教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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11/9 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「小田原攻め~秀吉の野望VS北条一族の誇り」

 5代に渡って関東に君臨した北条氏を、天下統一を目指す豊臣秀吉が破った戦いがいわゆる小田原攻めである。この戦いは圧倒的な秀吉軍の前に北条氏なすすべもなく降伏を余儀なくされたと思われているが、実際はそう単純な話ではないようである。

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小田原城

 

同盟者家康を切り崩されて苦境に陥った北条氏

 西国をほぼ抑え、関白にも就任してした秀吉が次に目指したのは関東の制覇である。秀吉は北条氏に臣従を迫ったが、北条氏は頑としてそれに応じなかった。この時の北条氏の勝算は徳川家康との同盟関係だった。北条氏は武田領を巡って一時対立した家康と和解し、同盟を締結していた。確かに家康との同盟がフルに働けば秀吉に対しても勝算はあると言えた。

 しかしそこに秀吉の切り崩しが始まる。秀吉は家康の元に娘の朝日姫を送り、さらには母の大政所まで送り込んで家康の上洛を求める。この秀吉の圧力に家康は屈し、上洛して秀吉に臣従を誓う

 北条氏政・氏直親子はこの報を受けて大いに動揺する。秀吉は北条氏の説得を家康に任せるが、北条氏はこれを拒否する。北条氏では小田原評定を行っていたが、意見がまとまらなかった。当主の氏直は秀吉への臣従やむなしとの考えだったらしいが、父の氏政とその弟の氏照は徹底抗戦派で強硬に反対をしていたという。態度を決めない北条氏に家康は秀吉に臣従できないなら娘をすぐさま返して欲しい(つまりは完全に断交して敵に回るという意味になる)との最後通牒を突きつける。

 

一度は臣従の姿勢を見たものの結局は決裂する

 これに対して北条氏は氏政の弟で外交交渉を担当していた氏規を聚楽第に派遣する。秀吉に謁見した氏規は臣従の姿勢を見せたのであるが、秀吉は氏政の上洛を求める。強行派の氏政の口から臣従を誓わさないと信用できないと言うわけである。これに対して氏規はその前に沼田領の問題を解決して欲しいと要求する。これは家康と氏政が和睦して甲斐と信濃を徳川の領地とし、上野を北条の領地とすることに決めた時、上野の沼田領を支配していた当時は徳川の家臣だった真田昌幸が沼田を北条に差し出すことを拒否したのである。その後に真田昌幸が徳川を離れて豊臣秀吉の家臣になったことで、北条は沼田を手に入れられない状態となっていた。

 そこで秀吉は北条を臣従させるために沼田の2/3を北条領にし、1/3を真田領にするという裁定を下す。しかし沼田城に城代として入った猪俣邦憲が、真田領の名胡桃城に奇襲をかけて城を奪うという事件を起こす。猪俣はあまり深く考えずに軽い考えで暴走したとの見方もあるが、小和田氏は猪俣がそもそも秀吉への臣従に反対で、あえて事件を起こしたのではないかと見ている。なお私の推測は、そもそも戦国一の曲者と言われている真田昌幸がむざむざ城を奪われたというのが極めて不自然であり、北条に対しての侵攻のための大義名分を立てるための秀吉と昌幸が連携しての仕掛けに、猪俣がまんまと乗せられたのではないかとみている。

 

20万の圧倒的大軍で小田原を包囲する秀吉だったが

 とにかくこれで激怒した秀吉は北条に宣戦布告する。その結果、翌年に秀吉は全国の大名を動員し、20万の大軍で小田原に攻め寄せる。まずは堅固な山中城を半日で攻略し、小田原城を完全包囲する。

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山中城の障子堀

 しかし北条氏にとっても勝算はあったのだという。既に小田原城は城下町をまるまる取り囲む強大な惣構えとなっており、また北条氏がよく用いた障子堀も完備していたという。城内には領民を含めて7万が立て籠もっており、いざという時は領民も武器を取って戦う準備が出来ていた。また城内にはこれらの人員が2年ほど立て籠もれるだけの兵糧を蓄えていたという。小田原城の堅固さの前には、かつて武田信玄や上杉謙信でさえ攻略を断念しての撤兵を余儀なくされている。小田原城籠城策は北条にとっては必勝の戦略だった。さらには籠城しながら同盟関係にあった伊達政宗の援軍を仰いで、秀吉軍を挟み撃ちにするという公算もあったという。

 小田原城の堅固さを見た秀吉も力攻めは諦めて長期戦を行うことにする。そのために長束正家に命じて、兵糧の運搬などに万全の体制を敷く。これは秀吉の莫大な資金力あってのことだった。また秀吉は小田原城下に屋敷を築き、さらには諸大名にも屋敷を築くことを許可する。

