今日行われている疫病対策や、日本が衛生的な国家となるための礎を築くのに貢献した三人の人物、種痘を導入して天然痘と戦った緒方洪庵、衛生という概念を確立してコレラと戦った長与専斎、日清戦争からの帰還兵に見事な検疫を行って世界を唸らせた後藤新平を紹介。とのことなのですが、このコロナのご時世でこの手のネタはNHKではこれまでにも散々放送しており、特に緒方洪庵についてはヒストリアでも「知恵泉」でもやっていてかなりの使い回しです。
天然痘と戦った緒方洪庵
まずは使い回しの緒方洪庵から。緒方洪庵は蘭学を学んだ医師で、蘭学を指導する適塾を開いて優秀な人材を輩出したという功績も挙げている人物である。その洪庵が直面したのが天然痘の蔓延の危機。ここで洪庵はヨーロッパの医学の文献を調査したところ、牛痘を接種することで天然痘を防ぐことができるということを知る。
しかしこの牛痘を入手することが日本では難しかった。ヨーロッパから船便で運んでいたら品質が劣化してしまうのだという。そんな時についに牛痘の輸入に成功したという情報を聞き、福井藩医師の笠原良策の元を訪れる。牛痘を分けて欲しいと頼む洪庵に対し、笠原は「福井藩のために輸入したものだから分けられない」と拒絶する。しかし洪庵は治療は全ての人々になされるべきだと食い下がる。そして笠原もようやく折れ、洪庵に牛痘を分ける。
洪庵は種痘を始めたがこれが順調には行かなかった。挙げ句は種痘をすると牛になるという噂まで出る始末。種痘は普及せず、そのことがさらなる問題を生む。当時は牛痘を感染力を保った状態で保管することが難しく、まずは種痘を行い、その膿を別のものに接種するという形で引き継いでいくしかなかったのだが、それがなかなかうまく行かなかったのである。そこで洪庵は種痘を受けたものには米を与えるなど、治療を受けたものから金を取るどころか逆に褒賞を与えて治療を受けさせた。しかしこれが続くと資金が底をつき、仲間たちも離れていった。しかしこの頃になってようやく苦労が実を結ぶ。洪庵が種痘を施した子供たちは天然痘にかからないという話が広がり初め、種痘を受けに訪れる者が増え始めたのである。そして1858年、ようやく洪庵の除痘館が幕府公認となる。そして洪庵は各地の医師に種痘を分け与えて日本でも天然痘の対策が施せるようになる。
「衛生」という言葉を作った長与専斎
二人目の長与専斎は洪庵の適塾で学んだ一人である。明治になって岩倉使節団の一員として海外視察を行う。ここで欧米では行政が土地の清潔を保ったり貧民の救済をしていることに衝撃を受ける。当時の日本では健康は自分で守るものというのが一般的な考えだったが、行政が国民の健康を守るために機能していることを知ったのである。日本の近代化にこの仕組みが必要だと専斎は考える。
帰国した専斎がまとめた法令「医制」には初めて「衛生」という言葉が用いられた。新たな健康保護事業を専斎が名付けた言葉である。そして専斎は内務省に新たに設置された衛生局の初代局長となる。
時折しも清国からコレラが上陸する恐れがあるとの報が伝わってくる。コレラは江戸時代にも何度か流行して大勢の犠牲者を出した恐るべき病であった。専斎はまず海港検疫を実施してコレラを水際で食い止めようとする。だがこれは外国船が検疫を拒否したことで頓挫する。不平等条約の下では日本には外国船を取り締まることが出来なかった。その結果、横浜や長崎などでコレラが上陸、あっという間に広がってしまう。専斎は患者の数を報告させて患者の隔離収容を行い、患者の出た家には張り紙をして近所の人に注意を促した。しかしこれが反発を呼ぶ。隔離を嫌った住民が患者隠しをする羽目になり、コレラは全国に広がってしまう(まさに今のコロナの状況に近い)。専斎は国民に衛生意識を広げる必要性を感じる。
専斎は国からの強制では市民の反発を受けることを痛感する。もっと庶民の立場に立って考える必要があると考えた専斎は、大日本市立衛生会を設立し、政府の役人だけでなく民間の学者や医者や実業家なども参加する。ここで衛生を巡る活発な議論が行われ、それらは外部にも公開された。衛生意識の普及のために衛生の歌まで作られたという。民衆が自ら衛生に気を使う自治衛生を目指した。
