教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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11/30 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「古代史ミステリー 日本初の女性天皇推古天皇」

日本初の女性天皇はかなりやり手の女性だった

 日本で初めての女性天皇が推古天皇であるが、その治世は30年以上と長く、その間の日本は安定していた。ここに推古天皇の手腕があるという。

 推古天皇こと額田部皇女は欽明天皇を父に蘇我稲目の娘の堅塩媛を母にして生まれた。この時代は天皇ではなくて大王と呼ばれていた時代で、大王は豪族と合議制で政治を行っていた。額田部皇女は18才の時に後の敏達天皇となる腹違いの兄の妻となる。敏達天皇はキサキである額田部皇女のために「私部」というキサキの宮に物資を納めたり労働するための部署を作ったらしい。当時のキサキには天皇の補佐をして政治をする役割があったことから、キサキの経済基盤を強化しようとしたのだという。さらに蘇我稲目の息子の馬子を大臣に任命していた。

 しかし彼女が32才の時に敏達天皇が崩御、彼女の兄が用明天皇として即位する。しかし用明天皇もわずか2年で崩御、皇位継承を巡って朝廷内が混乱することになる。この時に皇位を争ったのが彼女と腹違いの兄弟となる穴穂部皇子と泊瀬部皇子であった。泊瀬部皇子には蘇我馬子が穴穂部皇子には物部守屋が後ろ盾となって両勢力は対立する。そんな中、穴穂部皇子が敏達天皇の棺を置いている仮の御殿である殯宮に侵入し、そこにいた額田部皇女を我が物にしようとする事件が発生する。すんでのところで額田部皇女に仕える三輪逆が救ったのだが、穴穂部皇子は自分の皇位継承権が弱いことから、額田部皇女と結婚することで皇位継承権を強めようと考えたのだという。そしてこの後、三輪逆が物部守屋たちに殺害されるという事件も発生、ここで彼女は蘇我馬子に穴穂部皇子を討つことを命じる。これで穴穂部皇子は殺害され、その後に物部守屋も討たれる。物部守屋の討伐は額田部皇女の意図に従ったものと思われるという。

 こうして泊瀬部皇子が崇峻天皇として即位、蘇我馬子は大臣に任命される。しかし崇峻天皇が自分を疎んでいることを感じた蘇我馬子は崇峻天皇を暗殺する。史上初の臣下による天皇暗殺だが、どうも臣下の間でも崇峻天皇はふさわしくないという考えが広がっていたようで、朝廷内の混乱はなかったという。

 

手腕が認められて天皇に即位するが外交で手ひどい失敗

 崇峻天皇が亡くなったことで次期天皇の候補としては、額田部皇女の実子である竹田皇子、用明天皇の子で額田部皇女の甥の厩戸皇子、敏達天皇の子の押坂彦人大兄皇子の3人が挙がる。しかし3人とも当時天皇に相応しいと考えられる30歳に達しておらず、39歳の額田部皇女が天皇に選ばれることになったという。長年に渡ってキサキとして権力を奮ってきた実績が群臣達に評価されたという。また敏達天皇の系統と用明天皇の系統が皇位を争う中で、両系統の接点となる位置にいる彼女は両系統の利害を調整できる立場であったことも大きいという。こうして彼女は推古天皇として即位することになる。

 推古天皇は蘇我馬子と厩戸皇子を補佐として政治を行う。まず仏教を興隆して国を治めようとする。そのために蘇我馬子が飛鳥寺を創建、各豪族もそれに習って寺院を創建して仏教は広がっていく。

 さらに中国を隋が統一し大帝国が誕生すると、推古天皇は隋と外交関係を結ぶために遣隋使を派遣する。このプロジェクトは厩戸皇子に託される。しかし初めて送られた国使は隋の皇帝に「倭国はどのような国か」と聞かれた時に「天を以て兄と為し、日を以て弟と為す、天未だ明けざる時、出でて政を聴き、跏趺して坐す」と説明したらしいが、これを聞いた隋の皇帝は倭国は未熟で野蛮な国だと判断する。こうして第一回の遣隋使は散々な失敗に終わる(そのためか国内には記録が残っていない)。

