教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

11/25 BSプレミアム 英雄たちの選択「明治に挑んだ女性~大山捨松"鹿鳴館の華"の実像」

鹿鳴館の華・大山捨松の生涯

 鹿鳴館で華麗なダンスなどを披露して社交界の華と言われた大山捨松。しかし彼女はただ単にそれだけの女性ではなかった。

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大山捨松

 大山捨松こと山川咲は会津藩家老の家に生まれている。教育に熱心だった会津藩で咲は家老の娘としての高い教育を受ける。しかし戊辰戦争によって運命は急変する。咲も籠城する鶴ヶ城で、雨あられと砲弾が降り注ぐ中で弾丸づくりの手伝いなどをしていたという。

 

日本初の女子留学生として渡米する

 明治になって士族の子弟を留学生として送り出すという計画が持ち上がる。10年にわたる長期の留学に対して、咲の山川家はこれに応募したのだという。これは没落した山川家の復活への大きな思いがあった。この時に咲に「捨松」という名を母から与えられたという。そうして捨松は11才で津田梅子らと共にアメリカに渡る。

 捨松はベーコン家にホームステイし、夫人から英語などを学ぶ。彼女が大きな影響を受けたのはベーコン家の娘であるアリス・ベーコン。彼女は差別のない社会を目指していて教師になろうとしていた。当時の日本は未だに良妻賢母を望んでいたのに対し、アメリカでは女性の自立が始まっていた。捨松も大学に進学して勉学に励む。留学の期限が近づいていた捨松はアリスと共に学校を設立することを夢見ていたという。

 しかし帰国した捨松を待っていたのは旧態依然とした差別社会だった。留学帰りの男子には政府の職が用意されていたのに、女子にはそれらは全くなかった。既に22才になっていた捨松は既に当時の婚期を過ぎていた。周囲からも結婚を望まれる中、陸軍卿の大山巌から求婚される。しかし山川家当主の兄はこの結婚に反対、それでも大山は熱心に求婚を続け、兄もついに根負けして捨松に判断をゆだねる。捨松は当初は結婚せずに教師として自立することを目指していたようだが、彼女の日本語の読み書きが初等レベルしかないことがネックとなって頓挫する。そして彼女は政府高官の大山巌と結婚することで社会を変革することを考えるようになるという。

 

政府高官の妻として社会のために活躍する

 西洋経験のある巌との夫婦間は対等の関係であったという。捨松は夫のことを「巌」と呼んでいたという。巌の元を訪れる海外の要人を捨松は作法にのっとってもてなしたという。その頃に日本画文明国となったことをアピールするために鹿鳴館が建設される。捨松はここで社交界の華として活躍する。捨松はここを舞台に社会活動を開始。病院を建設するためのバザーを開催したりしている。賛同した貴婦人たちから多くの商品が寄せられ、現在の価値で1億円に及ぶ資金が集まったという。この資金で日本初の看護学校が設立された。明治の新たな女性像をも捨松は確立した。

 また捨松は津田梅子の学校設立にも協力している。そしてアリス・ベーコンを教師として招いている。捨松はかつてのアリスとの約束をようやく実現したのだった。

 やがて日露戦争が勃発、巌は総司令官として従軍する。捨松は出征兵士の家族を支援する活動を行った。また戦死者の遺族の訪問も行ったという。

 そして晩年の捨松は巌と共に那須塩原で静かな生活を送ったという。捨松がこの世を去ったのは58才の時だという。

 

 番組でも言っていたが、捨松が自由に活躍できたのは大山巌という人物の度量が大きかったことが効いている。彼が単に良妻賢母を求めるだけの男だったら捨松も家庭に閉じ込められてしまうか、それに耐えきれずに家を飛び出すかになっていたろう。優れた女性が最適なパートナーを選んだという幸福な結果であったようである。まあ大山巌はそのような度量があった男だから、あえて捨松に求婚したのだろうとは思うが。

 女子教育に貢献した人と言えばやはり津田梅子が上がるだろうが、後ろ盾のなかった彼女は何かのたびにかなり苦労をしている。そういう時には大山巌という後ろ盾がある捨松の協力は頼もしかっただろうと思われる。また捨松のやり方のうまいところは単に欧米流を「こうあるべきだ」と押し付けるだけでなく、日本式のやり方と折り合いをつけている節が見られるところ。海外帰りの中には往々にして「日本のやり方は全面的に間違っている。欧米式にこういうやり方にすべき。」と上から押し付けるような者がいるのだが、彼女はそのトラップにははまらなかったようである。

 

忙しい方のための今回の要点

・会津藩の家老の娘だった捨松は、11才でアメリカに留学生として渡り、そこで自立する女性たちを見て、自身も日本で女性教育のための学校を作ることを夢見る。
・帰国した捨松を待っていたのは旧態依然とした日本の現実だった。そんな中で大山巌からの求婚を受ける。当初は結婚するつもりのなかった捨松だが、政府高官である巌を通して社会変革できる可能性も考えるようになる。
・西洋経験のある巌は捨松を対等のパートナーとして扱った。捨松は外国要人接待などで巌をサポートするとともに、鹿鳴館でも活躍して社交界の華となる。
・また捨松は鹿鳴館を舞台に看護学校設立資金を集めるためのバザーを開催したり、津田梅子の学校設立にも協力したりしている。
・日露戦争では出征兵士の家庭をサポートしたり、総司令官の妻として戦死者の家族の訪問なども行った。
・晩年の捨松は那須塩原で巌と共に静かに余生を送った。

 

忙しくない方のためのどうでもよい点

・あの時に政府が派遣した5人の女子留学生の中では津田梅子が圧倒的に脚光を浴びる中で、最近になってじわじわと評価されているのが大山捨松です。津田梅子ほどの劇的な働きはしていませんが、手堅く女性のために貢献したという人物でもあります。
・捨松は日本語が初等レベルだったために教師となることを断念したとありましたが、もっと若くして渡米した津田梅子に至っては日本語が不自由で日常は英語を使用していたという話もあります。若くして留学した場合に起こる問題なんですよね。若ければ若いほど英語はネイティブに近づくんですが、日本語能力がその分低下する。これって今日流行の早期英語教育でも同じことが起こりえるんで注意です。

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