教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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番組リスト

1/14 BSプレミアム ザ・プロファイラー「革命家レーニン 20世紀を変えた男」

ソヴィエト連邦を建国した革命家・レーニンの生涯

 かつて自由主義国のアメリカと対立した社会主義陣営の中心だったソヴィエト連邦を建国した革命家レーニン。彼の生涯をプロファイル。

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革命家・レーニン

 

下級貴族の子に生まれるが革命的思想の影響を受ける

 レーニンはボルガ川河畔の都市シンビルスクで下級貴族の子として生まれた。当時のロシアはロマノフ家が支配し、貴族が富を独占するのに対して農民は教育も受けられないような格差社会であった。レーニンは下級貴族であったので暮らしは豊かで、レーニンも成績は優秀で学年の最優等生だったという。長兄のアレキサンドルも中学でメダルをもらうほどの優秀な学生でレーニンは彼のことを尊敬していたという。そんなレーニンが刺激を受けた本が兄の愛読書であったチェルヌイシェフスキーによる「何をなすべきか」だった。反政府活動で投獄された彼が記した、個人の独立・男女の平等を描いた書であったという。

 しかしレーニンが15才の時に父が突然に病に倒れて死去、さらに翌年には兄のアレキサンドルが皇帝暗殺を目論んだとして秘密警察に捕らえられて処刑されてしまう。一家はそれまで親しくしていた人たちからもテロリストの家族としてつまはじきにされる。この経験がレーニンにブルジョアに対する恨みを刻み込んだという。

 一家は引っ越してレーニンは亡き父も通ったカザン大学で法律を勉強する。この頃にレーニンはマルクス・エンゲルスの共産党宣言に夢中になったという。共産主義にはまり込んだレーニンは非合法のグループに参加、わずか半年で大学を追放される。

 

共産主義者としての活動を開始する

 その後のレーニンは母の勧めで兄と同じサンクトペテルブルク大学に入学して弁護士の資格を得る。しかしボルガ地方の大飢饉に対して何も手を打たないロシア政府に対する怒りがこみ上げる。彼は弁護士として働きながらもマルクス主義者の非合法な集会に参加するようになった。23才で既に髪が薄く、議論になると上から目線で尊大な態度を取ることから老人というあだ名が付いていたという。またここでナジェージダ・クルプスカヤと知り合って惹かれ合う。そして1897年、27才の時に仲間とマルクス主義の政治組織を結成する。しかし間もなく反政府の危険人物として逮捕されることになる。

 28才でレーニンはクルプスカヤと結婚、彼女はこの後秘書としてもレーニンを支えていくことになる。30才で釈放されるレーニンだが、秘密警察の監視付きである。そこでレーニンは監視を逃れるための亡命生活を始め、ヨーロッパ各地を転々とする。ドイツのミュンヘンで冊子を発行して密かにロシアに送って配布していた。しかしドイツの警察にまで目をつけられたのでロンドンに移り、そこで同じく革命家であるトロツキーと出会う。彼はレーニンの新聞を読んで共感したのだという。1903年、ロシア社会民主労働党の第2回党大会がロンドンで開かれ、50人ほどの革命家が参加。しかし職業革命家(奇妙な言葉だ)が中心の革命を目指すレーニンと大衆中心の革命を目指す派閥が対立、独裁的と批判されたレーニンは相手を裏切り者と徹底的に罵倒したという。しかし方針を決める投票ではレーニンは少数派になってしまう。だが負けを認めないレーニンは自分のグループを多数派を意味するボリシェビキと主張したという(お前はトランプか?)。これで多くの仲間に愛想を尽かされてトロツキーとも袂を分かつことになる。

 

社会不安が増す中で革命の気運が高まる

 しかし日露戦争の勃発で兵士達の不満が高まって怒りがニコライ二世に向かう。そして首都のサンクトペテルブルクで10万人の民衆が蜂起し、民主化を求めるデモが発生する。この時に皇帝の軍が市民に発砲して1000人以上が虐殺される血の日曜日事件が発生する。ジュネーブでこの事件を知ったレーニンは「権力を奪取するにはあらゆる手を使わないといけない」とロシア国内の同志に命じて、活動資金獲得のために銀行の馬車や郵便局を襲わせて現金を強奪した。この時に強盗のトップだったのがスターリンだったという(妙に納得できる)

