教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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2/15 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「玉の輿のお玉さん!将軍・綱吉の母 桂昌院」

綱吉の生母・桂昌院の玉の輿人生

 今回の主人公は、一説によると八百屋の娘と言われている身分から家光の側室となり、ついには将軍綱吉の生母とまでなった典型的玉の輿人生を送った桂昌院の話。

 後の桂昌院ことお玉は京の八百屋の娘だったと言われる。しかし父が亡くなり、母が取引先の武士の本庄宗正と再婚したことで武士の身分となる。そして本庄宗正が二条家に仕えていたことから、二条家と縁のあった公家の娘である永光院のお供で江戸に行くことを命じられる。

 しかし永光院が家光に挨拶に行ったところ、家光が永光院を気に入ってしまう。この時、男色家である家光が女性に興味を示さないことに困っていた春日局が、家光が女性に興味を示すように、家光が好みそうな女性を片っ端から大奥にスカウトしていた頃であった。そこで永光院を還俗させてお万の方として大奥入りさせる。このことによってお玉はお万の方の部屋子として大奥入りすることになった。

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春日局に見込まれて家光の側室に

 やがて家光に長男が生まれるが、病弱な長男一人では心許ないと感じていた春日局は家光の子をさらに産ませるべく、側室のスカウトに余念がなく、そしてお玉が目をつけられることになったのだという。そして春日局の見込み通り、お玉は大奥にやって来て2年後に家光の側室となる。

 玉の輿に乗ったお玉であるが、将軍の子を産まなければその立場は安泰とは言い難かった。しかも同じ町民上がりのお夏の方というライバルまでいて、うかうか出来ない状態だったという。しかしやがてお夏の方が次男を産み、さらに別の側室が三男を産む。家光の息子を産みたいと神仏に願いをかけるお玉。その甲斐あってか、ようやく彼女も家光の四男を産む。なお産まれる子供が男子かを占ってもらった時「そなたの産む子は天下を治めるお方になるでしょう」と言われたというエピソードがある。

 お玉の子である徳松は非常に聡明な子であったという。しかし家光は「徳松は聡明であるから、それを悟られぬように気をつけよ」とお玉に言ったという。子供の時に弟と将軍位争いになった家光は、長男の竹千代と四男の徳松の間で同じような争いが起こることを懸念したのだという。お玉は徳松を自ら養育し、さらには徳松には学問をさせたという。このことが後に母と子の絆を非常に強いものにすることになる。

 

思わぬ運命で将軍の生母となる

 家光が亡くなると、当時の風習に従ってお玉は大奥を離れて桂昌院と名乗って筑波山知足院に入って仏教に帰依する。家光の長男である竹千代が家綱として4代将軍に就任、次男の長松は綱重と名を改めて甲府藩主となり、四男の徳松は綱吉となって館林藩主となる。ただし綱吉は江戸・神田の館林藩上屋敷で過ごしていたという。一方の桂昌院は館林藩の下屋敷である白山御殿で綱吉の成長を見守っていた。

 綱吉は正室を迎えたがなかなか子が産まれないことを心配した桂昌院は、自分の侍女を側室として送り込み、綱吉の長男が誕生した。これで安堵した桂昌院であるが、思わぬ運命の変化が訪れる。将軍家綱が40才で持病の悪化で寝込んでしまうのである。家綱は身体が弱く後継ぎの男子がいなかったので、将軍の候補として家綱の弟が上がることになる。ここで次男の綱重は既になくなっていたことから、綱吉が将軍候補となることになる。しかし大老の酒井忠清が「綱吉には将軍として器量がない」と猛反対、朝廷から宮将軍を迎えることを主張する。これついては家綱が積極的に政治をすることがなく、実質的には老中が既に政治を取り仕切っていたので、酒井としてはお飾りの宮将軍の方が政治をしやすいという思惑があったのだろうという。しかしこれに老中の堀田正俊が真っ向から反対、さらに後継を綱吉にすると言うことで家綱から承諾を既に得ていたことで大勢が決する。こうして綱吉は家綱に呼び出されるとその養嫡子となり、2日後家綱が急死したことで綱吉が5代将軍となる。桂昌院は54才でついに将軍の生母となったのである。

 

綱吉を陰から支えた桂昌院

 将軍になった綱吉は、将軍就任に老中達が反対したこともあり、老中との間には側用人を立てて老中を遠ざける体制を取る。その綱吉を桂昌院は直接に江戸で支えた。桂昌院は綱吉の子を産ませるために大奥に女性を送り込むがなかなか子は生まれず、しかも嫡男の徳松がわずか5才で亡くなってしまう。

 これでショックを受けたのか桂昌院は食事を取らなくなるのだが、心配した綱吉が側近を向かわせたところ、桂昌院が語ったのは綱吉が徳松の家臣を不要になったと辞めさせたことに対する抗議だった。つまり桂昌院は綱吉が行った無体な仕打ちに対する抗議としてハンガーストライキを行っていたのだという。自らの過ちを悟った綱吉は徳松の家臣を幕臣に取り立てたという。

