忠臣蔵の真実
今でも毎年このシーズンになると、どこかしかで忠臣蔵が演じられたりするのだが、実際に忠臣蔵は赤穂浪士の討ち入りの直後にすぐに歌舞伎の演目となり、半世紀後には大阪で人形浄瑠璃の演目として人気を博したという。客の入りが悪い時にはこれをやると必ず客が入る独参湯(気付け薬らしい)と言われたぐらいとのこと。おかげで吉良上野介は悪党のイメージが定着してしまったのであるが、本当に吉良は悪人だったのか。それを吉良上野介の側から検証する。
忠臣蔵の発端となった松の廊下の刃傷事件とは、勅使供応の儀式の準備中に、松の廊下で供応役の浅野内匠頭が指南役の吉良上野介に突然に「この間の遺恨覚えたるか」と叫んで斬りつけたのだという。直前まで上野介と話をしていてその場にいた梶川与惣兵衛が内匠頭を止め、騒ぎを聞きつけて駆けつけたものによって上野介は運び出された。
上野介は額と背中に傷を負っていたが、内匠頭の凶器が小刀であったのと、烏帽子の金具に刃が当たったことで傷自体はそう深いものではなかったという。その後の調べでは内匠頭は「遺恨があった」と証言したのに対し、上野介は「思い当たることはない」と証言しており、両者の証言は食い違っている。
マザコン綱吉の公平さを欠いた裁決
しかしこの裁定を下すべき綱吉が冷静さを失っていた。今回の勅使饗応は綱吉の母が官位をもらうための工作だった。そこにケチを付けられた形になった綱吉がブチ切れ、内匠頭は即日切腹で吉良はお咎めなしという滅茶苦茶な裁定を下してしまう。当時の常識はケンカ両成敗であったから、いかなる理由があれ私闘であれば両方が処罰されるのが通例だった。しかし唯一の目撃者の梶原が「吉良殿は刀に手をかけなかった」と証言したことから、「殿中であることを考えての殊勝な態度」と評価して、「老体であるから十分保養するように」というねぎらいの言葉までかけた。
吉良に対してこのような甘い措置になった理由としては、吉良家が非常に格式が高く、高家として朝廷との取り次ぎなどの任に付いていた。上野介も礼儀作法に通じた高家肝煎となっており、朝廷との関係を重視していた綱吉にとっては重要性が高かったからだという。さらに上杉家に養子に入った上野介の長男の妻が紀州徳川家の栄姫と結婚しており、栄姫の兄の綱教が綱吉の娘の鶴姫と結婚していたことから、遠縁とはいえ上野介は親戚であったのだという。
上野介と内匠頭の怨恨の真実は?
さて上野介が内匠頭に嫌がらせをしたとされているが、それは真実だったのか。饗応役の内匠頭は指南役の上野介に教えを請う立場にあったのだが、そこにパワハラがあったとされているのだが、その真相は明らかではない。上野介が内匠頭の妻に横恋慕して振られた腹いせなどという話まであったらしいが、当時の武家の妻が他の男性とホイホイと顔を合わせることがないので荒唐無稽だという。また上野介が赤穂の塩の製法を盗もうとしたなどの説もあるが、そもそも赤穂の塩は特別でもなんでもなく、その製法も秘密ではなかったうえに、そもそも吉良家が塩を作っていたという話もないとのこと。内匠頭が上野介に賄賂を送らなかったからという説があるが、実際に内匠頭が上野介に金を支払わなかったという記録があるというので、根拠がないことではないという。ただし賄賂と言うよりも実際は指導の謝礼であり、むしろこれを出し渋った内匠頭の方が非常識であるという。これが上野介の心証を悪くしたことは考えられるという。
さらに儀式の予算(浅野家が負担することになる)についても、上野介が1200両は必要と言ったのに、内匠頭は700両で十分と頑として聞かなかったのだという(実際に700両では全く足りなかった)。これらのことがあって上野介は内匠頭に対する心証を悪くしていたことは間違いなく、上野介が老中に「内匠頭は万事不調法で言うべき言葉もなく、公家衆もご不快に思われている」と語ったという記録が残っているという。だから上野介が内匠頭に対して辛辣な態度を示した可能性はあるという。ただ内匠頭に嫌がらせをしたという点については、 もしそれで内匠頭が饗応役と失敗したら指導役の上野介の面目も失うことになるので、流石にそれはしなかっただろうとしている。
なお内匠頭の刃傷は彼自身が「突発的なこと」と語っているという。元々精神が不安定だったとされる内匠頭が、大役のストレスの上にこの日はどんよりと気が沈むような曇天だったとのことで、それらの要素でぶち切れたのではというのがこの番組の説。
地元では名君だった上野介
なお上野介の領国では吉良上野介は名君として慕われており、地元では忠臣蔵は戦前までは御法度だったとか。上野介が地元の農民のために建設したとされる堤も残っている。また上野介は寺院を訪れては茶の湯を愛でる風流人だったという。また娘に送ったとされる愛情のこもった書状も発見されており、子煩悩な人物であったと覗えるという。
事件の12日後に上野介は幕府に高家肝煎の退職願を提出している。治療に専念するためか責任を取ったのかは不明だという。だがこの後、上野介は江戸の外れの本所に引っ越すように命じられている。これは誰が目論んだことかは謎らしいが、この引っ越しは「もし赤穂浪士が討ち入りしてきても幕府は守らない」という意思表示になるという。実際にこの頃には赤穂浪士が吉良邸を襲撃するという噂は江戸市中に出回っていたらしい。吉良邸の隣の屋敷の主が「赤穂浪士が討ち入った時にはどうすれば良いか」と幕府に問い合わせたところ、「一切手出しせずに自邸内を守れ」と言われたとのこと。幕府は明らかに赤穂浪士の動きを放置していたという。これは幕府の処置が不公平であると非常に評判が悪かったために、幕府が吉良を見捨てたと考えられるという。
