教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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1/4 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「鬼平~長谷川平蔵の真実」

鬼平こと長谷川平蔵の実像

 池波正太郎の小説で有名な火付盗賊改の鬼の平蔵こと長谷川平蔵は実在の人物である。ちなみに長谷川平蔵については以前に歴史科学捜査班でも紹介されている。

    
小説で大人気です
     
コミックにもなりました
     
実はこのアニメ、なかなか良かったです

 

遊び人から更正して火付盗賊改に就任

 長谷川平蔵は旗本の出身、家禄は400石と決して高くはないが、家柄の格式は高く父は京都町奉行まで出世したという。平蔵は若い頃はいわゆる不良で放蕩三昧だったらしいが、28才で父が急死して家督を継いだことで真面目に働くようになる。出世を重ねて41才で御先手頭となり、その3ヶ月後に老中・松平定信によって火付盗賊改に抜擢される。

 火付盗賊改は放火犯や盗賊を取り締まる職でかなりの激務だったという。町奉行は文官だったのに対し火付盗賊改は武官なので、町奉行では手に負えない凶悪犯罪者などを取り締まるのが役割だった。また町奉行の管轄は江戸市中のみであったが、火付盗賊改にはそんな領域はなかった。また任務は書類の決裁なども含めて長時間に及び、さらに事件や火事があれば深夜でもお構いなしだった。このような激務のために2~3年で任を解かれるものだが、平蔵は足かけ8年も務めたという。

 また平蔵は検挙率が高いのが特徴で極悪な盗賊を多く捕まえて厳罰に処したことから評判を上げた。平蔵がこのように多くの賊を捕らえることが出来たのは、彼自身が若い頃の遊び人だった経験から裏の世界に通じていたこと、さらに捕らえた犯罪者を目明かしとして捜査などに使用していたからだという。

 

無宿人のための人足寄場を設置する

 さらに平蔵の功績として人足寄場を作ったことが上げられる。当時の江戸は天明の大飢饉の影響で治安が悪化していた。犯罪者になる可能性の高い無宿人を平蔵は石川島の人足寄場に集めて職業訓練などを実施して、彼らが職を持って自立できるように支援した。また中沢道二という心学者を招いて道徳などの講義を行う心の支援も行った。これで犯罪は減少し、松平定信もこれを平蔵の功績として評価したという。

 その一方で松平定信の倹約政策で平蔵は資金面では非常に苦労していたという。設立の翌年、平蔵は運用資金を捻出するために公金を使って銭相場に手を出すという荒技で500両を儲けてこれを運営資金に充てたという。非常な大技である(失敗していたら切腹ものだろう)。

 

庶民に圧倒的に支持された平蔵が町奉行になれなかった理由

 平蔵が庶民から熱烈な支持を受けたのは悪党に対する果断な処置だけではなく、弱者への目配りも欠かさなかったからだという。町方が盗賊を捕らえた場合、すぐに奉行所に連行するのでなく、町人の自衛組織である自身番に一晩置くのが決まりだったが、警備などの人件費が町人の負担となるために、平蔵は捕らえた犯人をただちに自分の屋敷に連行するように命じたという。そして町方が犯人を連行してくると、町方にそばを振る舞ったという。平蔵は部下に対してもよく酒や食事を振る舞ったという。またお裁きについても凶悪犯罪者には重い刑を科すが、それ以外には比較的軽い刑を科したという。さらには誤認逮捕した者には勾留日数に応じて謝罪金まで渡したという。平蔵の情け深さは悪党共にまで知れ渡っており、一度は逃亡した盗賊が「町方に捕まるよりは」と自ら出頭してきたという例まであるとか。平蔵は庶民に「今大岡」とまで呼ばれ、町奉行就任待望論が持ち上がってきたという。

 旗本にとっては町奉行は出世の終着点とのこと。しかし平蔵の町奉行就任は何度も阻まれ、結局は実現しなかった。それは実は松平定知が平蔵のことを嫌っていたからだという。松平定知は平蔵の実績を認めている一方で、堅物でもある定知は銭相場で資金を調達したり犯罪者なども捜査に使う平蔵の手法をひどく嫌っていたのだという。結局平蔵は火付盗賊改の激務のためか50才で亡くなっている。

 

 まあ「出来る人」だったのですが、それ故に軋轢も多かったのだろうと思います。彼の上司の松平定知という人は確かに清廉潔白な人だったようですが、それが度を過ぎて偏屈な堅物でもあり、結局は寛政の改革は理念倒れで終わって失脚しています。ちなみに彼はその前の田沼の重商路線を徹底して否定し、田沼に対する対応もかなりねちこくて執念深かったところがあります。と言うわけで、田沼意次を高く評価している私としては、当然のように松平定知に対する評価はかなり低いです(笑)。結局は寛政の改革なんて当時の社会状況を無視して理念を押し付けただけであり、頓挫するのは当然だったと考えています。ましてや全く同じ路線でさらに時代が変わった幕末に実行した天保の改革なんて、寛政の改革よりもさらに悲惨な大失敗をしています。時代と共に社会状況などが変化していっていることを考えると、幕府を立て直すには田沼が目指していた重商路線しかなかったというのが私の考えですが、残念ながら田沼の考え方は当時としては斬新に過ぎたので、頭の固い幕閣連中には理解不能だったんでしょう。と言うわけで私が以前から唱えているのは「田沼意次を大河ドラマの主人公に」だったりする(笑)。明智光秀は30年来を経てようやく実現しましたので。

 と、平蔵をほったらかして田沼の話になってしまいましたが、平蔵についてはやはり弱い連中のことを実際に知っていたというのが大きかったのだろうと思われます。不良の心を知っているヤンキー先生みたいなものです。やっぱりそこのところの庶民感覚がなかったら、庶民も納得するような裁判なんて出来ないだろうと思われます。今でもガチガチエリートの裁判官とかが世間の常識からかけ離れた判決をしてしまうことが多々ありますが、やはり人を裁く者は裁かれる者のことを知っていないと無理でしょう。政治家も同じで、カップラーメンが400円なんて思っているような奴が庶民のための政治を出来るわけがないということです。

 

忙しい方のための今回の要点

・長谷川平蔵は旗本の出身で、若い頃は遊び人だったが家督を継いだことで真面目に職務に励むようになった。
・41才の時に火付盗賊改に抜擢される。火付盗賊改は激務であり、通常は2~3年で変わるところを平蔵は足かけ8年もこの任に付いている。
・平蔵は凶悪な盗賊を捕らえて厳罰に処したことで名を上げるが、彼の高い検挙率の秘密は彼自身が過去の経験から裏社会の事情に通じていたことと、捕らえた犯罪者を目明かしとして捜査に利用したりしていたことによる。
・また天明の大飢饉の影響による無宿人の増加による治安の悪化に対応するため、平蔵は人足寄場を設立してそこで無宿人達の職業訓練や道徳教育を実施、それによって江戸の治安の向上につなげた。
・凶悪犯は厳しく裁き、それ以外には恩情をかける平蔵は庶民に支持されて町奉行への就任も期待されたが、松平定知に嫌われていたために町奉行にはなれずに火付盗賊改のまま50才でこの世を去る。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・まあ庶民に人気の出るような人に限って、組織の中では受けが悪かったりします。それは上にも物怖じせずに意見するような者が庶民にとっては理想ですが、そんなことする奴は真っ先に左遷食らいますから。これはいつの時代にも共通すること。ちなみに今の時代は庶民受けだけを狙って、裏であくどいことをする輩もいるので要注意。とにかくテレビにさえ出ていたら庶民を騙せるので、悪党にとってはチョロい時代になりました。

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