藤原道長の権力掌握の秘密
平安時代に権力を独占し「この世をば、我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思えば」という歌を詠むぐらいの栄華を誇ったとされる藤原道長。彼はどうやってこのような権力を手中に収めたのか。
五男だったのが幸運によって頂点へ上りつめる
道長はそもそもは藤原氏の五男であり、本来は家を継げる立場でもなかったという。さらに父の兼家もそう身分の高い貴族ではなく、そのままでは道長はとうてい権力にたどり着ける立場ではなかったという。しかし兼家が天皇の元に送り込んでいた娘の詮子が男子を生み、その子が一条天皇として即位したことで兼家は摂政になる。これによって道長にも出世の道が開けていき、異例の若さで上級貴族まで出世する。しかし道長の上には兄たちがいた。しかし疫病でこの兄たちが相次いで亡くなったことで、貴族達の中で関白につける地位の人間は道長と甥である伊周しかいないことになる。伊周の方が地位は高かったので、道長は伊周に対してライバル心を燃やしていたらしい。
一条天皇は官位が上の伊周を関白にしようと考えており、これで道長の出世も終わったと思われたのだが、道長の姉の詮子が涙ながらに道長の出世を訴えたことで道長は内覧という実質的には仕事としては関白と変わらない職務を与えられることになる。
ここで伊周がある女性に対して花山法皇をライバルと勘違いし、弟を使って弓矢で威嚇させるという事件を起こしてしまう。これで伊周は左遷されて、道長は藤原氏のトップに上りつめることになる。
番組ではこれを「道長の幸運」と説明しているのだが、私は兄たちが疫病で死んだのはともかくとして、伊周の件は道長の謀略ではないかという気がしてならないのだが、でないと伊周があまりにアホすぎる。
栄華を極めた道長の暮らし
さてこうして出世した道長の年収だが、今の価値で5億はあったろうという。位や官職による手当もあるが、道長の場合は荘園からの収入が大きいのだという。また藤原氏の荘園は税がかからないことになっていたので、名義上藤原氏の荘園ということにしてもらって税を逃れるという貴族もおり、そういう貴族から受け取る謝礼がかなりあったらしい。
道長の屋敷であった土御門殿は通常の屋敷の2倍という広さがあり、さらには別の御殿も持っていたという。この土御門殿が火事で全焼するという事件があったらしいが、この時には公卿や国司などが木材や調度品などを持参したことにより、2年で以前よりも豪華に再建されたという。これは道長が人事権を握っていたことから、便宜を図ってもらおうという意図があるという。
娘を天皇の后とすることで権力を一手に握った
道長がこのように権力を掌握できたのは娘たちを天皇の妻として送り込んだから。一条天皇には彰子を送る。一条天皇には正妻の定子がいたが、兄の伊周の事件の関係で出家していたので、彰子を強引に正妻にする。そして彰子は男子を産む。道長はその喜びを日記に記しているという。
しかし一条天皇は病気を理由に退位し、従兄弟の三条天皇が即位する。皇太子には彰子の子である敦成親王がなったものの、道長は万全を期して三条天皇の元に娘の妍子を送り込む。しかし妍子に子が生まれなかったので道長は三条天皇に退位して皇位を自らの孫である敦成親王に譲るように迫る。三条天皇は自らの子である敦明親王を皇太子とすることを条件にそれを飲む。そうして後一条天皇が即位し、道長は摂政となる。翌年、三条天皇が亡くなると、後見がなくなった敦明親王が皇太子を自ら辞し(実際は道長が圧力をかけたと推測するが)、道長の孫である敦良親王が新たな皇太子となる。それでもさらに道長は娘の威子を後一条天皇の元に送る万全の対策を取る。三代の天皇に渡って天皇の后を送ったことになる。
さらには道長は王朝文化の守護者でもあった。彰子の回りには教養に秀でた女房達を集め、そこには和泉式部、小式部内侍、赤染衞門などの蒼々たる面々がいたが、その中に源氏物語の作者である紫式部も含まれていた。道長は彼女たちに紙や資料まで与えて支援をしたという。なお光源氏のモデルは藤原道長だという説もある。
しかしすべてを手に入れた道長も病気には勝てなかった。件の歌を詠んだ時には既に目がほとんど見えなくなっていたという。道長は糖尿病を患っていたと推測されている。ほとんど身体を動かすことがない上に、食事も儀式ゆ習慣などの関係でかなり栄養的に偏ったものとなっていたために糖尿病を患った推測される。健康上の理由で摂政を息子に譲った道長は54才で出家する。当時の貴族は病気になると延命を願って出家することが多かったという。道長は豪華な寺を建立したりしたという。しかし62才で自らが建立した寺で最後を迎える。
道長の出世に関して「運が良かった」というように番組では表現してましたが、実際は運は半分で後は謀略も駆使していただろうと推測します。また天皇に対していろいろと圧力をかけたりもしていたでしょう。一条天皇が退位して三条天皇に皇位をゆずったなんてのも、一条天皇が道長の支配を嫌ったのではという気もします。なお三条天皇の子である敦明親王が皇太子を自ら辞したなんてのはまさに道長の圧力以外の何者とも考えられません。多分、競争相手を蹴落とすために歴史に残っていないような謀略もかなり駆使しただろうと推測します。
昔から政略結婚というのはよくありますが、それを最も大々的かつ効果的に行ったのが道長ということでもあります。さらには自らの娘を天皇の后とするだけでなく、他の女性を排除するということもしたはずです。とにかく当時の貴族は謀略に長けていないと生き残れないものであり、道長はそれに長けていたのだろうというのが私の推測です。
忙しい方のための今回の要点
・道長は藤原氏の五男だったが、兄たちが病死したことによって出世の道が開ける。
・さらに従兄弟の伊周と関白を争うことになったが、伊周が事件を起こして自滅、その結果として藤原氏のトップの位置を占めることになる。
・道長は年収にして5億はあった推測されている。また人事権を握っていたので、便宜を図ってもらおうとすり寄る公卿や国司なども多かった。
・道長は自分の娘を次々と天皇の后にしており、自らの孫を天皇にして摂政に就任することによって政治の実権を握った。
・しかし道長は糖尿病を患っており、54才で出家してから62才で自らが建立した寺で亡くなっている。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・まあとにかく権力を完全に掌中に収めた人物ですが、彼の場合はその権力を駆使して何かをしたというところがあまり感じられないんですよね。あくまで権力を手中に収めることが目的であり、その権力で何かをしたかったというように感じられない。
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