教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

9/7 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「激動の昭和にエールを響かせた作曲家・小関裕而」

 朝ドラの主人公になったことで、突然にこの手の番組で扱われることが急増した小関裕而です。以前に「英雄たちの選択」でも扱ってましたので、正直なところ内容はかなり被ります。

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若い頃から作曲家を目指す

 小関裕而は言わずとしれた「六甲おろし」など数々の有名曲を生みだした作曲家である。福島の裕福の呉服屋に生まれた小関は幼少時から音楽に興味を示し、3年生の時の担任に作曲の楽しさを教えられたという。彼が音楽に興味を持っていることを知った母は、卓上ピアノを買ってくれたという。

 家業を継ぐために福島商業学校に入学したものの、学業よりも音楽に打ち込む日々だったらしい。山田耕筰の作品などで作曲を独学で学んだという。その挙げ句に学校を1年留年したという。山田耕筰に作品を送ったところ「がんばりなさい」という返事をもらったことから音楽の道を選ぶ。

 彼が商業学校を卒業した時、父が友人の借金を背負って呉服屋を畳んでしまう。仕事もなくプラプラしている小関を見かねた伯父が自分の銀行で働かせるが、1930年に小関はイギリスの楽譜出版社が主催する国際作曲コンクールに応募、この時の応募曲が「竹取物語」だったらしいが、これが二等に決まり、英国への留学と旅費4千円が支給されることになった。

 しかし結果として小関は留学していない。理由は経済的なもので、どうやら賞金がでなかったらしい。「英雄たちの選択」ではこれを世界大恐慌のせいとしていた。さらにこの番組ではこの頃に知り合った金子と結婚できなくなると考えたことも原因ではとしている。この後2人は結婚している。

 

ヒット曲が出ずに苦しむが、軍歌で芽を出す

 その後の小関はコロムビアの専属作曲家となるが、売れる曲を書くことを義務づけられることになる。しかし1年以上ヒット曲が出ずに苦しむことに。この頃、同じく専属の古賀政男と互いに励まし合っていたとのこと。

 ヒット曲の出ないまま2年、いよいよ契約解除を迫られることになる。この時に古賀政男が抗議、さらには妻の金子も会社に懇願し、辛うじて契約解除を免れたという。そして1934年にようやく「船頭可愛や」がヒットする。

 しかしそこから2年、それを越えるヒット曲はまだ出せずにいた。そんな小関の転機となるのが軍歌である「露営の歌」。この直前に満州を旅行してかつての戦場などを見学した経験が反映しているという。小関は帰りの列車の中でこの詩を見てスラスラと作曲できたという。この曲が最前線の兵士に人気となって大ヒットする。

 小関は前線の慰問にも出向いたらしいが、「露営の歌」の大合唱で迎えられた彼は挨拶で感極まって泣いたという。彼は彼らの中で何人が生きて帰られるだろうと考えると涙が出たのだという。

 

戦後の鎮魂の曲とオリンピックマーチ

 「英雄たちの選択」ではこの後の戦中の話が続くのだが、この番組では一気に戦後にまで飛ぶ。小関は軍歌によって作曲家としての地位を確立したが、自らの歌によって多くの兵を戦地に送り出したという罪の意識を感じていた。そんな時に長崎で被爆した医師・永井隆が書いた「長崎の鐘」に感銘して詩人のサトウハチローが詩を書き、それに曲をつけてくれと小関が依頼される。小関は亡くなった人々へのレクイエムのつもりで名曲「長崎の鐘」を書き上げる。この曲は大ヒットし、永井から「この曲は多くの戦争犠牲者の心に染みいり慰め励まし立ち上がる力を与えています」という声をもらう。

 小関裕而の曲はクラシックの知識を元にしながら、日本人に受け入れやすいようにアレンジしているという。その辺りがヒットの秘密だとのこと。

 戦後にヒット曲を生みだした小関に舞い込んだ最大の仕事がオリンピックマーチの依頼である。しかし「日本的な感情を盛り込んで欲しい」という要求にかなり苦戦したという。そこで彼は考えた結果、君が代のフレーズを取り込んだとのこと。ただアレンジが強すぎて私にはよく分からなかった。ちなみに私だったらソーラン節辺りを取り込んだだろうな。そしたらよさこいソーラン祭みたいなオリンピックになる(笑)。

 60歳を過ぎた小関は仕事のペースを落として妻の金子と新婚当時のような生活を送っていたという。そんな彼の気がかりは金子に対して「あなたを立派な声楽家にする」という約束を果たしていなかったこと。自分の書いたオペラで金子を舞台に上げたいと考えていたが、金子は子育てに追われて声楽ではなかったという。そして約束を果たせないまま、金子が亡くなってしまう。その後の小関は作曲をせずに身体の中から湧き出る音楽を楽しんでいたという。そして80才で亡くなる。

 

 「英雄たちの選択」では戦中の軍部との軋轢などを中心に描いていましたが、この番組ではその辺りはスパッとカットしてましたね。まあ軍歌で名を上げたというのは、小関としても一抹のやましさのようなものを持っていたようですから。もっともあの時代には仕方ないことのなのですが。小磯良平なんかもあの時代には勇ましい戦争の絵を描かされてました。国家総動員の中で芸術家もそうやって協力しないと、それこそ非国民として特高にしょっ引かれて拷問死させられかねない時代でしたから。

 とにかく小関裕而について言えるのは「見事な職業作曲家だった」ということ。依頼主のニーズを汲み取って、それに応じた曲を作るという能力に長けていました。だからヒット曲になる。もっともその分、自己表現が抑えられることになるから、芸術的にはどうかという話になってくるわけで、その辺りを指して「所詮は流行作曲家」という言い方にもなってしまったりするわけです。まあ芸術性を追求した挙げ句に、音楽とも言えないようなわけの分からん音楽を作っている輩もいますが。

 

忙しい方のための今回の要点

・福島の裕福な呉服屋に生まれた小関裕而は、幼少時から音楽に興味を持ち、将来は音楽かになりたいと考えるようになる。
・彼は商業学校卒業後に応募したイギリスの作曲コンクールに入選、イギリス留学のチャンスを得る。しかし世界恐慌の影響で賞金が出なかったため、実家の呉服屋が廃業して金のなかった小関は結局は留学を断念する。
・その後、声楽家志望の金子と結婚した小関は、コロンビアの専属作曲家となるが2年間ヒットに恵まれず解雇の危機に瀕する。
・この時に「船頭可愛や」がヒット、ようやく一息を付く。しかしその後も2年ほどそれを越えるヒットは出なかった。そんな中「露営の歌」の詩を新聞で見た彼はそれに曲をつける。その軍歌が大ヒットして小関裕而は一躍有名となる。
・その後も軍歌で音楽家としての地位を確立するのだが、戦後になると自らの歌で若者たちを戦地に駆り出したことに対する罪の意識を抱えていた。
・そんな時に「長崎の鐘」の作曲を依頼される。小関の曲は傷ついた人々の心に染みいり、彼らを勇気づけることになる。
・オリンピックマーチの作曲を依頼された小関は、日本的なものを取り入れるため、君が代のフレーズを取り込んだという。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・そう言えば朝ドラも続き始まったんでしたっけ? 私は朝ドラの方は全く見てないんで知らないんですよね。そもそも朝ドラの始まる時刻は既に出勤してますし、録画してまで見る気もしないし。

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