教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

9/9 BSプレミアム 英雄たちの選択「朝倉義景 信長を最も追い詰めた男」

大河で「活躍?」のあの人がついに登場

 今回の主人公は、大河ドラマでも桁外れの「ダメダメオーラ」を発していて存在感抜群の朝倉義景。この人物、足利義昭が頼ってきたにもかかわらず、その将軍カードを活かしきれずに信長に先を越され、挙句の果ては浅井と手を組んで信長と対抗しようとしたが、その度に浅井の足を引っ張っている状態。最後は信長の追撃の前になすすべもなく敗退、そしてまともに抵抗もできずに一気に滅亡という結果を迎えたことから、とにかく戦国マニアの間では評価は低く、「バカ倉」と「ナマ倉」とか陰口叩かれる状態。光栄のゲームなんかだったら文化度ぐらいしか見るべきパラーメータもないし、「殿といっしょ」なんかでは年中寝ていて何も決断や行動しないキャラとして描かれているという始末。だがこの朝倉義景、実は天下をうかがえる位置にもいたし、信長を一番の危機に追い込んだのも彼だったというお話。

 

下克上でのし上がり、一乗谷を繁栄させた朝倉氏

 朝倉氏が戦国大名としてに名乗りを上げるのは義景から五代前の朝倉孝景に遡る。応仁の乱において孝景は越前の守護で幕府の管領であった斯波義廉に仕えて西軍の主力であった。手を焼いた東軍は孝景に越前の支配権を与える約束をして寝返りを誘う。孝景はこれを受けて東軍に寝返り、斯波氏にとって代わって越前を支配することとなった。つまりは典型的下克上によってのし上がったのである。

 朝倉氏の本拠である一乗谷は大規模な屋敷を構え、かなり繁栄した都市であった。また谷の南北は堅固な土塁で守られた城塞都市でもある。内部はかなり整然とした都市となっており、京都からの物品が流通し、京の公家なども訪問したりなど京との結びつきが強い都市であったという。また義景もそのような京とのつながりをアピールすることを自らの権力基盤として置いていた。

 

将軍暗殺事件で否応なく動乱に巻き込まれる

 しかしその義景が動乱に巻き込まれる。1565年に将軍・足利義輝が三好一族に暗殺される。将軍の後継として浮上したのは義輝の弟で出家して奈良の興福寺にいた覚慶。覚慶は三好の手を逃れるために義景の手引きで奈良から逃亡、還俗して義秋と名乗る。そして各地の有力大名に上洛の支援を呼びかける。義景は義秋を安養寺に迎え入れる

 義秋は義景に上洛を求めたが、義景にはそれが困難な理由があった。加賀の一向一揆勢との対立が起こっていたのである。そこで義秋が仲介して一向一揆との間での講和がなる。そして義秋は義景の元で元服し義昭を名乗ることになる。これで義昭の上洛の準備が整う。

 ここで義景に迫られる選択は義昭を奉じて上洛するかどうかである。上洛すれば副将軍格として天下に号令できるようになる可能性があるが、長期京に滞在することとなれば、今は講和しているといっても一向一揆の動向が不穏。ここで番組ゲストの意見は二つに分かれるのだが、面白かったのは磯田氏の「とりあえず上洛して義昭を据えると、後はおっぽって越前に帰る」というもの。

 結局は義景は上洛せず、義昭は織田信長と上洛することになる。まあこの選択自体は越前を死守するという意味では仕方のないところでもあった。しかし上洛した信長から義景は上洛を命じられるだが、義景はプライドがあったのかこれを拒絶。これによって信長が越前攻めすることになる。しかしこの戦いは信長と同盟していた浅井長政が裏切ったことで情勢が変化。信長を討つチャンスが生じた義景であるが、信長のなりふり構わぬ逃げっぷりと、秀吉や光秀といったオールスターキャストの殿軍の活躍で信長を逃してしまう。

 