ここで議論となったものに飲料水の問題があった。井戸水の汚染が問題となっていたのである。またコレラ菌が発見され、汚染された水が原因になることも既に知られていた。そのために近代的な上下水道を作る必要があったが、莫大な予算が必要なために抵抗も多かった。そこで専斎は神田に全長4キロの下水を作る。そしてさらに上水道を作る計画を立てる。この動きは全国にも広がっていく。
日清戦争帰還兵の検疫に取り組んだ後藤新平
長与専斎の元で活躍し、彼の意志を受け継いだのが後藤新平である。その後藤が直面した感染症最大の危機は日清戦争の帰還兵たちであった。彼らの中には戦場の劣悪な環境の中で伝染病に感染するものも多かった。そんな兵たちをそのまま帰還させては日本国内に伝染病を流行させることになるのは確実だった。急遽水際での大規模な検疫を行うことになり、後藤がその指揮をとることになった。
しかし時間がなかった。後藤は3つの島に検疫所を建設することにしたが、とにかく時間がなかった(後藤の就任から2ヶ月しか時間がない)。後藤は検疫所を突貫工事で完成させる。ここに兵士たちがやって来る。検疫はまず沖に停泊した船に検査を担う検疫兵が入って調査、患者は直ちに隔離し、症状なしと判断された兵は陸に上がって消毒される。消毒所では消毒前と消毒後で完全に動線が分離している設計となっていた。患者と接触した兵士は停留させて毎日診察を受けさせ、最大9日間様子を見ることになっていた。
しかし実際に検疫が始まると想定外の事件も相次いだ。72人ものコレラ患者の発生した船が上陸して大騒ぎになったりなどが起こった。また検疫兵にも感染者が出た(53人が死んだという)。後藤は決死の覚悟で陣頭指揮をとった。そして検疫兵にはすべて戦地同様の給与と待遇を与えてくれるように上司に頼んだという。
こうして後藤は無事に検疫を終えた。これについては世界を驚かせ、その後に日本が外国船を検疫できるように条約が改正されたという。
こうして見てみると、今の日本政府って江戸時代よりも劣化してるじゃん・・・。やはり使命感というものを持っているかどうかだな。とりあえず今回登場した人物はいずれも自身の利益のことは考えず、日本人全体のことを考えて行動している。こういうのを本当の意味での愛国心と言うべきだろう。今は簡単に愛国心を唱えるものに限って、国の富をいかに自分の懐に入れるかだけを考えている。そりゃ自分の利権のことしか考えない輩が、国全体の差配なんざできるわけがないというわけである。
忙しい方のための今回の要点
・緒方洪庵は天然痘に対処するために種痘を導入した。しかし当初はなかなか理解を得られずに苦労する。
・洪庵は種痘を受けたものに米を提供するなどまでして種痘を広げた。やがてその効果が一般に知られることとなって種痘は広がり始め、ついには幕府公認となる。
・適塾で学んだ長与専斎は、渡欧した際に欧米では行政が国民の健康のための事業を行っているのを見て、日本にもその必要性を感じ「衛生」という言葉を作り出す。
・専斎は衛生局の初代局長となりコレラの上陸阻止に動く、しかし検疫は外国船に拒否され、不平等条約のせいで強制できず、結果としてコレラが上陸する。さらに隔離を進めようとしたが、これも市民の理解が得られなかった。このことから官が強制するのではなく、国民の理解を得て自治衛生を行う必要があるとの考えに至る。
・専斎は官民共同の大日本市立衛生会を設立、市民の衛生意識の啓蒙活動に努め、さらには上下水道の設置のための活動を行った。
・専斎の部下だった後藤新平は日清戦争の帰還兵たちの検疫に取り組むことになる。
・2ヶ月しか時間のない中で突貫工事で検疫所を設置して検疫に挑む。検疫兵の中から感染による死者まで出たが、何とか帰還兵の検疫を済ませ、それは世界からも感嘆される。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・江戸や明治の人がこれだけやっているというのに、もっと科学も進んでいる令和の政治家は科学的な思考さえ出来ないのですから、嫌になってくる。どこまで日本の政治家や役人は劣化したのだろう。
次回の英雄たちの選択
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