教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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12/23 BSプレミアム 英雄たちの選択「九州 もうひとつの関ヶ原~軍師・官兵衛 知られざる野望~」

 秀吉の軍師として活躍し、その天下取りに大きく貢献したとされる黒田官兵衛であるが、晩年になるとその能力を秀吉に警戒されて遠ざけられたと言われている。その官兵衛が関ヶ原の機に乗じて天下を狙っていたのではということが言われているが、その真偽や如何に。

 

秀吉に冷遇されていた晩年

 まずはいきなり「お城クン」こと千田氏が、官兵衛が居城としていた中津城を訪問してテンション上がりまくっているのだが、この中津城は川沿いの平城であるが、この川が海につながっており、船を通じて物資や情報が集まるようになっている。官兵衛は早舟のルートを築いて上方の情報をわずか3日で入手していたという。この中津の地でジッと中央の動向を覗っていたのである。

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官兵衛の中津城

 官兵衛は豊前12万石を給わっていたが、これは官兵衛が秀吉の天下取りに果たした役割を考えるとあまりに少なすぎる領地と言える。この辺りに秀吉が官兵衛の実力と野心を恐れていたことが現れている。また九州の地はそもそも治めるのが非常に困難な地であった。秀吉は九州平定の際に国衆や地侍に領地の安堵を約束したのだが、実際には検地や領地替えなどで権益を奪っていっている。このために九州では秀吉が送り込んだ領主への反乱が相次いでおり、佐々成政は領地支配の失敗で秀吉から切腹を命じられている。官兵衛もここで統治に苦しみ、高森城などの堅固な要塞を築いて反抗する国衆を鎮圧することから始めないといけない状態だったという。中津城には宇都宮氏を祀る神社があるが、宇都宮氏はこの地を400年治めてきた国衆で、反抗する者には容赦はするなと言う秀吉の指示によって、官兵衛は宇都宮鎮房と一旦和睦した後に中津城に招き入れて家臣共々暗殺という凄惨な方法を取っている。調略を得意としていた官兵衛としては、納得の出来ない秀吉の命令だったと考えられるという。

 

関ヶ原をきっかけに動き始める官兵衛

 そうやって九州で雌伏していた官兵衛だが転機が訪れる。それが関ヶ原の合戦。九州の大名の多くが西軍に付く中で、官兵衛の息子の黒田長政は明確に東軍につく意志を示す。これに対して官兵衛は毛利輝元に書状を送るなど、西軍に心を寄せているかのような態度を見せている。恐らく官兵衛はどちらが有利かを両天秤にかけていたのだろう。しかしその間に官兵衛は3600人の浪人を雇い入れ、領内の百姓などからも兵を集めて総勢9000の軍を組織した。着々と準備は整えていたのである。

 そこに九州の情勢を変化させる事態が発生する。大友義統が毛利輝元の後押しで豊後に戻ってきたのである。官兵衛はここで東軍として大友軍討伐に動く。そして石垣原の戦いで大友義統を破って降伏させる。これが関ヶ原の戦いと同じ日のことである。

 さらに官兵衛は主力が出払っていた西軍の城を次々と攻略する。官兵衛は井伊直政から家康はどこに出兵しても構わないとのことで手に入れた国は与えると仰せになっているという書状を受け取っていたという。まさに官兵衛待望の戦国が訪れたわけである。そして官兵衛は猛将・立花宗茂の攻略にかかる。この頃には官兵衛は加藤清正及び鍋島直茂と手を組んでいた。立花宗茂も三方から攻められては降伏するしかなかった。こうして関ヶ原から1ヶ月で官兵衛は九州のほぼ全域を勢力下に収め、残るは島津だけとなっていた。

 

島津との対戦直前に家康の中止命令

 官兵衛は降伏した立花宗茂を先陣に、加藤清正と鍋島直茂を伴って島津領に迫る。しかしここで家康から攻撃中止の命令が到着する。ここで官兵衛の選択として、1.家康の命に従うか 2.家康に従わないかである。官兵衛としては実は島津と戦わずに傘下に収めるということも可能であったという。島津が傘下に加わると九州を統一して家康に対抗することも可能であった。

 ここでどちらを選択するかだが、これは意見が分かれていた。私としては2を選択して欲しかったが、実際には1しか選択の余地がなかろうというもの。島津は手強い上に本国に主力を残していた(義弘がもっと軍勢を送れと催促にしても、義久は頑としてそれを拒んだ)ので、戦闘で島津を屈服させるのは不可能だし、もし勝利してもその時には官兵衛の側の軍勢もガタガタになっていて、とてもそこから次なる戦いは不可能になっただろうと予想できる。島津を降伏させられればよいが、島津はそうホイホイと降伏するとも思いにくい。また上手く島津が降伏したとしても、それぞれ思惑が違う寄せ集めの軍勢で家康と対抗できるかとなれば、官兵衛にそこまでのカリスマがあったかはかなり怪しい。