再度信長を追い詰めるが中途半端に講和

 その5カ月後、朝倉軍は南近江に攻め込み京都に迫る。信長が摂津の三好勢と戦っている隙をついたものだ、この時には比叡山も協力する。義景優位のまま両軍はにらみ合いとなるが、ここで信長が義昭を通じて和睦を持ち掛けてくる。ここでまた義景の選択が、この和睦に応じるか、それとも拒絶するかである。これについては番組ゲストのほとんどが徹底的に戦って信長を滅ぼすしかないというもの。これは私も全く同感。またゲストはそもそもその前に信長に呼び出されたときに上洛するべきだったとの声が多い。これは私も確かにそう考えるところ。そのまま信長の元に下って北方指揮官として仕えれば近世大名として生き残れたかもという話も出たが、ただ北方方面となると対戦相手は上杉謙信となるので、これはかなり分が悪い。手取川でケチョンケチョンにやられるのが柴田勝家でなくて朝倉義景になってしまう。

 で、義景はこの和睦に応じてしまう。この辺りの不徹底がボンボン育ちの甘さという指摘がある。それと雪国越前のために補給の問題もあったのだろうという。この後も義景は何度も浅井に援軍を出すが、冬になると引き返すということの連続で、だんだんと家臣の中に疲労がたまってくる。その挙句、ついには家臣が出陣を拒否する事態になり、やむなく義景が自ら出陣するが、浅井家臣の裏切りで義景は浅井本陣と遮断される。義景はやむなく撤退するが信長に追撃されて壊滅的打撃を受ける。一乗谷に戻ったもの兵はなく、親戚である朝倉景鏡を頼ったが、その裏切りにあって自害して果てる。そして一乗谷は信長の軍勢によって焼き払われたという。

 

 やっぱり何かと決断が甘かったとしか言いようがないところである。平和で文化的な一乗谷にいたら天下が見えなくなるのではという類の指摘もあったが、それは同感。もっとも朝倉義景はそもそも天下に対する野心がなかった可能性も高い。

 番組では「中央の動向に左右されずに地方を守るの徹するという意味で、現在の県知事に求められている人材では」といったよく分からんフォローをしていたが、確かに乱世に向かなかっただけであり、治世の名君だった可能性はかなりある。実際に義景が本当の暗君なら一乗谷の繁栄には既に影が差していたはずだ。

 彼の不幸は同時代に織田信長という「暴虐の魔王様」がいたこと。信長を徹底的に滅ぼさずに講和で手打ちにしたのも「このまま戦って信長を滅ぼしたとして、その後は俺が将軍守って京都で向かってくる敵を次々撃破する必要があるの? 嫌だよ、そんなの。」と考えた可能性がある。だから信長が越前に手を出してくるつもりがないならそれで手打ちにしてもと考えたのでは。しかし残念ながら暴虐の魔王様相手にはそんな甘い考えは通用しなかったということ。信長は「服従か滅亡」のどちらを求めてきますからね。

 

忙しい方のための今回の要点

・朝倉氏が越前を支配したのは応仁の乱で朝倉孝景が下克上で斯波氏に取って代わったことによる。
・朝倉氏の一乗谷は京との強い結びつきもあって繁栄した。
・しかし京で将軍足利義輝が三好一族によって暗殺されたことで朝倉氏は中央の動乱に巻き込まれる。
・足利義昭は朝倉義景に上洛の支援を期待したが義景はそれを果たせず、義昭は信長を頼る。
・義昭を将軍に据えた信長は義景に上洛を命じるが、義景はそれを拒否したために信長の侵攻を受ける。
・浅井長政の寝返りで信長を追い詰めるものの、結局は信長に逃げ切られる。その後も信長が三好の討伐に出たすきに京に迫り、朝倉優位のまま戦線は膠着する。
・ここで義昭を介して講和の提案があり、義景はそれに応じて撤退する。その後も何度か近江に出兵するものの家臣が疲弊していくだけになり、最後は自らが出陣する。
・しかしこの戦いで逆に信長軍の攻勢にあい、義景は身内の裏切りもあって自決する。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・まあボンボン育ちの限界でもあるんですね。どうしても決断と行動が求められる乱世にはボンボン育ちは対応ではない。今だったら「ポンポン痛い」って投げ出して逃げる手があるのですが、この時代にはそれはないですから。
・とにかく「生まれた時が悪かった」としか言いようがない。信長と同時代でなかったら、越前を無難に支配した君主として、歴史には特に悪評は残らなかったのでしょうが。

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