教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

12/7 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「参勤交代は地方創世の走りだった!?」

一大行事だった参勤交代

 江戸時代に全国の大名が領国と江戸の往復をさせられた参勤交代。元々は鎌倉武士が将軍に奉公するために鎌倉に兵を率いて詰めたのが走りらしいが、これを徳川家康が大名が将軍に対する忠誠度を示すための行事とし、家光の時代に武家諸法度に正式に制度として記載されたことで完全に義務化されたとのことである。

 しかしこの参勤交代。藩にとっては大変なものだった。人数は藩によって違うが、加賀百万石などでは最盛期には4000人もの大行列となったという。こんなにもの人数になるのは、藩主の持ち物や料理道具に風呂桶まで持参するので人数が多くなるという。つまりは城が丸ごと移動するようなものだとのこと。

 ただし行列全てが藩士というわけでなく、行列の1/3ぐらいの人数は荷物を運ぶために臨時雇用された通日雇というアルバイトだったという。通日雇を派遣するための六組飛脚屋仲間という商売が登場し、これがぼろ儲けしたという。実際に米屋久右衛門というが桑名藩に165人を派遣した際には、746両(今の金で7500万円)もの収益を上げたという。どうやら江戸時代にも既に竹中平蔵はいたようである。

 大名行列と言えば、整然と並んだ行列が「下にー下にー」と進むイメージがあるが、実はこのような行列をなすのは江戸に入る時と国に入る時、後は宿に入る時ぐらいで、普段はそれぞれマイペースで移動していたらしい。また1日に30~50キロは歩いたという。

 

参勤交代の責任者は大変

 実際に大名行列を行うのはかなり大変である。まず日程が最初に決まる。まず幕府に参勤交代の日取りのお伺いを立てるのだという。すると幕府の方では他の藩とぶつからないように調整して日程を伝える。するとこの日に間に合うように必死でスケジュールが組まれる。外様の加賀藩は4月頃には江戸に到着するように定められていたから、日程伺いをするのは前年の11月頃だという。

 参勤交代の道中の責任者は供家老であるが、まずは日程を決めるのに重要なのは宿泊地の確保。加賀藩の場合は13泊14日の行程になるので、そのルートと宿泊地を定める必要がある。この時に他の藩が先に宿場を押さえてしまっていてはいけないので、そういう場合にはルートを変えたり近くの宿場に振り返る必要がある。そのため、供家老は各宿場間の距離を一覧にした表を用意して、これで列車のダイヤでも決めるように参勤交代のルート設定をしたという。

 しかしなかなか予定通りには行かないものである。供家老が残した日記によると、黒部川が洪水を起こし、上流に迂回する必要が生じて2日のロスを生じてしまったという。移動を急ぐことになるが、さらに難所にさしかかる。断崖絶壁の親不知である。ここは断崖の下にあるわずかな砂浜を引き潮の時に波を避けつつ渡るしかない。実際に波にさらわれる旅人も少なくなかったという。加賀藩ではこの難所を藩主の籠を通すため、500人を雇って人垣で波よけを作って通過したという。

 また道中でトラブルを起こさないように様々な道中法度を定めていた。加賀藩は宿での大きな物音などを禁止していたという。臨時雇いの者も多いだけに統制が必要だったのだという。

 

参勤交代は出費が多い

 さて藩主が泊まるのが本陣。これはその宿場の裕福な家が建てることが多かったという。料理人から風呂桶まで持参しているので、藩主はこれを使用することになる。なお宿泊料はなしで、受け取れるのは1両から2両程度のご祝儀だけとのことだから、実際は赤字だったらしい。ただ家臣達は民間の旅籠に一泊200文程度の通常料金で宿泊するので、宿場町全体としては潤うことになる。加賀藩のように一行が2000人だとトータルで1泊で800万円ぐらいかかったことになるという。これを1年おきに強いられるので、藩財政には非常に大きい負担であった。

f:id:ksagi:20201208221418j:plain

矢掛に残る本陣

f:id:ksagi:20201208221436j:plain

大名はこの門から駕籠で屋敷に入る

 いよいよ江戸入りとなるとこれは大パフォーマンスの場だったという。一行の着物を動きやすいものから立派な者に着替えさせ、新たに人足を雇い増し、特に大柄の者を集める。将軍や御三家以外の行列は庶民も結構普通に見学できたらしいから、一種のパレード見学のようなものだったという。なんと見学のためのガイド本のようなものまで発行されていたという。だからこそ藩の方でも見せることを重視するようになり、毛槍を放り投げたりなどの派手なパフォーマンスをするようになったという。

