教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

2/8 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「不屈の探検家!間宮林蔵~世紀の大発見の軌跡」

若い頃から測量好きな探検家だった間宮林蔵

 樺太を探検して、樺太が島であることを証明した探検家・間宮林蔵の生涯。

f:id:ksagi:20210211122232j:plain

間宮林蔵

 間宮林蔵はそもそも武士ではなくて常陸国の農家に生まれたという。しかし幼い頃から算術が得意で、竹竿を使って木の長さや太さを測定したり川の深さを測定したりという変わった遊びをしていたという。また探検精神も旺盛で、一人で夜に筑波山を登ったこともあるらしい。また林蔵には「偉くなりたい」という願望も強烈にあったという。

 ある時、近くの川でせき止め工事が行われたのだが、流れが速くて工事は難航していた。しかし林蔵が川の地形について役人に進言したことでたちまち工事ははかどることになったという。この時の役人の勧めで、林蔵は江戸に出て測量家・村上島之允の元で学ぶことになる。これが1795年、林蔵が16才の時だという。

 

村上と共に蝦夷地の測量に派遣される

 この頃、日本周辺には異国船が頻繁に現れるようになっていた。蝦夷地にもロシア船が現れるようになっていたという。そんな中で林蔵は村上島之允の元で測量技術を学んでいた。そんな時に村上に蝦夷地の調査が命じられたことで林蔵も従者として同行することになった。ロシアの脅威を身近に感じるようになっていた幕府は、蝦夷地の地理を把握しておく必要があったのである。また松前藩の圧政に虐げられていたアイヌがロシア人と手を組むことを恐れていたという。そこで蝦夷地の太平洋岸から択捉島までを仮の幕府直轄地として調査団を送り出すことにしたのだという。

 林蔵はそこでアイヌの文化や蝦夷地の自然に触れるが、やがて冬になると寒さと野菜不足で体調を崩してしまう。そんな時、アイヌの人が魚や昆布で厳しい冬を越すことを聞き、林蔵もそれに倣ってみる。するとみるみる回復したという。それ以来林蔵は、アイヌと積極的に接触して彼らの文化や知恵を学んだという。また函館で伊能忠敬と出会い、すっかり心酔して子弟の交わりを結んだという。

 そんな林蔵は択捉島でロシア軍の攻撃に遭遇する。日本軍は一方的に敗北、林蔵は抗戦を主張したが下っ端の意見など通らず、奉行所のある函館まで撤退となる。

 

次に樺太の調査を命じられる

 しかしこの事件が林蔵の転機となる。実はこの事件の前に幕府は蝦夷地全体を幕府の直轄地として最上徳内らに樺太の調査を命じていた。最上は蝦夷地を8回も訪問し、樺太探検も経験していた専門家だったのだが、択捉事件発生で幕府は方針を変更、樺太調査を若い林蔵と松前奉行所の下級役人の松田伝十郎に命じる。これは最上徳内は普請役であり、最上が出向くとなるとそれなりの人数の調査団となるので目立ち、ロシア側を刺激する可能性があると恐れたのだという。そこで「軽きもの」として林蔵らが選ばれたのだとか。

 林蔵らに与えられた使命はまず樺太が半島か島かを確認すること。ユーラシア大陸と樺太との間の海峡は水深が浅いので大型船が入れず、そのために未だに島か半島かが確認できていなかったのだという。さらにはこの地域をどこの国が支配しているか、その辺りでどんな民族がどのように暮らしているかの調査が命じられた。樺太南部にはアイヌが暮らしているのは分かっていたが、北部にはどのような民族が暮らしているかは不明だったのだという。これは領有権に絡む問題であった。

 

樺太の最初の調査は中断を余儀なくされる

 1808年4月13日、松田伝十郎と共に宗谷岬を発った林蔵は樺太南端の集落シラヌシに到着、ここから伝十郎の提案で伝十郎が西岸ルート、林蔵が東岸ルートに分かれることになった。二人が無事に樺太の北端で合流できれば樺太が島であることの証明になるという目算だった。なお前進が不可能になった時には、陸路でもう一方のルートに合流するという取り決めになっていた。

f:id:ksagi:20210211122627j:plain

樺太の地図

 林蔵は現地のアイヌ人をガイドに雇って、チップという丸太船で東岸ルート沿岸を北上することにする。翌日にクシュンコタン、さらに翌日にホロアントマリに到着の後、チップを担いで陸路で移動した。集落などがない時には白樺の皮で作ったテントで夜を過ごし、食料は現地で漁で入手したマスやアザラシんカワウソなどを水煮にして食べるというハードな調査行だったらしい。5月2日にナイブツに到着、ここから先が未知の領域になるという。そして5月21日に北知床岬に到着してオホーツク海に出るが、ここから急に海が荒海となり、チップでの北上が不可能になる。やむなくこれ以上の北上を断念した林蔵は、一旦マーヌイまで戻り、ここから陸路で樺太を横断して10日で海岸のクシュンナイに到着、そこから急いで北上して、2週間後にノテトで伝十郎に合流する。そこで林蔵は伝十郎に「この先のラッカまで行って樺太が島であることを確認した」と告げられるのだが、実はこれはラッカの住民から「ここから6日ほど船で北に進むと樺太の東に出られる」という話を聞いただけだったという。実際のところはここからは水深が浅くなったために先に進めなくなったのだという。だから伝十郎は林蔵に「ここから一里で先に進めたらお前の手柄だ」と言ったという。林蔵は先に進みたかったのだが、ここは先輩の顔を立てて一旦シラヌシに戻る。

 

