世界布教のために日本に目をつけたザビエル
日本にキリスト教を伝来させたフランシスコ・ザビエル。さらにザビエルの後を受けて日本での布教に励んだルイス・フロイス。この二人の目を通して戦国時代の日本を紹介する。
ザビエルは1506年にイベリア半島北東部のナバラ王国の貴族の子として生まれた。しかしフランスとの戦争に巻き込まれて家が没落して聖職者を目指すことになったという。そして28才の時に6人の同志とイエズス会を創設。6年後には教皇パウルス3世に正式な修道会として認められたという。イエズス会は世界布教を創設の目的として掲げていた。
そこでザビエルはインドのゴアを拠点にアジアへの布教を進めた。そしてマラッカに行ったところで日本人のアンジローと出会ったのだという。そして日本人が理性的であり、単一言語であることから布教が成功する可能性が高いと考えて、1549年にアンジローを伴って日本にやって来る。
しかし思わぬ障害に突き当たる
薩摩では島津貴久からすんなりと布教の許可を得られる。この時の日本人の印象をザビエルは「日本人は異教徒の中でもっとも優れている」と残しているという。また日本の識字率の高さにも注目したという。
こうして薩摩での布教を始めたのだがなかなかうまく行かなかった。それはアンジローの通訳の拙さも原因であったという。キリスト教の専門用語の翻訳に困ったアンジローは日本人に馴染みの深い仏教の用語に翻訳した。しかしそのせいでキリスト教が仏教の一派と思われてしまったのだという。なおザビエルがどうしても許せなかった日本の慣習が男色(衆道)だったという。当時の日本は僧などでも男色が非常に一般的で、同性愛が御法度のキリシタンとしては非常に抵抗が大きかったらしい。そうこうする内に僧達との対立が強まり、ザビエルは薩摩を離れることにする。
1550年には平戸で領主の松浦隆信の許しを得て布教を始める。松浦は宣教師を運んでくる南蛮船との交易を目的に布教を許したのだという。なおここでもザビエルは見慣れぬ外国人に抵抗の強い人々に対して布教の困難さを感じることになる。
中国経由での布教を目論むが志半ばでこの世を去る
ザビエルは布教の拡大のために山口を経由して京に上って天皇に謁見することを考える。しかし京は応仁の乱以降の戦乱で荒れ果てていて、天皇の権威も衰えていたことから謁見を断念して山口に戻る。結局は山口で大内義隆に布教の許可を得てここを拠点にする。ザビエルは天皇に献上する予定だった品を大内義隆に献上したのだという。このことからザビエルは「布教を進めるには領主に贈り物をすることも重要」と残している。なおザビエルはコミュニケーションの場であった井戸端を布教の場に選んだという。ザビエルは半年ほどの滞在で500人以上の信者を獲得した。
その後、豊後に移動したザビエルだが、キリスト教を日本に広げるには仏教と同様に中国から伝来させた方が良いと考え、明への布教を計画する。そこで一旦日本を去ってゴアから明を目指すことにする。しかし当時の明は鎖国状態であり、入国できないまま熱病にかかって亡くなってしまう。
日本で信長と接近したフロイス
サビエルが日本を去った12年後の1563年に31才のフロイスが長崎の横瀬浦に到着する。ここでは領主大村純忠がキリシタンとなっており、横瀬浦にはキリシタンの集落が出来ていたという。そのためにフロイスは大歓迎される。しかし後に純忠の義弟の後藤貴明が家督を狙って挙兵、横手浦もその煽りで焼き討ちされてしまう。この時に病気で倒れていたフロイスは日本の言葉や風習を必死で学習していたという。
1565年にフロイスは京の都に入る。この時には三好長慶に布教の許可を得ていた。しかしフロイスが都に入った3ヶ月後に三好義継達が将軍御所を襲撃して足利義輝を殺害する事件が発生、フロイス達は堺に逃亡することになる。
そんなフロイス達を助けたのが織田信長だった。義昭を奉じて上京した信長にフロイスは謁見、信長はキリスト教の布教を認める。信長は南蛮貿易によって火薬の原料の硝石などを調達することや(硝石だけでなく鉛も調達していたことがNHKスペシャルで言われていた)、仏教勢力への牽制としてキリスト教を考えていた。
こうしてフロイスは畿内での布教活動を広げる。こういう経緯があったことから、フロイスは信長のことについては絶賛している。しかし信長が岐阜城に引き上げると、法華宗の高僧の日常が朝廷に働きかけてキリスト教徒の追放が行われることになる。そこでフロイスは岐阜の信長に助けを求める。信長は朝廷と将軍宛の彼らの保護を求める朱印状をフロイスに与える。これでフロイスは難を逃れる。
しかし秀吉によってキリスト教は禁止されることに
フロイスは安土城についての記述なども残しているが、本能寺の変の発生で信長が亡くなったことでまた困難に直面することになる。信長に代わって天下を治めることになった秀吉は当初はキリスト教を黙認していたが、日本人が奴隷として売られているなどの話からキリスト教布教を禁じる。そしてついには26人のキリスト教徒が磔にされる事件までが発生する。フロイスは病身を押してこの殉教の記録を残したという。そして翌年にフロイスは亡くなる。なおフロイスは日本に対する膨大な記録を残したが、あまりにも詳細すぎるために出版はされないまま原稿が教会の火災で焼失してしまう。しかし写本がリスボンに残っていたことで、後に「日本史」が出版されるようになったとか。
以上、日本を訪れた宣教師、ザビエルとフロイスについて。まあ二人とも純粋に宗教的使命感から日本で感張っていたんだろうが、彼らの背後に控えていた勢力は日本侵略などの意図も秘めていたことから、秀吉がキリスト教禁止に至ったのもある種の必然だったと思われる。なおキリスト教徒は大坂の陣の背後でも暗躍していたという話はやはりNHKスペシャルでなされていた。しかし表立っての活動は島原の乱を最後にして後は地下に潜むことになる。
忙しい方のための今回の要点
・世界へのキリスト教布教を目論んでいたザビエルは、日本人が理知的で単一言語であることから布教の可能性を考えて来日する。
・最初は薩摩で布教するが、仏教との対立で上手く行かず、平戸や山口を経由して京で天皇に謁見することを考える。しかし京は荒廃していて天皇の権威も落ちていたことから断念、結局は山口を拠点にする。
・日本でキリスト教を広げるには、仏教と同様に中国から伝わらせた方が良いと考えたザビエルは明への布教を試みるが、鎖国のために入国できないうちに病で亡くなる。
・ザビエルが日本を離れた12年後にフロイスが長崎を訪れる。
・日本語や日本の風習を学んだフロイスは、三好長慶の許可を得て布教のために上京するが、間もなく三善義継らによる将軍暗殺事件の煽りを受けて堺に逃亡することになる。
・その後、義昭を奉じて上京した信長に謁見して布教の許可を得る。
・こうして畿内で布教を広げたフロイスだが、信長が本能寺で倒れたことで状況が変わってくる。
・秀吉は当初はキリスト教を黙認していたが、後にキリシタン追放へと舵を切る。結局はキリシタン26人が処刑される事件まで発生、フロイスはこの事件の記録を残してから病死する。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・まあ宗教的情熱ってのはすごくもありはた迷惑でもあります。なおフロイスの残した記録は戦国を研究する上での重要資料の一つでもあります。あくまでキリスト教徒としての目を通しているので、布教に協力的だった大名は持ち上げ、その逆だった者は鬼だ悪魔だと書いているというかなり偏ったところはありますが。ちなみに国内資料ではあまり良い話のない大友宗麟とかは、ベタ褒めされてます。
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