教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

1/6 NHK 歴史秘話ヒストリア「日本地図を手に入れろ! シーボルトの極秘ミッション」

国防上の問題から地図作成を急いだ幕府

 幕末の日本は地図の製作が重要事項となっていた。と言うのも、北方にロシア船が出没するようになったことから、国土防衛の観点から蝦夷地の地理を確認しておく必要に迫られたのである。そこで幕府は北方調査隊を送り込むが、その一員が間宮林蔵である。彼は蝦夷地を調査し、択捉島まで到達する。しかしそこでロシア船と遭遇、間宮も戦闘に参加することになったが日本軍は惨敗する。日本側は神出鬼没のロシア船に苦しめられたのだが、それは先年に日本に貿易交渉に訪れたラクスマンがその帰途に蝦夷地の測量を行って地図を作成していたからだという。当時のヨーロッパは世界各地で測量を行って地図を作成していた。それはどの地がどの国の所属であるかを明確にするために不可欠のものであった。

 江戸に戻った間宮は地図作りのエキスパートであった伊能忠敬の元を訪れて測量のノウハウを学ぶと、再び蝦夷地に戻って地図の作成を開始する。海岸線のならず内陸にまで入り込んでの測量を行い、9年の歳月を費やして精密な地図を作成する。江戸に戻った間宮はこれを伊能図の完成を託されていた天文方の高橋景保の元を訪れる。こうして伊能図に間宮の地図が加えられて日本の全図が完成する。

 

オランダの情報部員だったシーボルト

 その頃、長崎を訪れていたオランダ人医師がシーボルトだった。シーボルトは鳴滝塾を開設し、多くの塾生に医学を指導すると共に無償で治療も行った。その一方でシーボルトは非常に熱心に日本の情報を収集していた。そんなシーボルトに疑問を抱いた弟子の一人の高野長英が「先生には医者の他に何か別の務めがあるのではないですか」と聞いたところ、シーボルトは察機密官(日本調査の特命を受けたもの)だと答えたという。シーボルトの雇い主であるオランダは日本の貿易の独占を守るためにシーボルトを使って貿易に纏わる情報を集めようとしていたのだという。つまりはシーボルトは情報部員だったわけである。

 

伊能図の写しを入手するがそれが大事件に

 そんなシーボルトの元に日本の正確な地図が存在するとの情報が入ってくる。シーボルトは何としてもこれを入手したいと考える。しかし江戸城で厳重に管理されている地図に長崎から出ることも出来ないシーボルトが接触する機会はなかった。そんな時にオランダ商館長が将軍に謁見することになり、シーボルトはこれに同行して江戸に向かうことになる。

 まずシーボルトは間宮林蔵に接触して蝦夷地の情報を引き出そうとしたらしいが、間宮の口は堅くてほとんど何も引き出せなかったらしい。そんなシーボルトに接近を図ってきたのが高橋景保だった。彼は最新の地図が記載されたクルーゼンシュテルンの世界周航記をどうしても入手したくてシーボルトに接近したのだった。それを所有していたシーボルトはその本と引き替えに伊能図の写しをもらえるように高橋と交渉する。

 こうしてシーボルトは伊能図の写しを入手したのであるが、これは当時の幕府において大罪だった。そしてそれは思わぬルートから漏れることになる。高橋がシーボルトから送られた荷物の中に間宮へのものがあったことを間宮に伝えたのだが、当時は外国人からの贈り物を受け取ることは御法度であり、間宮がこのことを奉行所に報告、高橋は厳しい取り調べを受けた挙げ句にシーボルトに地図を渡したことを自白したのだった。こうしてシーボルトの元にも捜査は及び、地図は没収されてシーボルトは国外退去となる。なお高橋は獄死した後に斬首されたという。地図を持ち出すことはそれだけの重罪だったのだという。

 

