教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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2/22 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「2・26事件 緊迫の4日間」

青年将校達が決起した2・26事件

 暴走した陸軍の将校達が政府要人の暗殺テロに走った2・26事件。その背景と経緯を追う。

 事件は1936年2月26日、決起したのは歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、さらに近衛歩兵第3連隊である。主導したのは青年将校達。まず栗原安秀中尉率いる歩兵第1連隊の273人が総理大臣岡田啓介を狙って首相官邸を襲撃する。官邸を包囲した栗原達は護衛警官と交戦しつつ総理を探す。その時、一人の老人が中庭を逃げていくのを見つけた兵士が発砲、栗原中尉は兵士にとどめを刺させると部屋に飾ってあった写真と見比べて本人と確認する。そして総理官邸を占拠する。

 同時に中橋基明中尉率いる近衛歩兵第3連隊125人は高橋是清大蔵大臣を襲撃して殺害する。また安藤輝三大尉率いる歩兵第3連隊200人は鈴木貫太郎侍従長官邸を襲撃する。「話せば分かるから」と言う鈴木侍従長に対し、兵士は「問答無用」と発砲、こめかみと腹部を撃たれた鈴木侍従長は重傷を負う。安藤大尉はさらにとどめを刺そうとしたが、夫人に懇願されて止めたという。結局はこのおかげで鈴木侍従長は一命を取り止める。

 さらに天皇の側近である齋藤実内大臣が坂井直中尉率いる歩兵第3連隊215人に襲撃される。坂井中尉らは齋藤内大臣に40発以上の銃弾を浴びせて殺害する。この襲撃に参加していた安田優少尉と高橋太郎少尉は30人を引き連れて渡辺錠太郞教育総監の自宅を襲撃、渡辺教育総監は応戦したものの殺害され、その一部始終は娘が目撃していたという(過酷な話だ)

 

彼らを決起に向かわせたもの

 決起部隊はさらに警視庁や朝日新聞社、陸軍大臣官邸を占拠する。陸軍大臣官邸を占拠した彼らは、川島陸軍大臣の前で決起趣意書を読み上げたという。そこには現状の政治体制に対する不満が綴られていた。

 彼らの決起の理由には当時の社会情勢があると言う。当時の日本は昭和恐慌のただ中にあり、さらに東国の大凶作で国民は苦しんでいたのだが、政治家は財閥と癒着して私利私欲を貪るばかりであった(なんか今と似ているな)。そのような政治に強い不満を感じていたのと、さらに軍備縮小への気運が高まっていたことに対する不安もあったという(軍人流の保身である)。特に高橋大蔵大臣は「これ以上軍事予算を増やすことは出来ない」と発言していたという。軍備強化が続くソ連に対する脅威もあり、彼らは軍部中央を助けるために決起したという意識もあったという。政治家を排除して、天皇中心の昭和維新をなすというつもりがあったという。

 

生きていた岡田首相

 しかし実は既に計算違いが発生していた。彼らが殺害したのは岡田総理ではなく、その義弟で秘書官であった松尾伝蔵であった。二人は似ていると言われていた上に、確認に使用した写真の額の顔の部分にひびが入っていて認識しづらい状況だったらしい。

 松尾の機転で難を逃れた岡田総理は風呂場に潜んでいた。その後隙を見て女中部屋に移動、押し入れに身を隠していたのだという。襲撃の3時間後、もう一人の秘書官の迫水久常が総理の亡骸を確認するために官邸内に入った時、女中に「怪我はなかったか」と声をかけたところ、女中が押し入れを気にしながら「お怪我はありませんでした」と答えたことで岡田の無事を確信したのだという。決起部隊の包囲をくぐり抜けて宮内省にたどり着いた迫水は宮内大臣に総理救出のために近衛師団の出動を要請するが、近衛師団長にこのことを伝えると将官達の耳に入るかもしれぬが、彼らはどっちの味方か分からんから危険だと言われる。次に海軍大臣に救出の相談をするが、海軍と陸軍の戦争になったらどうすると断られる。結局は翌日に憲兵達が救出への協力を申し出てきたという。襲撃直後に現場に駆けつけた憲兵達は実は岡田総理の生存を確認していたのだという。そこで迫水は弔問客を官邸内に立ち入らせることを青年将校達に頼み込み、その弔問客に紛れさせて総理を救出する。

 

予想外に天皇が激怒した大勢が決する

 陸軍の上層部は予想外の事態に混乱していた。川島陸軍大臣招集の元で陸軍上層部で事態の収拾が議論されたが、皇居のすぐそばで軍事行動は避けたかったことから、ひとまずは説得で穏便にまとめるということが決められる。また上層部にはこの決起を利用して自分達の思い通りになる内閣を作ろうという思惑もあったという。そこで決起部隊に「決起の趣旨について天皇陛下のお耳にも届きつつあり、諸君らの行動が国を守るという熱い思いに基づいていることは認める」という陸軍大臣告示を決起部隊に届ける。青年将校達は決起の趣旨が認められたと沸き立つ。

