教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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11/23 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「念仏に生きた苦悩の僧・親鸞」

 浄土真宗の開祖である親鸞が今日の主人公。

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親鸞

 

修業に疑問を感じていた時に法然に出会って専修念仏の教えに打ち込む

 親鸞はそもそもは貴族の子弟であった。藤原家の流れを引く日野有範の長男として生まれている。時が時ならそのまま安穏とボンボン暮らし出来るところだったのだが、時は折しも平清盛が台頭してきて貴族が失墜しつつある時期。どうやら親鸞の父も権力争いで失脚させられたらしく、親鸞が9才の時に彼とその兄弟達は全員父によって出家させられてしまう。

 僧となった親鸞はかなりの熱意を持って叡山の厳しい修行に臨んだらしいが、そのような日々を送ること20年、段々と彼の中で苦悩が膨らんできた。それはまず苦行に対する疑問。仏教はすべての人を救うことを目標としていたが、そもそもこのような苦行をして悟らないと救われないのならすべての人には不可能である。厳しい修業は民衆とかけ離れているとの疑問を抱いたのである。しかも当時の延暦寺は貴族社会の身分制度が持ち込まれていて平等な世界ではなかった。

 さらには彼自身が女性に対する煩悩を捨て去ることが出来なかったのだという。彼はひたすら悩んだらしいが、彼が六角堂に通い続けること95日、彼の尊敬していた聖徳太子が観音菩薩となって彼の夢に現れてこう告げたという。「あなたが戒律を破って女性を欲するというのなら、私が女性となってあなたに生涯寄り添って極楽浄土へ行く力となりましょう」と。憧れの聖徳太子にお許しを頂いた(?)ことで彼の悩みは消える。また聖徳太子は僧ではなくて在家でありながら仏教を広げた。この姿に親鸞は比叡山を降りる。

 しばらく後、親鸞は先輩僧侶の聖覚から「あなたを救ってくれる方が東山の吉水にいるから行ってみたらどうだ」と言われる。早速出向いた親鸞がそこで出会ったのは法然だった。法然の浄土宗は専修念仏の教えを広げており、それは厳しい修行を行わなくても「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えてすべてを阿弥陀仏に託することで誰もが極楽往生できるという教えであった。出家も修行も必要ないことから、庶民や貴族にまで急激に信者を増やしていた。親鸞はこれこそまさに万民を救える教えであると法然に弟子入りする。

 なお親鸞が僧でありながら結婚したのもこの頃だという。親鸞は中級貴族三善為教の娘で親鸞と同じく法然の教えを聞いていた恵信尼に思いを寄せるようになったのだという。聖徳太子に許しを得ていた(?)とはいえ、僧である自分が結婚してよいのかと悩む親鸞に対し、法然は「この世を生きるには念仏を唱えやすいように生きればよい。妻をめとった方が念仏を唱えやすいのなら、妻をめとればよい」と親鸞に告げたという。陰で女性を囲っていた僧侶はそれまでにいたらしいが、公に結婚した僧侶は親鸞が初めてだという。

 

旧来派の仏教と衝突して流罪となり、地方での布教を行う

 しかし親鸞が法然の元に弟子入りして6年目、親鸞は流罪にあうことになる。浄土宗は一種の新興勢力であり、それが延暦寺などの旧来の仏教勢力にとって脅威と映ったからである。また法然自身は他の勢力との対立を避けようとしていたが、彼の弟子の中には他の宗派を非難する過激派もいたらしい(よくあることである)。そしてついに法然は延暦寺から専修念仏の布教の停止を求められることとなる。さらには興福寺も法然を非難する。

 それでも摂政だった九条兼実など浄土宗の信者に公家なども多かったことから朝廷も静観していたのだが、ある事件が発生する。後鳥羽上皇が熊野詣でをしている間に、法然の弟子である安楽と住蓮が行った念仏会に感動した上皇の女官二人が出家するということが起こった。この女官が後鳥羽上皇のお気に入りであったことから上皇が激怒(このスケベ男が!)、安楽と住蓮の二人を死罪にした(僧が死罪にされたのは前代未聞)上に、延暦寺などの要求に従って浄土宗に対しての弾圧を行う。法然は還俗させられて流罪、親鸞も死罪にされるという噂もあったらしいが、彼の親類の貴族が動いたらしく、死罪は免れて還俗されて越後に流罪となる。この時、親鸞35才、これが世にいう承元の法難とのこと。

 親鸞は妻の恵信尼を連れて、上越にあった仮屋で暮らす。正式には僧の資格を剥奪されたのだが、これに反発して自身を非僧非俗として越後で浄土宗の布教に努めたという。また彼はこのころから「愚禿釈親鸞(戒律を守れない愚か者の意らしい)」と名乗り始めたという。親鸞は地元の人々に強く支持されたようで、この地には親鸞にまつわる数々の伝説が残っているという。その一つが鳥屋野の逆さ竹というもので、親鸞が竹の杖を逆さに刺し「自分の教えが御仏の意思に叶っているのならこの杖から必ず根と葉が出て竹となる」と唱えたところ、実際に杖から根が生えて葉が生えたというもの。この時に親鸞が杖を逆さまに刺したために、葉は逆さに生えて、地面に向かって葉が伸びるようになったのだという。

