ご存知、水戸黄門の真実の姿
「この紋所が目に入らぬか」で全国の悪を成敗するご存じ水戸黄門だが、黄門様こと徳川光圀が実在の人物で、ただし全国漫遊は創作であるぐらいは知っている人も多いだろうが、では光圀がどのような人だったかとなれば知らない人が多いだろう。と言うわけで今回は徳川光圀がテーマ。とはいえ、実はこのネタはこの手の番組では定番中の定番である。
光圀は徳川御三家の一つ、水戸家に生まれる。水戸家は紀州や尾張に比べると格では劣るが、藩主は江戸に常勤しており、将軍にもしものことがあった時にはその代行をすることになっていたという。だから「天下の副将軍」なんだそうな。もっとも副将軍という役職は存在しなかったし、そういう立場の人ならなおのこと全国漫遊なんてしていられるわけがない。
後継ぎに選ばれたものの放蕩していた若い頃
光圀の父・頼房は家康の11男であり、光圀は家康の直系の孫ということになる。だが実は望まれない子であったという。母の久子が妊娠すると頼房は家臣の三木之次に「堕胎させよ」と命じたという。これは久子の身分が低かったからと言われている。しかし三木は久子を出産させると密かに光圀を自分の子として養育していた。光圀が藩主のこと認められて水戸城に入ったのは5才の時だという。そして後継ぎを決める時に家臣の中山信吉に選ばせたところ、一番堂々とした態度をしていたということで光圀が選ばれたという。そして光圀は後継者としてスパルタ教育をされたのだが、それが祟ったか、思春期に入った頃に見事にグレたようである。いわゆる傾奇者になってしまって遊び歩いていたらしい。その頃の光圀はというと、遊郭で遊ぶわ、盗みはするわ、挙げ句は無宿人を殺人までしてしまったらしい。
もっとも光圀がこのような状態になったのは、兄に対する負い目があったという。実は光圀が後継者になってから、6才上の同母の兄がいたことが分かったのだという。光圀としては兄を差し置いて自分が後継者になってしまったという負い目を感じていたのだという。ただこの兄がよく出来た人で、光圀に対して敵意を見せることなく鷹揚に接したという。だから光圀もこの兄を非常に敬愛していたという。そして18才の時、史記を読んだ光圀は伯夷と叔斉のエピソードに感動し、自らの不甲斐ない行動を反省して勉学に励むようになったという。
やがて光圀が2代藩主に就任することになるが、その時に光圀は兄の子を自分の養子にしたいと申し出たという。自分の後をどうしても兄の子に継がせたかったらしい。光圀はこうして34才で藩主に就任する。
藩主となって善政を行う
藩主となった光圀は、笠原水道の整備(飲料水不足の解消)、共同墓地の造成(葬儀費用の軽減)、年貢の決定を群奉行から村役人に移管(庶民を信じて経費を削減)、老人や身寄りのない者などへの食料の支給などの庶民のための政策を実施。さらには晩年には「家庭の医学書」のような文書を配布して家庭で治療が出来るように下という。こうして名君としての評判が全国に広がっていった。
なお千寿会という会合を開き、他藩の藩士から庶民まで身分を問わず交流したという。なおこの会には裏の顔もあり、実は生類憐れみの令アンチの会でもあったという。光圀は生類憐れみの令を公然と批判しており、綱吉に30匹の犬の毛皮を送りつけたというエピソードもある。さらに鷹狩りなども続けていたという。あの悪法で苦しんでいた庶民は光圀こと自分達の味方と讃えた。
光圀は63才の時に家督を兄の息子である綱條に譲って隠居する。隠居の理由は「健康上の理由」となっているようだが、これは綱吉からの圧力があったとも言われている。隠居した光圀は水戸藩北部の山間に立てた西山荘に移り住む。ここで質素な生活を送ったという。
なお水戸黄門と言えば印籠だが、時代劇で使われた紋は実は水戸家のものでなく将軍家のものだという(葉の枚数が違うらしい)。ちなみに庶民が紋を見ただけで誰だか分かったのかだが、当時は武鑑といった家紋などを記した紳士録が出版されており、これが大名行列見物のガイド本などになっていたとのことなので、田舎の百姓はともかく、町民などなら分かっただろうとのこと。
晩年の光圀と助さん、格さん
また好奇心旺盛な光圀は日本で初めてラーメンを食べた人物としても知られている。放蕩三昧していた時にうどんの打ち方を覚えており、自分でうどんを打っては家臣に振る舞っていたという。番組では光圀が作ったラーメンを再現しているが、小麦粉にレンコンのデンプンをまぜてつなぎにしているのが特徴だという。なお光圀はオランダ製の靴下も身につけていたとか。また古墳の発掘調査なども行っている。