 1909年39才の時にレーニンはフランス系亡命ロシア人のイネッサ・アルマンドを愛人とする。これを知った妻のクルプスカヤは離婚を切り出したそうだが、レーニンは妻とも愛人とも別れず、その内にクルプスカヤとイネッサが親友となって奇妙な関係が生涯続くことになるという。

 1914年にドイツがロシア帝国に宣戦布告、第一次世界大戦が勃発する。ロシアは開戦から1年で27万の兵士が戦死、民衆に厭戦気分が広がっていくが、皇帝は戦争をやめようとしなかった。中立国のスイスに逃げ込んでいたレーニンは活動資金も尽きて弱気になっていたという。しかし1917年にサンクトペテルブルクで戦争の停止と食料を要求するデモを女性達が起こし宮殿を制圧、皇帝と家族は捕らえられロマノフ王朝が崩壊する(男性が戦場に行っているから女性が革命を起こしたのか)。しかし革命で成立した臨時政府は戦争の継続を発表、レーニンはどうやっても帰国してボリシェビキを中心とした政権を打ち立てると考える。だがスイスからロシアに渡るには敵国であるドイツを渡る必要がある。しかし当のドイツがロシアの内情が混乱すれば東方戦線が楽になるとのことでレーニン達を列車で帰国させる

 

革命で権力を握るが内戦が勃発して独裁色が強まることに

 ロシアで熱狂的に迎えられたレーニンは戦争の即刻停止、土地の国有化、ソビエト(評議会)への権力の集中を訴えて民衆の支持を得る。ボリシェビキの勢力も2万3千人から20万人へと急速に拡大、さらにトロツキーが和解して入党、スターリンも流されていたシベリアから帰還する。こうしてついに武装蜂起に及ぶ。実際にはほとんど戦闘なしに臨時政府を制圧する。これが十月革命である。この時レーニンは47才。

 レーニンは土地の国有化及び男女の同権を実施する。しかし憲法制定議会の選挙では、ボルシェビキは都会の労働者の票は集めたものの、農村からの票を集められず第一党となれずに終わる。しかしレーニンは選挙の結果を認めずに強引に議会を解散してボリシェビキの一党独裁政権を打ち立てる(お前はトランプか?)。他の党は当然のように反発してロシアの各地に独立政府が乱立することになる。

 この時ボリシェビキの支配下にあったのは国土の1/10ほどだったという。また周辺諸国も革命の波及を恐れて兵を送り込んだ(日本もシベリア出兵をしている)。レーニンはトロツキーに農民兵である赤軍を創設させ、秘密警察チェカも創設した。これが後のKGBである。反ボリシェビキの軍は白軍と呼ばれ、この内戦でロシアは荒廃する。さらに飢饉が追い打ちをかける。農民は食料を囲い込んでしまってレーニンの支配下の都市では深刻な食糧難が発生する。この事態にレーニンはチェカを農村に派遣して、穀物や畜産物を強引に集めることになる。抵抗する者は容赦なく処刑した。1918年3月にボリシェビキはロシア共産党に改称し、諸外国からの干渉を避けるために内陸のモスクワに遷都する。レーニンは反乱の芽を摘むべく、捕らえていたニコライ二世を家族共々処刑する。独裁者化するレーニンに対する不満は高まり、ついには反ソビエトの女性活動家にレーニンが狙撃されることになる。銃弾3発の内2発が命中、レーニンは一命を取り留めるが、これ以降健康状態が悪化していく。1921年に内戦はほぼ終結し、ソビエト社会主義連邦が成立するが、その2年後にレーニンは53才でこの世を去る。

 