 こうして派手になる大名行列は当然のように経費がかかる。鳥取藩の例では約2億円の経費がかかっているという。しかしさらにそれ以上にかかるのが江戸での生活費。大名行列の費用が藩財政の5%を占め、さらに江戸での生活費が35%を占めるため、藩士の給料の50%を加えると国元での行政費は藩財政のうちの10%に過ぎなかったらしい。

 

参勤交代の副産物

 当然ながら藩の財政は逼迫するので、そのために殖産興業で特産品などの製造を進めて収益を上げるなどに力を入れることになったという。

 さらに参勤交代から思いがけない効果もあったという。当時の江戸は参勤交代の武士が集まってくることで街道なども整備され、当然のように商人なども集まってきて人口が増加してくる。そうなると食糧不足が深刻化し、特に野菜の不足による脚気が流行したという。そのために各大名は地元から野菜の種を持参して農民に野菜作りを委託するなんてことが行われたらしい。それらが江戸で定着して江戸野菜として隆盛することになる。綱吉が尾張から持ち込んだ大根を練馬で栽培したことから練馬大根が誕生したのだという。こうして江戸に適応した野菜の種がさらに地方に持参されることがあり、練馬大根はその後、山形で栽培されたりなんてことが起こったとか。というわけで参勤交代が地方の産業の発展を促した部分もあり、それが表題の地方創世だったということらしい。

 

 うーん、参勤交代が地方創世ってのは、確かに中央の文化と地方の文化が交流するという効果はあったろうが、地方創世までは言いすぎという気がする。むしろ地方の富を江戸が収奪して、一極集中の走りになったのではというのが私の考え。

 当初は強すぎる地方の大名を弱体化させる目的で導入した参勤交代だが、幕末ぐらいになると各藩が破綻寸前まで弱体化してしまって、むしろ参勤交代を減らしたり停止するなんて必要にまで迫られるようになったのだから皮肉な話。その中で独自に経済力をつけた薩摩などが台頭した結果、幕府を支えようとする藩もその体力が既になかったので薩摩に抗する術がなかったのだから結果としては本末転倒になってしまった。まあ家康の頃に定まった制度を、世の中の変化も無視してそのまま後生大事に続けていたのだから、ある意味で世の中に合わなくなったのも当然。しかし残念ながら幕末の幕府は前例踏襲ばかりの組織になってしまい、新たなことに挑戦するという風土がなくなっていたのが致命的であった。

 

忙しい方のための今回の要点

・参勤交代は家康の頃から始まったが、武家諸法度に明記されて制度として定められたのは家光の時代である。
・藩主の使用するものなどは風呂桶まで丸ごと運んだので、城がそのまま移動するようなもので、必然的に人数は増加し、加賀藩などでは最盛期には一行は4000人に及んだという。ただし1/3はアルバイトの荷物運びで、これを派遣する人材派遣業者がぼろ儲けしていたという。
・予定期日に大幅に遅れるような事態は許されないので、行列の団取りを決める供家老は大変だった。それでも様々なトラブルで日程が狂うと言うこともあったという。
・大名は本陣に泊まるが、基本的に本陣はご祝儀を受け取るだけで宿泊料はもらえなかった。ただし家臣などは一般の旅籠に通常料金で宿泊するので、宿場町としては潤い、藩には大きな負担となった。
・大名行列は次第に江戸の庶民に対してアピールするためのパフォーマンスが目立つようになり、段々と派手になっていったという。
・参勤交代の費用を賄うために各藩は殖産興業に力を入れた。また地元から野菜の種を持ち込んで周辺農家に栽培を委託したりしたことから江戸野菜が興隆することとなったという。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・大名の負担と言えば参勤交代だけでなく、幕府から突然に公共事業を命じられることもあり、薩摩藩などはこれで散々嫌がらせをされたといいます。結局はそういう恨み辛みが募り募って明治維新につながったなどと言います。まあ嫌がらせをし続けていたら、いつかは倍返しされるってことです。

次回のにっぽん!歴史鑑定

tv.ksagi.work

前回のにっぽん!歴史鑑定

tv.ksagi.work