水戸黄門の漫遊記は既に江戸時代に出版されていたが、歌舞伎で演じられたのは明治10年になってからで、助さんと格さんが登場する形になったのは明治20年以降だという。ではこの助さんと格さんのモデルであるが、大日本史の編纂に関わった中の佐々介三郎と安積覚兵衛だと言われている。つまりは二人とも学者である。このうち佐々介三郎は資料の収集のために西国を回ったりしており、その時に資料拝借の令を光圀が手紙で送ったりしていたので、全国に光圀の手紙が行き渡ることになって諸国漫遊エピソードになったのだという。
しかし光圀67才の時に殺人事件も犯しているという。腹心の家老の藤井紋大夫を手打ちにしたのだという。小姓から家老に出世した紋大夫であるが、増長が目立つようになったことから光圀がなくなく処分したのだという。そして光圀は73才でこの世を去っている。なおライフワークとして手がけていた大日本史が完成したのは明治になってからである。
と言うわけで水戸黄門こと徳川光圀ですが、当然ながら水戸一番の有名人で、駅前には助さん、格さんを引き連れた銅像が立っております。時代劇には何度も登場しておりますが、私の世代では東野英治郎のイメージが強いです。もう少し若い人なら西村晃でしょうか。今時の若い人なら里見浩太朗のを知ってるかどうかというところでしょうかね。なお私の世代では里見浩太朗と言えば黄門様でなくて助さんです。助さんが黄門様に昇進したということで、おかげで里見浩太朗の黄門様はやたらに強そうです。やはり時代劇の所作が身に染みついている人ですから、腰高の助さん格さんよりもはるかに強そうだったのを覚えてます。当時よく言われていたのは、この黄門様だったら「助さん、格さん、やっておしまいなさい」でなく、「助さん、格さん、下がってなさい」と言うんじゃないかってこと。
その黄門様ですが、歴史的に見た功績はやはり大日本史の編纂でしょう。江戸城の大火で古文書が失われたことに衝撃を受けて取りかかったと番組では言ってましたが、そもそも水戸藩は学問に熱心な藩でした。光圀がその体制を作り上げたと言うことでしょう。また水戸藩主は天下のご意見番的に将軍に対しても口出しするというようなところも光圀の頃からだろうと思います。とにかく綱吉の生類憐れみの令に関しては、確かに綱吉は綱吉で思うところはあったらしいですが(犬を尊ぶわけでなく、戦国の殺伐とした気風を改めたかったのだと言われている)、光圀は「犬が人間よりも大事にされるなんて、そんなバカなことがあってたまるか」とばかりに真っ向から反対したようです。若い頃傾いていただけあって、さすがにそういうところは「べらんめぇ」だったんでしょう。
忙しい方のための今回の要点
・水戸黄門こと徳川光圀は水戸藩の跡継ぎに指名されるが、若い頃は傾奇者であり放蕩三昧の生活を送っていた。これには実の兄を差し置いて後継ぎになったことの負い目があったという。
・しかし18才の時、史記の伯夷と叔斉のエピソードを読んで行いを改める。そして兄の子を養子にすることを頼んでから34才で二代目藩主となる。
・藩主となった光圀は、水路の整備や貧民救済などの善政を施し、名君として全国に知られるようになる。
・また庶民を苦しめていた生類憐れみの令に真っ向から反対し、綱吉に犬の毛皮を送りつけることまで行っている。
・63才の時に隠居するが、これは綱吉からの圧力によるとされる。
・光圀は好奇心が強く、日本で最初にラーメンを食べた人物としても知られている。
・助さん、格さんのモデルは、大日本史編纂に関わった学者の佐々介三郎と安積覚兵衛だと言われている。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・遠山の金さんにしてもそうですが、やはり若い頃に庶民のことをよく知っていた者が、後に統治者の側になった時に名君になっているんですよね。やはり庶民の実情を知らずにまともな政治は出来ないと言うこと。そう言う意味では、金持ちのボンボンの苦労知らずで庶民を見下して育った二世政治家がまともな政治など出来ないのも当然というもの。
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