 ソヴィエトは結局崩壊して、その後もレーニンに対する評価は二転三転しているとか。そもそもは理想家であったのだが、革命がすすむ内に現実との軋轢もあってあらぬ方向に進んでしまったという部分が大きい人物であるが、急進的な革命では往々にして発生することである。なおゲストから後継者の選択を間違えたというようなことを言っていたが、確かにレーニンの後に権力を掌握したスターリンが最悪で、結局は極めて粗暴で凶悪な国家体制になってしまった。レーニンが見せていた負の部分を全体に拡大してしまったのがスターリンである。実はあの手の凶暴な手合いは革命時の執行部隊には使えるのだが、革命が成立した後には粛正して除いてしまう必要があるのだが(所詮は猟犬である)、レーニンがすぐに亡くなったためにそれが出来なかったのがソヴィエトの悲劇ではある。恐らくトップに立ったのがスターリンでなくてトロツキーなら、ソヴィエトはもう少し穏健な国家になれたろう。

 ちなみにレーニンが当初目指していた共産主義国家というのは、それが本当に成立していたら確かに民主的なユートピアとなり得る。ただし共産主義が成立するには国民が高度な目的意識を持っている必要があり、つい先日まで農奴制だったロシアでは所詮は不可能だったということである。同様につい先日まで独裁帝国だった中国でも共産主義革命は結果として新たな中央集権国家に向かってしまった。現在に至るまで地上に真の意味の共産主義国家が成立したことはない。私はもし共産主義が成功するとしたら、西ヨーロッパのイギリスやフランスのように民氏主義の歴史が長くて国民に浸透している国家でしかあり得ないと考えている(北欧が共産主義の手前まで行っているような気もするが)。

 

忙しい方のための今回の要点

・下級貴族の家に生まれたレーニンは成績優秀な少年だったが、兄の影響で読んだ書物に影響を受けていわゆる革命思想的なものに染まる。その後、父が亡くなり、兄が皇帝暗殺を企てたとして処刑されたことで回りの知り合いから排斥され、ブルジョアに対する恨みを抱くことになる。
・マルクス・エンゲルスの共産党宣言に感銘を受けたレーニンは革命運動に身を投じることになる。しかし秘密警察に逮捕される。釈放後は監視を逃れてヨーロッパを転々としながら、新聞や冊子をロシアに送って運動を続ける。
・日露戦争に対する不満からの民衆蜂起に対する武力弾圧の血の日曜日事件が発生の後は、レーニンは「革命に手段を選べない」と資金調達のために銀行馬車や郵便局の襲撃を行わせる。この際にその取り締めを行ったのがスターリンである。
・第一次大戦が始まるとロシアは甚大な被害を出して民衆に厭戦気分が広がるが、皇帝は戦争を継続した。これに対して女性達が蜂起したデモが宮殿を制圧してロマノフ王朝が崩壊する。
・帰国を目論むレーニンに対し、敵国であるドイツがロシアが混乱すれば東方戦線が楽になるとの判断で帰国に手を貸す。帰国したレーニンはボリシェビキを率いて武装蜂起、臨時政府を制圧する十月革命で権力を掌握、土地の国有化、男女同権、ソヴィエトへの権力集中などを唱える。
・しかし次の選挙でボリシェビキは農村の支持を得られずに第一党になれず、レーニンは強引に議会を廃止してボリシェビキの独裁を確立する。反対する他の政党が各地で独立政権を樹立してロシアは内戦に突入する。
・レーニンは秘密警察チェカを設立して、飢饉の際に農村から強引に食料を挑発するなど独裁制を強めていく。そのためについにレーニンは反政府活動家の女性に狙撃されることになり、命は取り止めたものの、その後急激に健康状態が悪化することになる。
・1921年にロシアを統一してソヴィエト連邦が成立するものの、レーニンはその2年後にこの世を去る。

 

忙しくない方のためのどうでもよい点

・レーニンを見ていると、乱を起こすことは出来るが乱の後を上手くまとめるということが出来なかった人物という印象を強く受ける。実際のところは革命時には同志の精神的象徴となるような人物が必要であるが、その人物が革命成功後も権力を掌握し続けた場合には大抵は強烈な独裁者になって世の中がおかしくなる場合が多い。私は以前から創業家と経営者は別の才覚が必要といっているが、これは国家の建国でも同じことが言えるようである。

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