暴れん坊将軍ならぬ米将軍吉宗の生涯
「暴れん坊将軍」として知られる徳川吉宗だが、このあだ名はテレビドラマが勝手につけたもので、本来は米価のコントロールに四苦八苦したことから米将軍と呼ばれている。しかし実際の吉宗の苦労はコメにとどまらずあらゆる経済面に及んでいたのである。
紀州藩主の光貞の四男として生まれた吉宗だが、母は身分の低い女性だったらしく、生まれてすぐに城を出されて家臣の元で育ったという。彼はこの時に全くの庶民としての生活をしている。身体も大きくて力の強い暴れん坊少年だったという。
しかし賢い少年でもあったという。11才の時に父の光貞が4人の子供達に刀の鍔の入った箱から好きなものをやるといった時、兄たちはそれぞれ好きなものを取ったが、吉宗は一言も発しないので父が「なぜ欲しがらない」と聞いたところ、「私は兄上が選んだ後に残った箱ごとすべて頂きとうございます」と答えたという。抜け目のない吉宗に父は笑みを浮かべながら箱ごと与えたところ、吉宗はそれを家臣達に分け与えたという。また吉宗は実学には高い関心を示したが、儒学や和歌などには関心を示さなかったという(実用本位の学問をしたということのようだ)。13才で参勤交代で江戸に来た時は、大名行列を見て「自分も一生に一度はああいう行列を整えてみたい」と考えたという。
運命のいたずらで藩主になり、さらに将軍に
しかしその10年後、父や兄が相次いで亡くなり、22才で吉宗に藩主の座が転がり込んでくる。だがこの時の紀州藩は10万両の借金のある財政破綻状態だった。吉宗は緊縮財政による財政再建に取り組む。1日2食にして着物も簡素なものにした。しかし商人農民には決して倹約を押し付けるなとも言っている。
さらには収入を増やすために水路を建設して新田開発を行っている。これらの取り組みで財政を改善し、借金は12年で返済、その上で14万両の金と11万6000石の米を蓄えるに至ったという。
そして吉宗が33才の時に将軍家継が7才で病死して、徳川の直系が絶えてしまう。そこで水戸、尾張、紀州から将軍を選ぶべく老中が会議を行い、財政再建の手腕も評価されて吉宗が将軍に選ばれる。しかし吉宗は「序列では尾張、年齢では水戸が相応しい」と最初は辞退したという。だが天英院が直々に吉宗に将軍就任を要請する。
とのことなのだが、これについては吉宗が将軍に就任するために天英院に働きかけたという話もあります。また実際に序列では尾張というのが実際にあり、これが後々まで禍根を残すことになります。この後、尾張は吉宗の倹約令に対して徹底的に抵抗したりもしてますが(尾張は吉宗の倹約路線でなく、積極財政路線を進んだ)、本番組ではその辺りは割愛してます。
幕府の財政赤字解消に取り組む
しかし幕府の財政も火の車だった。家康が残していた貯えは完全に使い果たしていた。そこで吉宗はまずは倹約による支出削減に取り組む。儀式の類いを簡素にし、大奥もリストラして美女を選んで50人を解雇したという。美人なら大奥を出ても生活に困らないだろうという考えだったという。さらには大名に対して参勤交代を減らして負担を減らすから、領地一万石に付き百石の米を差し出して欲しいと依頼する。将軍が恥を忍んで大名にカンパを頼んだのである。これで収入が18万7000石増加したという。さらには抜本的増収のために新田開発を行い、直轄領の収入が50万石増加することになる。
こうして財政を立て直すと、次には金銀銅の海外流出に対して手を打った。中国との貿易で大量の金銀銅が流出していたのを防ぐために貿易に制限をかけた。しかしそれは密貿易の増加につながる。そこで吉宗は自ら取締に乗り出す。藩の垣根を越えて長州藩、小倉藩、福岡藩に合同で出兵させ唐船を攻撃させた。しかしそれでもまだ手ぬるいと感じた吉宗は、密貿易で捕らえた日本商人の金右衛門をスパイとしておとり捜査を実施、中国の密貿易の首領を捕らえることに成功、これで密貿易は激減する。
さらに輸入を制限したことで輸入で賄っていた品が不足することになる。その対策として吉宗は小石川御薬園で漢方薬を栽培したり、生糸の生産を奨励したりした。また菜種の栽培を奨励したりなども行う。さらにアワビや昆布などの俵物の生産を増加させて輸出にも力を入れる。
米価下落に対して必死の対応