自ら志願して再度の調査に出向く

 しかし宗谷に戻った林蔵は函館からやって来た奉行達に「すぐに引き返したい」と直訴して単独で再び探検に向かうことになる。西岸ルートを1ヶ月半かけて北上した林蔵はラッカの手間前のトッショウカウまで行ったが、ここから急激に寒さがつのったことで同行していたアイヌの人々にこれ以上の北上を拒否される。樺太の冬の襲来だった。やむなく林蔵は南下してトンナイで冬ごもりをする。年明けの1月に再出発して4月9日にようやく北部のノテトに到着するが、ここで海面の凍結で足止めを食らう。氷が溶けるのを待って1月ここに滞在する。

 なおこの地にはニヴフと呼ばれる民族が独自の文化を形成していたという。ニヴフは女尊男卑の社会だったので、林蔵は女性に話しかける時に大変に気を使ったという。また鮭の革の衣服を身につけ、女性が子供をブランコのような台に立たせてあやしているのには非常に驚いたという。

 5月に再出発する時に林蔵はここで丸木舟のチップから、ニヴフが使用してたサンタン船というもっと大きな船に乗り換える。サンタン船は鮭の皮を帆にした帆船だという。より現地にあった船を使用したのだ。そして新たに水先案内人を雇い入れて、5月8日にノテトを出発する。そして海を北上すること4日、ナニヲーまで到達したところでそこから先はオホーツク海が広がることを確認したのだった。これで樺太が島であることを確認した。ちなみにこの後、林蔵はユーラシア大陸に渡ってアムール川流域の探検まで実施している。そこで清朝の役人と筆談で交流し、この地域には清朝の支配が及んでいることを確認したという。これで林蔵は幕府から命じられた情報収集をすべて果たしたことになる。

 

シーポルト事件への関与

 なお以前にヒストリアのシーボルトの回で「シーボルトが国外追放になったのは林蔵のせい」という話が出ていたが、この番組でもそれが登場。つまりはシーボルトから送られた荷物を中身を確認せずに決まり通りに勘定奉行に届けたところ、そこから高橋景保がシーボルトと通じていることが分かり、内定の結果彼がシーボルトに地図を渡したことが発覚してしまう。その結果、高橋は捕らえられて獄死、シーボルトは国外追放となる。林蔵は密告者として彼らを慕っていた蘭学者達に非難されたという。しかし皮肉なことに、間宮の名を世界に残したのはシーボルトである。彼が樺太が島であることを記した書物に「間宮の瀬戸」と記し、それからここが間宮海峡で定着することになった。

tv.ksagi.work

 

 樺太探検で名を馳せた間宮林蔵であるが、やはり探検の原則である「その土地に一番詳しい者に合わせる」という鉄則を守っていたことが良く分かる。実際に南極点到達に成功したのは最新鋭装備を揃えたスコットでなくて、エスキモーの技術を参考にしたアムンゼンだった。最初の樺太探検ではチップで北上に挫折したのだが、そこでニヴフの文化を取り入れてサンタン船に乗り換えたのは英断だろう。

 シーボルト事件に関しては、ヒストリアの方でも言ったが、やはり林蔵は探検家でありながら役人でもあったんだろうと思われる。帰国後も異国船の調査などで各地を飛び回っていたとのことで、幕府の役人としての立場が濃厚で、また本人もそのことに誇りを持っていたのではないか。実際に幕府の隠密としての行動をしていたみたいだし。だから幕府に対する忠誠度も高いし規則も遵守する。その辺りは学者としての好奇心が最優先で「まあこれぐらいは」とご禁制を破ってしまった高橋とはメンタリティに違いがあったような気がする。もっとも林蔵もまさかこういう結末になると分かっていたらもう少し躊躇ったとは思うが。

 

忙しい方のための今回の要点

・間宮林蔵は子供の頃から測量が好きで探検家気質もあり、また出世欲も強かったという。
・近くの川の治水工事に協力したことで、役人から勧められて16才で測量家の村上島之允に弟子入りする。
・その頃、蝦夷地にロシア船が出現するようになっており、村上島之允が蝦夷地の測量を命じられたことから林蔵はそれに従者として同行、アイヌの文化などを体験する。
・しかし択捉島でロシアの攻撃に遭い撤退することに。
・樺太の調査の必要性を感じた幕府は、ロシアを刺激しないように身分の低い者をということで、松前奉行所の下級役人の松田伝十郎と間宮林蔵を派遣することにする。
・林蔵は伝十郎と共に樺太を調査、ノテトまで行くがそこから北上できず、伝十郎の意見に従って一旦引き返す。
・しかし自分の目で樺太が島であることを確認したかった林蔵は、自ら願い出て再度樺太の探検に向かう。
・途中で冬の寒さや氷の海で足止めをされるが、林蔵はオホーツク海に至って樺太が島であることを確認した後、アムール川流域なども調査、この地に清朝の支配が及んでいることを確認する。
・後に林蔵は意図せずシーボルト事件に関与することになってしまうが、間宮の名を間宮海峡として歴史に残したのはその追放されたシーボルトである。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・それにしてもろくな装備もない中での極寒の中の探検ですから、命がけだし大変だったことは容易に想像がつきます。その中で林蔵を突き動かした動機はなんでしょうかね。功名心だったのか好奇心だったのか。だけど彼の脳内では多分ドーパミン出まくりだったんだろうな。
・まあこれで歴史に名を残したわけではあるから、幼い頃から思っていた「偉くなりたい」という願望は果たしたんだろう。結局は彼は死ぬまで幕臣として働いており、明治維新を見ずにこの世を去ったのはかえって幸いだったかもしれない。

次回のにっぽん!歴史鑑定

tv.ksagi.work

前回のにっぽん!歴史鑑定

tv.ksagi.work