 

国内の諸制度を整備して隋との国交も樹立

 この失敗で推古天皇は国の制度を整える必要を感じる。それまで外交使節を正式に迎える施設がなかったことから、飛鳥の地に中国に倣った墾田宮を建設し、推古天皇はそこに移り、蘇我馬子と厩戸皇子も近くに移る。

 さらには朝廷の組織改革も行い、それまでの氏姓制度を改めて中国の制度に倣った冠位十二階を制定する。こうして実力主義で抜擢が可能にした。さらには憲法十七条を制定して仏教の奨励や天皇の主権を謳う。こうして二回目の遣隋使が派遣され、隋との国交が樹立される。

 また壬生部を設置して皇族の皇子や皇女の養育費を負担できるようにした。これは子どもが多かった厩戸皇子のためとも言われており、推古天皇が自らの後継者として厩戸皇子を考えていたとされる。さらには道路の整備も行い使節の往来なども盛んになったという。

 しかし厩戸皇子が49歳で亡くなり、政権のバランスが崩れてくる。しかし推古天皇は毅然とした態度で台頭してきた蘇我馬子を押さえ込んだという。その蘇我馬子も間も亡くなる。この時、推古天皇73歳だという。その数年後に日食の発生で世の中に不安が広がるが、この時に推古天皇も病に倒れる。そして田村皇子と山背皇子を呼んで彼らに国を治めるための心構えのようなものを説いたという。推古天皇は自分の死後には敏達系統と用命系統から交互に出すことを考えていたという。そして推古天皇が崩御の後に田村皇子が舒明天皇として即位する。また推古天皇は民が苦しんでいる時に自分のための陵を建設してはいけないと言い残して亡くなったという。

 

 日本初の女帝である推古天皇はかなり頑張ってましたという話だが、内容的には今までは厩戸皇子こと聖徳太子がしたことだとされていたことを、推古天皇が行ったこととして紹介しているだけで実のところは新味はない。まあ以前は実質的に政治を取り仕切っていたのは聖徳太子で、推古天皇は飾りのようなものだとされていたのが、実は推古天皇が積極的に政治を行っていたと解釈が変わってきたのが近年の特徴。だが実際には推古天皇と聖徳太子と蘇我馬子の合議制のような形で政治が行われていたのだろうから、誰が行った政策というものでもないのが本当のところだろうと思われる。

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 聖徳太子が後にあまりにスーパーマン扱いされてしまったことで、どうしても推古天皇の陰が薄くなった感があるのだが、実際のところは単に蘇我氏が傀儡として立てた仮の天皇という類いの軽い存在ではなかったというのが分かってきたというところのようだ。しかしこうして考えると、この時代の方がむしろ現代よりも女性の政治参加の道が開かれていた?

 

忙しい方のための今回の要点

・推古天皇は崇峻天皇の死後に、敏達天皇系統と用明天皇系統で皇位争いが起こる中、両系統の利害を調整できる立場にいたことと、それまでキサキとして長年に渡って政務を行ってきた実績によって天皇に即位した。
・推古天皇は厩戸皇子と蘇我馬子を補佐として政務を開始、仏教の興隆、飛鳥の宮の整備、冠位十二階の制定、隋との国交樹立、憲法十七条の制定などの政策を実行する。
・推古天皇は厩戸皇子を自身の後継者にと考えていたが、厩戸皇子が49才で亡くなり、蘇我馬子もまもなく亡くなる。そして自身も病に倒れ、竹田皇子と山背皇子を呼んで国を治める心構えを説く、彼女は自分の死後は敏達系統と用明系統で交互に皇位を継ぐことを考えていたという。
・そして最後は民が苦しむ中で自分の陵を建ててはならないと言い残してこの世を去る。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・推古天皇がなかなかに出来る女性だったとしたら、聖徳太子がいろいろとやり過ぎという不自然さが解決するような気がしますね。これで聖徳太子も一度に十人の訴えを扱わなくても、五人ぐらいで済む(笑)。

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