しかし予期せぬ事態が発生する。新田開発などで増産したことにより米余りが生じて米価が下落するのである。これは米で俸禄をもらっている武士の貧困化を意味する。そこで米価を上げるために60万石の米を買い取って備蓄するという政策をとったが米価は上がらなかった。そこで大岡忠相の進言を取り入れて、貨幣を改鋳して貨幣の流通量を増やす政策を実施する。金の含有量を20%減らした天文小判を製造し、古い小判100両を天文小判165両と引き替えることにして貨幣の流通量を増加させた。
こうしておけば米の価格を引き上げても買うことが出来るだろうという考えで、いわゆるインフレ誘導であるが、これは狂乱物価を招くリスクもあった。しかし米の値段は1.5倍に高騰したが、他の物価は大きくは変動せず、吉宗はこの賭けに勝利した。これで武士の生活も楽になる。
吉宗は62歳になった時に将軍職を長男の家重に譲ることを表明する。ただ家重は将軍の能力に疑問が持たれていて、次男の宗武を推す声も多く、吉宗自身も宗武を気に入っていたという。しかし吉宗は徳川家の長子相続の慣例を踏襲して家重を将軍にする。これは将軍選択が実力主義になることで後々に将軍職争いが起こることを懸念したのと、能力的に問題のある家重を自分が後見するつもりであったのだとされる。
しかし吉宗はこの翌年に脳卒中で倒れる。その後懸命のリハビリに取り組んだようであるが、結局は68才で死亡する。吉宗は死ぬまで米相場の資料に目を通していたという。吉宗の墓は生前の指示に基づいて質素なものであるという。
傾きかけていた徳川幕府を立て直して中興の祖と言われる吉宗の話。経済感覚に優れていたというのが今回のポイントであるが、要は庶民の生活を知っていたというのが大きいと思われる。やはり庶民感覚からかけ離れている者はまともな政策を実行しにくい。そう言う意味で日本の政治家が二世の馬鹿ボンが中心になった途端に急激に劣化したのも当然である。
吉宗がとった政策は緊縮財政なのであるが、実際は単に緊縮しただけでなく、むしろ予算配分にメリハリを付けたという言うべきであろう。新田開発などには実際に投資しているのであるから。要は儀式とか大奥といった完全な無駄部門の予算をカットして予算を合理化したわけである。なお尾張は吉宗とは逆に積極財政路線を取ったが、それが結実する前に吉宗の横槍で頓挫している。今となってはどっちが正しかったかは判断が難しいところだ。
忙しい方のための今回の要点
・紀州藩主の四男として生まれた吉宗は、母の身分が低かったこともあって幼少期は城から出されて家臣の元で庶民として生活している。
・そんな吉宗が父や兄が相次いで病死したことによって22才で紀州の藩主に就任する。
・その時の紀州藩は多額の借金を抱えた破産状態だったが、吉宗は質素倹約による支出削減と新田開発などによる増収策によって12年で借金を返済し、金や米を備蓄できるようにした。
・吉宗が33才の時に将軍家継が病死、その後継に抜擢される。しかしこの時の幕府の財政は破綻状態であり、吉宗は質素倹約と新田開発などに取り組むことになる。儀式を簡略化し大奥をリストラするなど支出を減らし、さらには大名には参勤交代を緩和する代わりに米のカンパを依頼、これによって財政を立て直す。
・さらには金銀銅の海外流出を防ぐために貿易を制限する。またそのことによって増加した密貿易については、自ら取締に乗り出してこれを壊滅させる。
・輸入が減って不足した漢方薬や生糸などは国内での栽培を進めると共に、新たにあわびや昆布などの俵物の輸出を強化する。
・しかし米を増産しすぎたことによる米価低迷によって武士の生活が困窮する事態が発生する。幕府が米を買い入れたが米価が上がらなかったことから、吉宗は大岡忠相の意見を取り入れて貨幣を改鋳して流通量を増やすことにする。
・これは狂乱物価を生みだしたかねない危険な策であったが、とりあえず米価は1.5倍になり、その他の物価はさして上昇はせず政策は成功する。
・吉宗は62才の時に長子相続で後継将軍を家重に譲って後見に回る。しかし翌年に脳卒中で倒れ、懸命のリハビリに取り組むものの68才で亡くなる。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・番組では62才で脳卒中で倒れ、その後のリハビリでは回復できずに亡くなったという流れになっているが、実のところは62才で倒れてから死んだのは68才と言うことで、実はその間に熱心なリハビリはかなりの効果を上げていたということは「偉人たちの健康診断」で以前に放送されていました。この辺りは微妙な解釈の違いがありそうです。
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