そして運命の日
吉良邸は警護を固めていたようであるが、事件から時が経つにつれて明らかに上野介の警戒も緩んでいき、本所屋敷でも茶会を開いたりするようになったという。そしてその茶会の情報が大石達に漏れ、その日が上野介が確実に屋敷にいる日として討ち入り決行日になってしまう。
そして深夜、赤穂浪士が表門と裏門から討ち入りし、まず吉良家の家臣が暮らす長屋の戸口をかすがいで打ち付けてしまう。これで100人以上いた吉良家の家臣の半数以上を戦わずして動きを封じたという。吉良側家臣が応戦、剣客の清水一学が大立ち回りを演じて・・・とされるのだが、これは明らかに後世の脚色で、恐らく清水一学は早々と討ち取られてしまったと考えられる。それに実はそもそも清水一学は剣客でもなんでもなかったという。もっとも上野介の後継ぎであった吉良義周は長刀を振るって奮戦、全部で十数カ所の傷を負って辛うじて生き延びたという。
上野介は炭小屋に逃げ込んでいたが発見されて首をはねられた。この時に上野介は命乞いをしたと言われているが、実際は刀を抜いて戦ったという記録もあるという。
なお赤穂浪士達は切腹させられたが、吉良家のその後が悲惨であるという。上野介の嫡男の吉良義周は「赤穂浪士に上野介を討ち取られたのは武士として不届き」として領地没収の上で諏訪に流されてしまう。義周は失意のまま3年後に21才の若さで亡くなって吉良家は断絶してしまう。
まあ吉良上野介は実際のところお気の毒というところがかなり多い。正直なところ、内匠頭はかなり精神を病んでいて、実際には上野介に対してかなり被害妄想を抱いていたのではないかという気がする。実際にある人物が自分を陥れようと常に画策していると一方的に信じ込んで、その人物をつけ回してはことあるごとに暴力をふるわれたとかなどの虚偽通報を繰り返して、何とか警察に相手を逮捕させようとするような患者もいるとか。内匠頭も多かれ少なかれこれに近い部分もあったのではとの気がする。実際に上野介が国元で非常に評判が良いのに対し、内匠頭の国元での評判はというとかなり危ないものが多く、かなり以前から精神を病んでいた可能性があるのである。
ではこの件は誰が一番悪いのかであるが、それは迷う余地もなく綱吉であることは明白である。母親のための行事にケチを付けられてぶち切れたマザコン綱吉が、冷静さを欠いて滅茶苦茶な裁決をしてしまったことが一番の原因となっている。実際に両者の間に遺恨があったのなら、これはケンカ両成敗で上野介にも処罰があるべきだし、事件が内匠頭の一方的な思い込みによるものだとしたら、この時代にも実は「精神障害に伴う犯罪に対する免罪措置」はあり、内匠頭が強制的に隠居させられて、浅野家は次の当主を立てる(浅野大学が当主となることになるだろう)ことで浅野家は続くというのが当たり前の結論だったのである。
つまりは冷静さを欠いて綱吉が滅茶苦茶な裁決を下した結果として、赤穂浪士達は切腹させられることになり、吉良家は断絶になってしまったという非常に不幸な結果になったわけである(義周が一番可哀想である)。トップがアホな判断をし、その挙げ句に下の者がそのしわ寄せを食らうというのは今の時代にもまさに現在進行形で発生しているが、この時代などは封建制だけにさらに顕著であったというわけである。
忙しい方のための今回の要点
・浅野内匠頭と吉良上野介の間に遺恨があったとされるが、上野介が内匠頭の妻を横恋慕した説や、製塩の技術を盗もうとした説などは根拠が全くないという。
・ただ内匠頭が賄賂を贈らなかった説については、実際に内匠頭が金を支払わなかったという記録があるという。しかしこれは実は賄賂と言うよりも、指導に対する謝礼であり、むしろ払わなかった内匠頭の方が当時の武士としては非常識であるという。
・このために上野介が内匠頭に対する心証を悪くし、邪険に対応したということは考えられるという。しかし嫌がらせなどについては、そのことによって内匠頭が饗応役を失敗したら、指導役の上野介も面目を失うことを考えるとあり得ないだろうとする。
・上野介は地元では名君と慕われており、娘への愛情を感じさせる文書も残っており、冷酷な悪人というわけではないと考えられる。
・世論の反発を食らった幕府は、吉良を見捨てる形で江戸郊外の本所に移転させる。
・吉良は討ち入りを警戒していたが、時間が経つにつれて緊張も緩み、屋敷で茶会を開いた夜に討ち入りを決行されることになる。
・吉良家の家臣は半分は長屋に閉じ込めらてしまった上に不意打ちを食らい、赤穂浪士の一方的な勝利となり、吉良上野介は討ち取られてしまう。
・上野介の嫡男の義周はなぎなたを奮って奮戦したのだが、後に幕府に上野介を討たれたことが不届きとして、領地没収の上に諏訪に流され、失意のまま3年後に21才で亡くなってしまう。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・浅野内匠頭の凶行は、多分ヒステリー発作のようなものだと私は思います。実際に梶川と話をしている上野介を見た時、内匠頭は「また俺の悪口を回りに吹き込んでいるな」と被害妄想に駆られて斬りつけたのではないかというのが私の推測。トップが頭がおかしかったら、当然ながら下の者は全員が不幸になります。
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