 しかし余裕を持っていたはずの秀吉に焦りが出てくる。北条氏を追い込むために前田利家率いる北国軍に北条の支城の攻略を命じるのだが、これがなかなか順調に進まなかった。松井田城攻略に半月を要し、さらには鉢形城を落とすのにさらに半月以上を要し、これで秀吉の怒りを買った利家は八王子城では無理な力攻めをやった挙げ句に味方に1000人以上の犠牲者を出してしまう。ちなみに番組では触れていないが、この時に石田三成も忍城攻めで水攻めの大失敗をして結局は忍城攻略に失敗している。秀吉軍はそもそも臣従して日も浅い大名も多い寄せ集め軍なので、最初から士気が高いと言いがたいところがあるのがさらに士気が低下し、下手すれば瓦解の危険性が出てくる。挙げ句、家康が謀反するという噂まで出て来ていたという。これらは秀吉の焦りを生んだ。

 

結局は伊達政宗の去就が大きな決め手に

 もっとも北条氏の方も小田原評定を続けるだけで全く意見はまとまらなかった。ここで戦局を動かしたのは実は伊達政宗だという。北条と豊臣の間で去就を決めかねていた政宗がついに秀吉に臣従を決意する。これで北条は外部からの援軍を期待することが出来なくなってしまった。

 さらに八王子城に続いて韮山城という北条の拠点が陥落、氏政の弟で城主の氏規が投降する。秀吉は早速氏規を小田原に送り込んで降伏を勧めさせる。これで氏政と氏照ら強行派の力が弱まり、氏直ら穏健派の勢力が強まることになるという。そしてここで秀吉の最後の一手が炸裂する。小田原城を見下ろす笠懸山の山頂に突如として総石垣作りの城が現れたのである。秀吉はこの城の建設を小田原到着と共に突貫工事で開始しており、最後の最後でそれまで目隠ししていた木を一斉に切り倒して、一夜にして城が出現したように演出したのだとされている。これはまさに北条氏に対して力の差を見せつけるものであり、これが最後の一撃となって北条氏は降伏する。投降した氏直は高野山に送られ、氏政と氏照は切腹を命じられたという。こうして北条氏は歴史から消え去る。

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石垣山城はあちこちに石垣がゴロゴロしている

 

 以上、北条氏に対する小田原攻めについて。どうもマヌケな北条氏が時勢も読めずに無謀な抵抗をして滅んだというイメージが強かったのだが、結構秀吉の側にも危ない面があり、北条氏は意外と善戦していたんだというのがなかなかに新しい感覚だった。

 もっとも伊達政宗がもし秀吉に付かなかったとしても政宗が一人でウロチョロしただけで秀吉軍を撤退まで追い込めたかは疑問がある。やはり北条が勝つためには例えば島津が動き出すとか、秀吉軍の中から寝返りが出るぐらいにならないと難しかったろう。だから結局は「どうせ降伏するならもっと早いうちに臣従しとけば良いのに」というもの。氏政には「関東の名門である北条が、成り上がりの秀吉ごときの下風に立てるか」というプライドがあったと言うが、そもそも北条自身が早雲が成り上がってからまだ五代程度だったんだが・・・。まあ分不相応のプライドは身を滅ぼす元になるという話であります。

 

忙しい方のための今回の要点

・天下統一を目指して関東制覇を目論む秀吉は北条氏に臣従を迫ったが、北条氏は断固それを拒否する。北条としては徳川との同盟を活かせば秀吉と戦える勝算があったという。
・しかし家康が秀吉に臣従し、北条は孤立することになる。そこで氏規を送り込んで臣従の意志を見せるが、沼田城代の猪俣邦憲が秀吉の命に反して勝手に名胡桃城を奪取する事件を起こし、激怒した秀吉は北条攻めを決意、20万の兵を動員して小田原を攻める。
・北条の小田原城は惣構えの堅固な城で、7万の領民と城兵が立て籠もって兵糧も2年分ほどを備蓄していた。秀吉も力攻めをやめて長期戦の構えを取るが、支城攻略が順調に行かないなど攻略が膠着状態になることで、参加大名の士気の低下から軍が瓦解する危険が出て来て焦りが出てくる。
・そんな時に去就を決めかねていた伊達政宗が秀吉に臣従する。これで北条は外部からの援軍を期待できなくなり行き詰まり、主戦派の力が弱まっていく。そんな時に、秀吉が以前から建築を進めていた石垣山城が登場、圧倒的な力の差を見せつけられた北条氏はついに降伏する。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・ちなみにこの時に小田原城攻めに苦労した秀吉は、後に大阪城の建設の際にその経験を活かして小田原城の惣構えを取り入れたとのこと。ただではコケないというのも天下人にとっては重要な要素のようである。

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