教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

2/11 BSプレミアム ザ・プロファイラー「サムライ北の大地へ 榎本武揚」

蝦夷共和国を設立した榎本武揚

 今回は幕末に北海道で蝦夷共和国を設立して、最後まで新政府に対抗した榎本武揚について。彼はどういう原理に基づいてて行動したか、また明治以降新政府の役人となった榎本は何かを考えていたか。

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榎本武揚

 

海外に興味を持ち、幕府の留学生として渡欧する

 1986年、榎本釜次郎、後の榎本武揚は旗本の子供として生まれる。寺子屋でガキ大将だった釜次郎は父の円兵衛の影響を受けたという。円兵衛は幕府天文方で暦を研究、後に伊能忠敬の弟子として活躍したという。榎本家には地球儀があったので、幼い頃から釜次郎は世界の広さを感じていた。そして昌平坂学問所に入学した釜次郎はオランダ語を習得、ジョン万次郎の私塾で英語も学んだという。そして彼が18才の時に黒船来航が勃発、釜次郎は蝦夷地の調査に19才で参加する。函館に集結する外国の軍鑑に圧倒され、蝦夷の広大な大地に感動したという。

 22歳になった榎本は長崎海軍伝習所に行く。ここで一期上の勝海舟とも知り合う。そして航海術、蒸気機関の操作などを学ぶ。そして1年後、幕府の留学生派遣に選ばれる。そしてオランダに留学、ここで彼は国際法の存在を知り、これこそが西洋の脅威にさらされている日本に必要なものであると確信する。彼はオランダ人の教師に頼んでフランス語の本をオランダ語に翻訳したもらって学んだという。さらに留学生の重要な任務は幕府が発注した開陽丸を引き取って帰ることだった。開陽丸は当時の世界的にも巨大な部類の艦で、クルップ砲という最新鋭の砲を搭載していた。完成披露では榎本達はシャンパンで祝杯を挙げたという。またビールを気に入った榎本は、開陽丸で持ち帰ったとか。そして帰国した榎本は開陽丸の艦長である軍鑑頭に任命される。

 

帰国早々、戊辰戦争に巻き込まれる

 オランダから帰国した榎本は幕末の動乱に巻き込まれる。帰国数ヶ月後に大政奉還、王政復古と立て続けの事態が発生、幕府と新政府の対立が深まる。榎本は京に上る将軍の警護のために兵庫にやって来ていた。この時榎本は戦力が優位で勝つ自信があると家族に送っている。

 榎本の予想通り武力衝突が発生する。しかし兵力で優位だった幕府軍は、新政府軍が掲げた錦の御旗に動揺して敗北してしまう。翌日に兵庫でも海戦が勃発するが、兵庫沖から出航しようとした新政府軍の船を榎本の開陽丸がクルップ砲で砲撃、一隻を撃沈して他の船を敗走させる完勝を収める。しかし陸での敗北が響いて劣勢であった。しかし大坂城での軍議では徹底抗戦が決定される。しかし慶喜は側近を率いて開陽丸で江戸に逃亡してしまう。置いてけぼりを食った榎本は激しく失望したという。

 江戸に戻った慶喜は明治政府に対する恭順の意志を示す。これに対して榎本は抗戦派だった。結局は榎本の意見は通らず、江戸城は無血開城となる。翌月、勝の自宅を訪問した榎本は困窮する幕臣のために蝦夷地の開拓を訴える。勝はこれに反対したという。しかし榎本は徳川宗家が駿河に移されたのを見てから、仲間と共に開陽丸を出航させる。榎本は「王政復古と言いながら薩摩長州が好き勝手している状態で、幕臣は路頭に迷っているので救済を願い出たが許されなかったから、一戦を辞さぬ覚悟で江戸を退去する」と新政府に通告文を送ったという。また勝に対して謝罪の手紙を送っている。

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当時の最新鋭戦艦だった開陽丸

 まずは仙台を目指したが、間もなく仙台藩は降伏してしまう。ここで榎本は土方達と合流する。そして2800人ほどの仲間で蝦夷地に出発する。

 

蝦夷政権を樹立するが、新政府の攻撃に屈する

 警備の厳しい函館港を避けて北の鷲ノ木に上陸した榎本達は、五稜郭に当てて「上陸は戦闘のためでなく開拓のためなので認めて欲しい」と嘆願を送るが明治政府に無視され、結局は武力衝突となり五稜郭を占領する。さらに松前藩に共存共栄の意志を送るが、明治政府統治下の松前藩は拒絶、土方らが松前城を陥落させる。

 この間、榎本は外交を重視して函館の各国領事に自らの立場を説明した。外国が介入したら自分達の構想は確実に潰えるからだった。こうして各国に事実上の政権として認めさせ、中立を引き出す。こうして蝦夷政権が成立する。

 しかし間もなく運命が暗転する。榎本は江差方面の陸軍部隊の支援のために開陽丸を江差に派遣するが、そこで嵐のために開陽丸が座礁して沈没してしまう。榎本は蝦夷政権の支えである最大の軍事力を失ってしまったのである。一方の明治新政府軍は青森に兵力を集中し、函館への攻撃の準備を進めていた。

 この間、榎本は日本初の選挙を行って総裁に選出されるなど政治体制を整えていたが、開陽丸を失った蝦夷政権に対して諸外国が中立の立場を撤回、これで榎本らは追い込まれることになる。