 越後で家族とともに暮らして5年、ようやく赦免になる。これでやっと法然に会えると喜んだ親鸞だが、京に戻った法然はすぐに亡くなってしまって親鸞は法然に会えないまま終わる。法然が以前に「自分の死後は弟子達は京に集まらずに伝道に献身するように」と語っていたことから、親鸞は念仏が広まっていなかった関東に行って浄土宗の布教を行う。親鸞の教えは関東で広く受け入れられる。そんな親鸞に敵対する者も少なくなかったのであるが、中には親鸞の殺害を試みたが親鸞の人格に感銘を受けて彼の弟子になった山伏弁円のような者もいるという。

 

念仏の教えを守るために京に移動するが、それが関東での混乱を招く

 しかし法然の死から15年、京では再び浄土宗と延暦寺の対立が起こっていた。そしてついに延暦寺の僧兵が法然の廟所を破壊し、法然の教えである選択本願念仏集の版木を焼いてしまうという事件が発生する。これが嘉禄の法難だという。このままでは浄土宗の教えが消滅しかねないと懸念した親鸞は、教えを残さないといけないとこの頃から多くの執筆を始める。

 さらには60才を過ぎた親鸞は京に移動することにする。これは様々な文献を集めたりする上でも京の方が有利であることなどがあったのだろうという。しかし親鸞が不在になった関東では教団の混乱が起こり始める。特に親鸞が唱えた「悪人正機説」がさらに混乱を深めることになる。これは「人はどうしても悪事を行ってしまうものであるから、それを自覚せずに自らを善人だと思っている者でさえ極楽往生できるのだから、それを自覚して自らを悪人と分かっている者が極楽往生ではないはずがない」というのが真意だという。どうもここでいう悪人というのは、親鸞自分自身であるような気がする。

 しかしこれがなかなか理解されにくく、中には「悪事を行った方が極楽往生できる」という滅茶苦茶な解釈が流布されて混乱を呼ぶ。この事態の収拾に親鸞は息子の善鸞を送るが、残念ながら彼は親鸞ほどのカリスマを持っていなかったために事態の収拾が出来ず、挙げ句に焦った彼は親鸞から特別な教えを受けているとして誤った教えを流布してしまう始末で混乱に拍車をかける。この事態に親鸞は善鸞を絶縁してしまう。84才での苦渋の決断である。

 親鸞は90才でこの世を去るが、結局は自らのための寺院は建立していないという。ひたすら法然の教えを広げることに専念した純粋な人であったようだ。結局は親鸞のひ孫の覚如が親鸞の廟堂を本願寺として浄土真宗が確立する。


 庶民でも信仰しやすいお手軽さもあって浄土真宗は仏教の中でも最大勢力に発展するんだが、そうして成立した本願寺が一種の政治権威となってしまって、戦国時代にはバーサーカー化した念仏軍団を率いる武装勢力になってしまった状況を見たら、親鸞は果たしてどう感じるだろうか? また本願寺はその後も内部対立による分裂やら様々な問題を起こしてはいる。やはりどんな組織でも拡大すると共に腐敗は不可避につきまとうようである。浄土真宗に限らず今日では宗教勢力とは腐敗の温床のような者で、ましてや最初から腐敗のために誕生したかのようなインチキ新興宗教まで登場する始末、恐らくこの現状には親鸞聖人は「こんな事態は私の望んだものではない」とか「これこそまさに末法の時代では」と嘆くであろう。

 

忙しい方のための今回の要点

・貴族の長男として生まれた親鸞だが、父の失脚によって兄弟全員が出家させられることとなる。
・叡山で厳しい修業を20年行った親鸞であるが、いくら修業をしても万人を救えると思えなかったことと、自身の煩悩(女性に対する想い)を断てなかったなどの疑問から、ついには叡山を降りる。
・その後、法然と出会って専修念仏の教えを知った親鸞はそれに感動して法然の弟子となる。またこの時期に結婚もしている。
・しかし法然の浄土宗は延暦寺などの旧来の仏教勢力と対立し、親鸞や法然は還俗させられて流罪となる。
・親鸞は流罪となった越後でも布教に努める。その後赦免されるが、法然がまもなく亡くなり、親鸞は法然が生前に語っていた伝道に努めろとの意に従って関東での不況を行い、関東に法然の教えを広める。
・だが京では再び浄土宗と延暦寺の対立が激化、叡山の僧兵によって法然の教えの版木が焼かれるという事態が発生する。浄土宗の教えが消滅する恐れを感じた親鸞は、京に移って数々の著作を記すことで念仏の教えを広げようとする。
・しかし親鸞が不在となった関東では信徒たちが混乱、さらには親鸞の悪人正機説が正しく理解されずに混乱に拍車をかける。親鸞は息子の善鸞を派遣するが、混乱は収拾できず焦った善鸞が誤った教えを広げてしまう事態まで発生、親鸞はやむなく善鸞を絶縁する。

 

忙しくない方のためのどうでもよい点

・まあどんな宗教でも大抵の開祖は一種の純粋さがあるものだが、それが後継を重ねているうちに既得権益となって腐敗していくというのが常です。大体どの宗教もその経過をたどっている。

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