シーボルトが書いた本が元で西洋列強が日本進出競争

 1832年にオランダで「ニッポン」というタイトルの本が出版される。シーボルトが3年かけて書いた本であった。その中に正確な日本地図が描かれていたことが話題となった。実はシーボルトは没収される前に地図を複写して、それを密かに持ち出していたのだった。初めて日本の正確な姿を目にした西洋諸国は色めき立ち、日本を目指しての競争が起こることになる。そんな中でアメリカはシーボルトの日本地図集をオランダから3万ドルで購入する。日本に派遣されることになったペリーは日本開国のためには武力行使も辞さない覚悟であった。日本に妻子がおり、日本に対する愛着も強くなっていたシーボルトは、日本が戦渦に巻き込まれることを懸念してペリーに同行を願い出るがそれは却下される。そこでシーボルトはロシアに働きかけて、日本と平和裏に外交交渉を御なうことを提案、シーボルトの功績を高く評価していたロシアはその提案を受けてプチャーチンを日本に派遣することにする。

 そしてペリーが浦賀に来航する。しかしペリーは武力を行使することなく再び来ることを告げて一旦引き上げる。ペリーが一度引き上げたのは、シーボルトがペリーに対して日本人の感情を考慮して1年の猶予を与えるようにとアドバイスしたのが効いているのではとしている。そしてプチャーチンは長崎を訪れて外交交渉となる。ロシアと日本には国境問題も存在するので交渉は難航したのだが、その時に活躍したのが間宮が作成した地図だったという。1年に及ぶ交渉によって択捉島とウルップ島の間に国境が引かれることで決定される。

 やがてオランダとの間にも条約が締結され、シーボルトは30年ぶりに日本を訪れて妻子と再会したという。2才の時に別れた娘は医師となっていたという。なお樺太と大陸との間の海峡に間宮海峡と名付けたのはシーボルトとのこと。


 以上、日本地図とシーボルトの話。以前から言われてはいましたが、やはりシーボルトは情報部員だったか。それにしても伊能忠敬の後継者が刑死していたとは。高橋は自分の好奇心を優先する研究者肌だったが、間宮はガチガチのお役人だったようです。

 

忙しい方のための今回の要点

・幕末、ロシア船が頻繁に日本近海に現れるようになり、幕府は国防上の観点から蝦夷地の詳細な地形を把握する必要に迫られる。その結果北方調査団が派遣され、間宮林蔵はその一員だった。
・蝦夷地の調査を終えて江戸に戻った間宮は、伊能忠敬から測量の指導を受けて再び蝦夷地に戻り、9年をかけて詳細な地図を作成する。
・江戸に戻った間宮は伊能図の完成を託された高橋景保の元を訪れる。こうして伊能図に間宮の地図が加えられて日本全図が完成する。
・鳴滝塾で医学を指導していたシーボルトはオランダから日本の貿易に纏わる情報を収集することも命じられていた。伊能図の存在を知ったシーボルトは将軍に謁見するために江戸を訪問する商館長の一行に同行して伊能図の入手に奔走する。
・シーボルトに高橋が接近、シーボルトは高橋に書物の提供の代わりに伊能図の写しをもらう約束をする。しかしその件が漏れ、高橋は獄死し、シーボルトは地図を没収されて国外退去となる。
・しかしシーボルトは密かに地図の写しを作成しており、それがシーボルトが帰国後に執筆した「ニッポン」に記され、西洋列強の日本進出を促すことになる。
・ペリーによる武力行使によって日本が戦渦に巻き込まれることを恐れたシーボルトは同行を願い出るが拒絶される。そこで今度はロシアに働きかけて、日本と平和裏に交渉するように依頼する。
・結局はペリーはシーボルトのアドバイスを容れて日本と平和的に交渉することになり、同時にロシアも日本と平和的に交渉、国境線を画定して条約を締結する。そしてシーボルトは30年ぶりに日本を訪れて妻子と再会する。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・シーボルトは多くの植物もヨーロッパに持ち帰っていて、それがヨーロッパの園芸界に革命をもたらしたとか。やっぱりジャポニズムはありとあらゆる分野に大きな影響を与えた時代だったんだな。

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