 この後、例の生類憐れみの令が発布されるのだが、これは「綱吉が世継ぎを得るには犬を大切にするように」との占いを信じた桂昌院が綱吉に勧めたという俗説があるのだが、それは今は否定されている。ただ仏教に帰依している桂昌院は殺人や捨て子が横行する殺伐とした世を憂いており、このことは綱吉の価値観にも大きく影響を与えている。生類憐れみの令には単に犬を大事にするというだけでなく、社会で弱者を救済するという社会福祉を唱えた側面があり、綱吉が桂昌院の気持ちを汲んで発布したものであるという。

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ただし幕府の財政を傾けたり、討ち入りの原因になったことも

 しかし桂昌院が各地の寺院の修理などを綱吉に依頼したことから、これが幕府にとって大きな財政負担となってしまったという悪弊はあったらしい。106カ所もの寺院を修復し、70万両(今の価値で約700億円)もの負担であり、幕府の財政は悪化したという。ただこの巨額の公共事業ばらまきが世間に好景気を読んで、元禄文化が花開いたという側面もあるとのこと。

 また桂昌院は赤穂浪士の討ち入りにも関係している。そもそも浅野内匠頭が仰せつかっていた勅使の饗応は、綱吉が桂昌院のために女性としては最高官位である従一位を授かるための根回しのための会合であり、この根回しを行っていたのが吉良上野介だった。この母のための大事な行事をぶち壊されたマザコン綱吉は、怒り心頭でろくな審議もしないままに浅野内匠頭を切腹させてしまったことが、あまりに不公平な裁きとして赤穂浪士の討ち入りにつながってしまったのである。

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 なお桂昌院はその後に従一位の官位を授かっており、綱吉の親孝行は実現している。桂昌院はその3年後に79才でこの世を去った。

 

 以上、ザ・玉の輿の桂昌院の生涯でした。綱吉を将軍にしたゴッドマザーという側面もあるので、綱吉は母思いと言うよりも明らかにマザコンでした。殊更に悪意をもった人ではないでしょうが、我が子可愛さで暴走した部分もあったのではないかと思われます。

 綱吉がかなり評価の分かれる将軍ですが、かつて「犬を人間よりも上に置いたバカ将軍」から、近年は幕府に福祉の概念を初めて取り入れた名君と評価は変化してきています。ただ私の見るところ、綱吉の政策に関しては理念はともかくとしてどうも理屈倒れの部分も見られ、その辺りはひたすら座学ばかりをやっていた人という限界が垣間見えるような気がします。その辺りを一応町民出身である桂昌院がうまく補えていれば、綱吉も後々いろいろと言われない本当の名君になれたかもしれなかったのですが・・・。

 

忙しい方のための今回の要点

・京の八百屋の娘とも言われている桂昌院ことお玉は、春日局に見込まれて家光の側室として寵愛を受けることになる。
・そして家光の四男となる徳松(後の綱吉)を産むことになる。
・徳松は産まれながらに聡明であったが、長男の竹千代と将軍位争いになることを懸念した家光から「聡明さを隠すように」言われる。そこでお玉は徳松を自ら養育する。
・やがて家光が亡くなると、お玉は出家して桂昌院と名乗る。家光の長男の竹千代が家綱として4代将軍に就任、徳松は綱吉と名を改めて館林藩の藩主となる。
・しかし病弱な家綱が40才で持病で倒れたことで、弟の綱吉が将軍候補として浮上、大老の酒井忠清は反対するが、老中の堀田正俊が綱吉を後継する許諾を家綱から取っていたことで綱吉の将軍就任が決まる。
・将軍になった綱吉は老中との間に側用人を置いて彼らと距離を取るようになる。また桂昌院は江戸で直接に綱吉を支えた。
・綱吉の生類憐れみの令は占いを信じた桂昌院が綱吉に勧めたという俗説は間違いであるが、当時の殺伐とした世の気風を憂いていた桂昌院の考えを綱吉が汲んだものであるのは事実であるようである。
・桂昌院は各地の寺院の修理を綱吉に依頼したが、結果としてはこのことが幕府の財政に多大な負担をかけることとなった。
・また赤穂浪士の討ち入りは、桂昌院に従一位の官位を得るための根回しの会合をぶち壊されたことで怒り狂った綱吉が、ろくに審議もせずに浅野内匠頭に切腹を言い渡したことが原因となった。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・綱吉に対する私のイメージは、情もあって賢い人ではあるが、ヒステリーで頑固なところもある人というものです。政治家と言うよりも学者肌であったと言うところがこの人の限界だったと思います。実際は綱吉の理念に基づいて、現実の施策を実行できる優秀な側近がいれば理想的だったのですが、残念ながらそういう人材を得なかったようです。

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