っ取り早いのはリストラだと思われるが、鷹山は職にあぶれた藩士達による治安の悪化などを懸念し、人員削減は行わなかったという(慈愛の人なので藩士を見捨てることも出来なかったのだろう)。そこで取り組んだ方策はまずは質素倹約。江戸詰の家臣に大倹約令を発し、食事は一汁一菜を基本に、衣服は贅沢な絹から木綿に切り替えた。鷹山はこれを自ら率先して実行したのである。こうして自らの江戸での生活費をそれまでの1500両から209両にまで切り詰める。「して見せて、言って聞かせて、させてみる」というのが鷹山が常に言っていたことだという。家臣に倹約を押し付けるのではなく、自らが実践してその姿を家臣に見せたのである。そして同じ大倹約令を国元にも送って、藩財政の建て直しに取り組むように命じる。

 それから2年後に参勤交代を終えた鷹山は国元に入ることになった。鷹山の行列は非常に質素なものだったという。しかし国元に到着した鷹山は驚く、民は貧困に喘ぎ、宿さえも宿泊できるような状態ではなく、鷹山達一行は野宿をする羽目になったという。翌日、米沢城に入った鷹山は、自らの大倹約令が全く実行されていないことを知る。藩士達は若い鷹山を軽んじて彼の指示を無視していたのである。鷹山は愕然とする。

 

国元でも必死の改革に取り組むが・・・

 鷹山は早速米沢での改革に取り組む。まずは農業再生。農村の環境整備のために郷村教導出役という役職を新設して領内の各地に住ませ、農民の生活保護や農業指導を行わせた。そして農家の実情が常に把握できるようにしたのである。さらには自らの生活費から養育費を捻出して出産を奨励、15才以下の子供が5人以上いる家庭には子ども手当を支給したという。そして農業を振興を祈願する籍田の礼という儀式を実行、この時に鷹山自らが鍬を持って田を耕したという。鷹山の姿に刺激された藩士達も自ら鍬を振るうようになり、2年で18万坪が新たに開墾される。

 さらに藩士達は橋の架け替えなど作業にも取り組むようになる。彼らが整備した橋を渡る時、鷹山は「お前達の汗の染み込んだこの橋を馬に乗って渡るわけにはいかない」と馬から下りて徒歩で橋を渡ったという。終始、藩士や領民を愛する藩主だったという。鷹山が自ら麦刈りの老女を助けたという逸話まであるらしい(彼女が後でお礼の餅を持参したところ、相手が鷹山だったらしい)。鷹山は老人を大切にし、身内に老人がいる者には介護休職さえ与えるという今日の福祉政策まで実行したという。

 だがこの鷹山の態度は保守派の反発を招く。7人の重臣が鷹山の改革に異を唱えて鷹山を軟禁するという「七家騒動」が勃発する。この乱は側近に救出された鷹山が重定に助けを求め、重定が重臣達を叱責することで落着したという。後に鷹山が訴状の内容を調査したところ、その訴えがことごとく嘘であったことから、鷹山は首謀者の2人に切腹を命じ、残りの5人には隠居・閉門という厳しい措置を下している。改革に対して毅然とした態度を示したということである。なお2年後に5人の閉門は解いているという。

 鷹山は人材育成にも力を入れる。人材育成のための学問所・興譲館を米沢に設立し、自ら終生の師と仰ぐ細井平洲を招く。その報酬は今で言うところの1千万円を支給したという。批判の声が上がるものの、鷹山は人材育成の重要性を考えて断行する。学費の払えない下級武士には奨学金も支給し、興譲館は多くの優れた人材を輩出する。

 

改革に立ちふさがる障害、一度は隠居を決める

 だが鷹山の改革も順調に行ったというわけでもない。鷹山が江戸勤めの間の改革は側近の莅戸善政と竹俣当綱が実行していた。しかし鷹山の元に竹俣が謙信の月命日で酒宴が禁止されている朝まで酒宴に興じていたという件や公費を私的に流用しているという訴えが届く。高い志で改革に臨んでいた竹俣も、権力が集中することで腐敗してしまったのだという(悲しい人間の性である)。鷹山は竹俣に隠居の上で自宅での禁固を命じざるを得なくなるその挙げ句に浅間山噴火に伴う大飢饉(天命の大飢饉)が発生。米沢藩は領民に籾を備蓄させていたことで餓死者こそ出なかったが、農作物は壊滅して田畑は荒れ果ている。この時に莅戸も隠居を申し出、鷹山は気力が尽きたのか重定の息子である21才の治広に家督を譲って35才で隠居してしまう。これについては、治広を立てることで自らは参勤交代から解放されて国元にとどまって改革に取り組めるとの考えもあったのではというのが番組の解釈。

 鷹山は治広に家督を譲る時に3か条から成る藩主の心得「伝国の辞」を授けたという。その中身は、「一、藩は先祖伝来のもので私有すべきものではない 一、領民は藩に属するもので私有すべきものではない 一、主君は藩と領民のためにある」というもので、この後、上杉家の家訓として代々引き継がれることになるという。しかしこの中身を見れば、鷹山が藩主を公僕として捉えていることが覗え、これは藩主が自らのことを絶対君主と考えていた封建時代には極めて珍しい先進的な考えであったことが分かる。

 治広は人員の削減や興譲館の縮小などの経費節減に取り組むが、倹約一辺倒の政策ではうまく行かず、年間赤字が2万5千両、累積借金が30万両と鷹山が藩主に就任した時の倍近くにまで膨れあがってしまう。倹約一辺倒の治広の政策に藩士達がやる気をなくし、モラルの低下が起こってしまったのだという。