 

戦闘の終結と官兵衛の秘めたる野心

 官兵衛は家康の命令に従って、九州での戦いは終わった。黒田家は長政の関ヶ原の活躍で筑前52万石に大幅に加増されたが、戦で切り取った土地を与えるという約束は反古にされた(まあ家康のいつもの手です)。黒田家の築いた福岡城はかなり実戦に即した城であり、官兵衛は江戸時代になっても戦いを忘れはしなかったのではと言う。で、終盤はまた千田氏が福岡城を訪問してハイテンションのレポートを行っている。

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福岡城の多門櫓

 なお黒田長政が残した遺書には官兵衛から聞いた構想として、官兵衛が大阪方に通じれば加藤清正は味方になるはずで、さらに大阪方の島津・鍋島・立花を加えて中国地方の軍勢も加えると10万ぐらいになるので、これで家康と戦えるというような大構想があったとか。まあこれが実際に可能だったのかは疑問もあるが、策士官兵衛なら全くあり得ないことではないかもと思わせるところがミソである。

 

 戦国でこそ真価を発揮する官兵衛としては「俺の時代が来たー!!」ってものだったのだろう。磯田氏も「多分この時の官兵衛はお城を巡っている時の磯田や千田みたいな顔だったろう」と言っていたが、それはまさしくそうだろうと私も感じる。恐らく「若い頃を思い出す」と嬉々としていただろうと思う。磯田氏は「実は権力を求めるよりも戦いが好きなだけだったのでは」というようなことを言っていたが、多分にそんなところはあると思う。そもそも官兵衛はどこまでいってもトップに立つタイプでなく、権力者に参謀として仕えるタイプなので、トップに立ってしまうとどこかで無理が生じたと思う。

 なお官兵衛が語っていた大構想がもし実現していたら完全に戦国時代パート2になってしまうのだが、官兵衛が近畿辺りで家康とドンパチやっていたら、背後では伊達やら上杉やら真田やらが動き始めるだろうから、家康も危なかったろう(福島正則なんかも官兵衛側に付くだろうし)。そうこうしているうちに事態がもつれて家康の寿命が来たら、後継はボンクラ秀忠(治世にはともかく、乱世には全く使い物にならない)だから、徳川家もあっという間に没落するだろう。

 もっともそうなっていたら、歴史マニアの妄想としては楽しいけど、当時の一般庶民にとっては治まりかけていた世の中が再び戦乱の世の中に逆戻りするわけで、とんでもない話ではあるだろうけど。実際にその時代に生きている人にしたら、血湧き肉躍る戦乱の世なんかよりも、何もない退屈極まりない平和な世の方がはるかに大切ですから。

 

忙しい方のための今回の要点

・秀吉の天下取りに貢献した黒田官兵衛だが、その能力と野心が晩年の秀吉に警戒され、統治しにくい九州の12万石の大名に押し込められていた。
・しかし関ヶ原の合戦が勃発、官兵衛は独自に兵を集めて9000人の軍団を作り出し、それで毛利が豊後に送り込んだ大友義統を打ち破る。
・官兵衛は家康からの「切り取った領地は与える」との約束を得て九州の西軍方の諸大名を次々と攻略する。また加藤清正や鍋島直茂と手を組み、残るは島津だけとなる。
・しかし島津を攻略しようとしたところで家康から攻撃中止の命令が来る。官兵衛はやむなくそれに従う。
・黒田家は長政の功績で筑前52万石を得るが、官兵衛への約束は一方的に反古にされる。
・なお長政の遺書には官兵衛が語った構想として、大阪方として加藤、鍋島、立花、島津を従えて、九州・中国の兵10万を率いて家康と対峙するという計画があったと記されている。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・官兵衛が実際にはどの程度本気で天下を狙っていたかは疑問です。ただし晩年のあの冷遇ぶりを見ていたら、官兵衛未だ健在というのを見せたいという意地のようなものはあっただろうと思われます。
・大阪方に付くということは、秀頼を奉じて秀吉の時のように参謀として手腕を振るおうと考えていたのかも知れない。とにかくトップに立つタイプではないから。
・まあ秀吉が晩年に官兵衛を警戒したのは、疑心暗鬼に駆られがちの老いた独裁者が彼の能力を恐れたというところは大きいだろうが。天下は一応定まったのに、官兵衛は無駄に乱を好むというところがあると判断したんだろうとも感じる。

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