第一次大戦中に軍隊で発生したスペイン風邪
100年前に世界的に猛威を奮い、多くの犠牲者を出した新型感染症が「スペイン風邪」とも呼ばれたインフルエンザである。
スペイン風邪が最初に発生したのは第一次大戦の軍中であった。発端はアメリカの軍事基地で死亡した48人の肺炎患者だという。感染は4ヶ月で世界に広がったが、戦争中の各国はその情報を秘匿した(自軍の戦力低下を示すわけだから機密情報である)。その結果、感染の情報は中立国だったスペインからだけ発せられることになり、これが「スペイン風邪」と呼ばれるようになった理由だという。全国から集まった若者が三密状態で暮らす軍隊は伝染病の感染には非常に弱い状況だった。さらには彼らが国境を越え移動するし、まもなく終戦になって母国に帰ると世界中に感染が一気に広がることになった。
そして1918年9月、ついに日本にも上陸する。感染は港湾から広がり、鉄道によって地方都市へと拡散していった。日本は戦後景気の最中で農村から出てきた労働者が三密の環境で労働していた。こういう職場がクラスターになる。都市部で患者が病院に殺到、医師や看護婦が不足する医療崩壊が発生していた。一方で地方ではそもそも医師がいないことでの惨状が広がっていた。そんな地方の農村都市・矢板で一人の町医師がスペイン風邪に関する詳細な記録を残しているという。
第一次感染爆発の中で詳細な記録を残した地方の開業医
それを残したのは開業医・五味淵伊次郎氏。10月下旬、地元の農林学校の生徒が東京への遠足から帰ると発病者が続々と出始めたという。そして2日後には矢板駅の駅員も倒れ、駅の利用者や学生の家族から一気に感染が拡大した。五味淵は自転車で村々を往診して回ったが、到着した時には既に患者が亡くなっていたことも少なくなかったという。農村の住民は現金収入がないために医療費に支払う十分な金がなく、医師の方も農村にいては食っていけないと都市を目指すので、大正から昭和の初期の時代は農村と都市の医療格差が拡大した時期だという。
そして五味淵の家で働いていた15才の少女も感染して危篤状態になる。五味淵はスペイン風邪とジフテリアの症状が似ていたことから、一か八かでジフテリア血清療法を試そうと考える。しかしそのような動物実験のようなことを人間に対して実行して良いのかと悩む。結局、五味淵が血清の投与を躊躇う内に彼女は翌朝に亡くなった。五味淵はこのことを非常に後悔したという。
さらに4日後には五味淵の妹も感染、呼吸困難な状況に陥る。五味淵はここでジフテリア血清の注射を決意し、その後の経過を詳細に記録した。注射後に脈拍や体温が落ち着いていく状況を記録、全国の医師に参考にして欲しいと考えたのだという。五味淵は自身にも血清を試して効果を確信し、村人達99人に214回の血清注射を実施したという。なお血清の価格は今の価値で3~5万円と高価であり、農民達がこの費用を皆支払えたとは思いにくい。五味淵の子孫によると、医療費がお金でもらえず米や野菜などになるということも多かったらしく、五味淵の生活はかなり質素であっただろうという。そしてスペイン風邪の第一波は25万人の死者を出して1919年3月にようやく終息する。
国内でのワクチン開発競争
スペイン風邪に関しても民間と国との両方でワクチン開発に挑戦していた。民間は北里柴三郎の北里研究所である。国は国立伝染病研究所で所長は長与又郎だった。北里研究所の方は今まで細菌研究で世界をリードしてきたという自負もあり、インフルエンザ菌を原因菌と断定してワクチンの製造を目指していた。一方、長与はその主張を真っ向から否定。インフルエンザ菌以外の未知の病原体が作用していると考えた。しかし当時の光学顕微鏡ではウイルスを見ることは出来なかったので、病原体は不明という立場であった。
しかし自らの技術に自負もあった北里研は、インフルエンザ菌に基づいたワクチン製造を開始する(結果としてこれはハズレなのだが)。北里研のワクチンは世間で熱狂的に受け入れられ、長与達も苦渋の決断を迫られる。北里研の1ヶ月後に、インフルエンザ菌のワクチンに肺炎菌の予防ワクチンを加えた混合ワクチンの製造を開始することになる。二種の違ったワクチンの登場に政治家も介入、結局は効果も定かでない(現代医学の観点からは完全にハズレなのは確定だが)ワクチンが全国で量産され、500万人がワクチンの接種を受けることになる。ちなみにゲストの話では後にアメリカでもワクチン開発を急いだ結果、副作用の強いワクチンを接種させてしまい、パンデミックは起こらなかったのに副作用で命を落とす者が出るという事件もあったらしい。また医学の現場に政治家が入ってきたり、金や名誉が絡んできたらろくなことにならないということを言っていたが、これこそがまさしく今の日本の現状である。