 そして翌春、新政府軍は退去して函館を攻撃する。戦力的に劣勢だった旧幕府軍は追い詰められ、土方も戦死する。最早ここまでと考えた榎本は、降伏を拒否して留学時代から肌身離さず持ち歩いていた国際法の書物である海律全書を、戦火で失うわけにはいかないと新政府軍の総指揮官の黒田清隆に託す。榎本の志に心を打たれた黒田は榎本に酒とマグロを送ったという。

 榎本は自決の覚悟をしていたが、それに気がついた部下に止められる。部下は榎本を止めるために白刃を素手でつかんだという。部下の「ここで死ぬべきではありません」という言葉にハッとした榎本は降伏を決意したという。こうして箱館戦争は終結する。

 

明治になり、黒田の尽力で助命されて新政府に仕えることに

 東京で牢獄に入っていた榎本は、家族に向けてオランダ留学で身につけて石鹸の製造法、ブランデーの蒸留法、卵の人工孵化器の作り方などの知識を手紙で送っていたという。自分の死後に日本の産業のために役立てて欲しいと書き添えてあったという。そんな榎本に黒田清隆が救いの手をさしのべる。榎本を厳罰に処すべきという意見が強い中で、黒田は榎本は有用な人材であって殺すべきではないと、ついには自らの頭を丸めて訴えたという。そして榎本は3年後に赦免されることになる。

 北海道開拓の責任者だった黒田は、榎本が収監されていた頃から釈放されたら協力して欲しいと頼んでいたという。最初は新政府に仕える気はないと拒絶してた榎本だが、やがてそれを受け入れたという。幕府は滅んだが、国のために尽くすというように考えを変えたのだという。榎本は政府の役人として北海道開拓に貢献する。の後は外交官として海外を飛び回ったという。大臣まで上りつめた榎本は旧幕臣達の援助も忘れなかったという。暮らしに困る旧幕臣の子弟のために奨学金制度も設立したと言う。箱館戦争の時に自らの切腹を止めて指が不自由になった部下は自らの会社に招いたという。そして73才でこの世を去る。

 

 榎本は政治家であって、旧幕臣を救うために新政府との間の落としどころを探っている柔軟性があったと私は見ていたのだが、この番組によると私が思っていた以上にどうやら普通に武人だったようである。ただ、最後の瞬間で武人として美しく散ることよりも、降伏してその後に社会に貢献することに切り替えれたのは正解である。

 とにかく新政府の中には幕府憎しで凝り固まっていて、慶喜始め旧幕臣は皆殺しだぐらいの強硬な考えを持っていた輩もいたので、その中で旧幕臣達の処遇を確保するのは大変だったろうと考えられる。しかし当時の新政府はとにかく人材不足が著しいので、現実には榎本のような有為な人材を処刑している場合ではなかったのである。黒田の必死の説得でどうやらその辺りが通ったのは明治新政府にとっても正解であった。明治新政府も初期には内部で過剰な粛正に走るなど暴走気味の弊害が出たが、やがて実際に政権運営を初めてみると、統治機構が全く回らないという現実が見え始めたのだろうと思われる。何だかんだで、旧幕府方でも優秀なテクノクラートだった連中は、結局は明治新政府内で働くことになる場合が多いのである。

 

忙しい方のための今回の要点

・父の影響で幼い頃から海外に興味のあった榎本は、幕府の蝦夷調査に同行したことで函館港に終結する各国の船艦に圧倒されると共に、広大な蝦夷地に魅了される。
・その後長崎海軍伝習所に入るが、そこで幕府の海外留学の一員に選ばれる。留学先で榎本は国際法こそ日本が今後列強の中で生き残るために必要と感じて、それを熱心に学ぶ。そして幕府が発注していた戦艦開陽丸を受け取って帰国する。
・帰国した榎本は間もなく大政奉還、王政復古の動乱に巻き込まれる。鳥羽伏見の戦いでは海軍は完勝するが、陸軍の敗北で劣勢に。しかも慶喜が側近と共に江戸に逃走して新政府に恭順の意を示すことになってしまう。
・榎本は徹底抗戦を主張したが通らず、江戸城無血開城の後に同志を引き連れて開陽丸で蝦夷地を目指すことにする。生活に困窮する旧幕臣を救うために蝦夷地開発を願い出たが許可されなかったために一戦も辞さずの覚悟での出発だった。
・蝦夷地で五稜郭を占拠、松前藩にも勝利、榎本は諸外国に蝦夷政権の存在を認めさせて中立を引き出すことに成功する。
・しかしその後、江差で開陽丸が沈没、榎本は日本初の選挙を実施するなど政権の内部を固めるが、最大戦力である開陽丸を失ったことで諸外国が蝦夷政権を見捨てて中立を破棄、新政府軍も総攻撃を開始することになり、結局は函館は陥落する。
・榎本は切腹するつもりだったが部下に止められて思いとどまる。榎本を有為の人材と見ていた黒田清隆が自ら頭を丸めてまで榎本の助命を訴え、3年後には榎本は釈放され、北海道の開拓に従事した後のに外交官として諸国を転々とし、大臣にまで出世する。
・榎本は困窮する旧幕臣の子弟のために奨学金を設立する。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・この時期にはいろいろな人がいました。土方のようにあくまで最後まで武人として華々しく散って伝説となった人もいますが、それに比べると榎本はなかなかに地味な道を選んだことになります。ただし後の日本に貢献したという意味では榎本の方が働きは大きいです。逆に土方なんかは明治時代に生き残ってしまったら、生きる道がなくなってしまっていたでしょうね。

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