 

再度陣頭に立って強烈に改革を推し進める

 ここまで治広を立てていた鷹山だが、こうなると自らが取り組むしかないと立ち上がる。まず行ったのは情報公開切迫した藩の財政状況を全藩士に対して公開し、危機感を共有化したのである。そして莅戸を再登用して財政十六か年の組立を打ち上げる。これは藩の予算の半分を借金返済に充てて、16年で借金を完済するという計画だったという。

 さらに上書箱を設置し、庶民の意見でも良い案は採用することにしたという。藩士の黒井忠寄は、米の増産のために灌漑事業を提案して採用された。これで干ばつに苦しめられていた米沢北部の農業生産力が向上、この水路は今でも黒井堰と呼ばれて今日でも使用されているという。また凶作時に食べられるものなどの情報を集めた「かてもの」を発行して城下に配布したという。これのおかげで30年後の天保の大飢饉で米沢藩では1人も餓死者が出なかったという。

 また鷹山は産業振興にも取り組む。ろうそくや陶器、人形などから温泉の湯から塩まで作ったという。そして特に養蚕に力を入れ、技術指導まで行ったという。自らの生活費から50両を養蚕の奨励金に充てたという(自分の生活費はどこまで切り詰めるんだろう)。さらに京都から職人を呼び寄せて最新の機織り技術を下級藩士の妻や娘たちに習わせたという。こうして出来上がった米沢織が人気を博し、藩士の生活も段々と楽になってくる。

 鷹山は72才で亡くなるが、米沢藩はその翌年に借金の完全返済を達成し、さらには5千両の備蓄まで出来たという。

 

 もう素晴らしいとしか言いようのない名君です。まず自ら率先して取り組む姿勢(トップは口だけの場合が多い)、さらにはこんな事態になっても改革に抵抗するような連中に妨害を受けても頑とした態度であくまで改革を断行する意志力、何よりもすごいのはこの時代に公僕精神を持っているということ。今の民主主義の時代に公僕精神のかけらもなく、自らを専制君主と思い込んでいる安倍には、爪の垢を一トンぐらい飲ませてやりたい。

 鷹山は一度隠居してますが、やはりこの時はかなり改革に対する抵抗が高まっていたのだと思われます。その挙げ句に自らの側近の竹俣が失脚したことで、改革に対する不満が高まったので、「そう言うならじゃあお前らがやってみろ」と一度投げ出してのではという言う気もしますね。そうすれば案の定の大破綻。こうなったら誰もが「やはり鷹山しかいない」ということを実感せざるを得なくなるというところでしょう。実際に再登板後の方が改革のピッチを上げている感がありますから、そのための基盤を作るという博打だったのかもしれません。

 それにしても公僕精神に情報公開、さらには領民の福祉の向上など民主主義時代の政治家よりも民主的なのにはつくづく驚く。今の日本はこれだけの多くの政治家がいるのに、ただの一人も鷹山に及ぶような輩はいないのだろうか? まあもし鷹山が現代にいたとしても、権力を握らしてもらえる前に利権まみれの連中に排除されてしまうんだろうな。

 

忙しい方のための今回の要点

・上杉鷹山が米沢藩の藩主となった時は、米沢藩は16万両(160億円)の借金を抱えた破綻状態であった。
・鷹山は藩と領民に尽くすことを決意しており、まずは自らの生活費を率先して切り詰め、藩内に大倹約令を発する。
・さらには農業を振興する政策をとる。鷹山の姿勢に刺激されて、藩士も自ら開墾に加わり、多くの土地が開墾される。
・しかし保守派がそれに抵抗し、鷹山に改革の中止を訴える訴状を叩きつけて鷹山を幽閉する事件が発生する。
・側近に救出された鷹山は、前藩主の重定に助けを求め、重定は騒動を起こした連中を叱責して事件は解決する。後に彼らの訴状の内容が嘘であることが判明したことから、鷹山は首謀者2人を切腹させ、後の5人は隠居・閉門という断固とした措置を執る(2年後に5人の閉門は解かれた)。
・しかし鷹山の片腕だった竹俣が失脚、天明の大飢饉発生などもあり、改革は順調に進まない。鷹山は隠居して藩主を重定の息子の治広に譲ることにする。
・だが治広の倹約政策はうまく行かず、藩の借金はさらに倍増する危機的状況となり、鷹山が再び改革の陣頭指揮をとることになる。
・鷹山は16年で借金を完済する計画を立て、上書箱を設置して庶民の意見でもよいものは採用する。黒井忠寄の考えを容れて用水路を設置したことなどで米の増産にも成功、さらには養蚕などを奨励して産業振興にも力を入れる。
・鷹山の政策が実って、米沢藩は鷹山の死の翌年に借金を完済し、5千両の備蓄までできる。

 

忙しくない方のためのどうでもよい点

・本当にこの人の話を聞く度に、今の日本に必要なのはこういう政治家だとつくづく思うんですよね。単に倹約を強いただけでなく、産業振興も合わせて考えて、キチンと増収策も手配しているところが見事。単なる緊縮財政一辺倒でも駄目なことも分かってるんですよね。
・上が腐敗すると下まで忖度官僚ばかりになる。やっぱり役人があれだけ腐るというのは、トップが腐っているこの証明でもある。トップがキチンとすれば自ずと真面目に仕事する役人が出てくるんです。

次回のにっぽん!歴史鑑定

tv.ksagi.work

前回のにっぽん!歴史鑑定

tv.ksagi.work