なおこの時に国はどう対応したかだが、原敬が率いる内閣は強制的な措置を避けて、国民の衛生意識を啓蒙して自発的な対応を促す姿勢をとったという。内容はマスクの使用や咳エチケットを呼びかけたり、うがいなどを勧めたりというものである。当時のアメリカのポスターが命令口調の高圧的なもの(Don't~の型式)に対し、日本のものはうがいをしましょうなどの呼びかける内容になっているという。また自治体ごとに事情に合わせた独自の対策を行っていたという。例えば北海道では女学生にマスク作りの協力を要請し、そのマスクを劇場や寄席の入口で無料配布したという。また東京ではワクチン接種を受けられない貧民層のために夜間無料注射所を設置して医療格差の是正に取り組んだという。そうしてこういう姿勢が保健所の対応に引き継がれていくという。
当時の状況を伝える女学生の日記
で、最後は磯田氏がどうしても紹介したかったという、当時の女学生が実際にインフルエンザにかかったその経緯を綴った日記。最初は東京の辺りで広がっていたインフルエンザが、修学旅行をきっかけに地元でも感染者が出て、それが友達などに次々と広がっていく。そんな中、家を訪ねてきた大好きだった祖父にも感染し、祖父は帰ってから発症してそのまま亡くなってしまう。また友達にも母親が亡くなる者なんかも出て、新聞には常に黒枠の広告が並んでいて、その中に知っている人がいないかと戦々恐々とする日々。その挙げ句に自身も感染して・・・という経緯が女学生らしく率直に記されている。彼女は幸いにも回復して90才まで生きたそうだが、あの時にはほとんどの日本人が身内の誰かがインフルエンザで亡くなるという経験をしているという。磯田氏が言いたかったのは、伝染病などについて考える時には、上からの視点だけでなく、こういう当事者の視点も忘れてはいけないということである。今の日本のコロナ対応で決定的にかけているのがこの視点である。
以上、スペイン風邪ことインフルエンザによるパンデミックについて。ちなみに現在のコロナについて、ただの季節性インフルエンザと同じだから怖くない(だから対策はいらない)と主張している輩がいるが、それはそもそもインフルエンザを甘く見すぎ。今までのインフルエンザは既知のタイプだったので予防接種などで対処できたので被害が限られているが、それが通用しない新型のインフルエンザだったら、大正時代も現代もあまり状況は変わらないのである。それにも関わらずこの大正時代のパンデミックを知らずにインフルエンザを軽視する輩が多いことから、あえてこの時の紹介をしたという番組関係者の意図が見える。
終盤の女学生の日記は、情報としては大したものではないのだが、やはり当事者としての普通の日常に未知の病原菌がどこかから迫ってきて大切な人の命が奪われていくという過程に恐怖を感じる。ちょうど「この世界の片隅に」を見た時のような気持ちだ。なんてことのない普通の日常が戦争で破壊されていったあん感覚に近いものを感じる。やはり特に国で対策などを検討するものは、この感覚を知らないでは国民を安心させる政策は出来ないだろう。近くで感染が出る中で、検査を出来ないと言われることがどれだけ絶望的なものか。それが理解できないからマスク2枚を配っておけばそれで十分なんて発想になるのである。
忙しい方のための今回の要点
・日本の大正時代にヨーロッパの第一次世界大戦中の軍隊で発生したスペイン風邪(インフルエンザ)はあっという間にヨーロッパ全域に広がり、ついには日本にも上陸する。
・第一次感染爆発の際、地方都市矢坂の開業医・五味淵伊次郎氏がその経過を詳細に記した記録が残っている。
・それによると彼はインフルエンザの症状がジフテリアに類似していることに注目して、一か八かでジフテリアの血清を患者に注射しており、その後の経過も詳細に記している。治療法のない中で苦闘した医師の努力が垣間見える。
・第二次感染爆発の際には民間の北里研究所と国立伝染病研究所でインフルエンザの原因に対する見解が分かれるが、北里研がインフルエンザ菌から作り出したワクチンが評判になった(結果としてインフルエンザの原因はウイルスなのでこのワクチンはハズレ)ために、国立伝染病研究所も類似のワクチンを出さざるを得なくなり、ワクチン製造競争が過熱、結局は効果のないワクチンが500万人に接種される形になってしまった。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・まあ日本の対応はあまり進化していないというか、下手するとこの頃よりもさらに悪化しているような気がする。少なくとも大正時代の原敬は安倍のような無能ではなかったし。
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