 事態対応のために戒厳司令部が設置され、香椎浩平中将が司令官に就任する。香椎司令官は決起部隊に対して「戒厳部隊下に入り、麹町地区の警備に当たれ」と指示を下す。青年将校達を友軍として指揮下に置くということである。穏便に事態を収拾しようとしていたのである。また宮中でも侍従武官長で陸軍大将の本庄繁が天皇に対して決起部隊の思いを理解してもらおうと働きかけていた。しかし自らの側近を殺害されたことに怒り心頭の天皇は、彼らの決起を自らに対する攻撃に等しいとして、自ら近衛師団を率いて鎮圧に当たるとまで言い出したという。青年将校達は天皇の思いを読み違えていたのである。

 そりゃそうだろう、彼らは齋藤内大臣らを君側の奸と言った見方をしていたかもしれないが、天皇からしたら気心の知れた側近だったのである(そうでなかったら流石に排除されている)。この辺りに既に彼らの視野狭窄ぶりが覗える。また天皇を自らに対する理想的な君主という一種の神聖化もあったろう。

 

乱の終息

 さらに首謀者の間でも考えは一枚岩でなく、中橋基明中尉は決起趣意書を事件前には見てもいないことを裁判で語っており、決起の日程なども中心メンバーの間で意見の相違があったという。つまりはわけの分からないままに巻き込まれた者も少なくなかったのだという。また決起部隊の半数以上の指揮官であった安藤輝三大尉は最後まで慎重派であり、磯部浅一に必死の説得をされてやむなく参加したというところがあり、決起部隊の内実はバラバラであったという。

 そして事件発生から3日後、天皇から「決起部隊は所属部隊に帰れ」との奉勅命令が発せられる。自分達は官軍だと思っていた決起部隊は、一転して反乱軍とされたことで決起部隊は動揺する。同時に彼らの行動に理解を示していた上層部も手のひらを返す(いかにもである)。

 戒厳司令部は2万人の鎮圧部隊を送って完全包囲すると共に、撤退の説得を行うが青年将校達の半数以上が拒否した。しかし捕らえた兵士達が何も分からないまま巻き込まれていたことを感じた陸軍省新聞班の大久保弘一少佐は、何も知らない兵士達に現状を伝えるビラを撒くことを思いつく。そして有名な「下士官兵ニ告グ」のビラが3万枚撒かれる。そこには直ちに原隊に戻らないと逆賊になると記されていた。さらにラジオやアドバルーンでまで呼びかけたという。これが部隊の撤退を促すことになる。

 結局は決起した青年将校達は非公開の軍法会議で裁かれ、多くが死刑を命じられて一週間後に刑が執行される。軍として臭い物に蓋の意識があったのだろう。しかしこのことが結局は政府に対しての威圧になったことから、ここから軍の暴走が激しくなり、ついには戦争に突入して日本は滅亡の淵へと陥るのである。

 

 決起した若者たちは彼らなりに純粋な気持ちがあったのだろうが(政府乗っ取りを目指す野心家が率いるクーデターと違い、彼らの中に自らの権力獲得を目指していた者はない)、結果としては彼らが信じていた救国ではなく、亡国の寸前にまで陥る結果につながったのは皮肉としか言いようがない。若さ故の視野狭窄もあるが、そもそも現状に対する不満が中心であり、大きなビジョンを描いての決起ではなかったというところが実態なんだろう。実際にそのようなビジョンを持っていた理論家のような者が見られない。天皇の親政をと考えながら、そもそもその天皇と全くつながっていないのだから無謀というもので、その結果が天皇の怒りを買ってしまうというどうしようもない失敗につながっている。

 結局はタヌキである上層部にうまく使い捨てにされてしまったというところがある。何だかんだで軍の上層部は自らの責任を逃れた上に、結果としては影響力の強化という焼け太りをしたのであるから、そういったタヌキに踊らされた彼らは不憫とも言えよう。

 なおこの後に戦争に突入すると、若者たちはさらに古狸達の権益の死守のために、特攻などで無駄死にさせられることになるのである。戦争とは命の浪費とはよく言ったものであるが、その命を浪費させられる者と、逆に浪費させて自らが肥え太る者もいるというのが現実である。敗戦国の日本でさえ、結果として肥え太った者はいるのであるから、勝った国になると言うまでもない。そりゃアメリカがいつまで経っても戦争を止められないわけでもある。

 

忙しい方のための今回の要点

・1936年2月26日、歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、さらに近衛歩兵第3連隊の将兵が決起して首相官邸などを襲撃する。これが2・26事件である。
・決起部隊は高橋大蔵大臣や齋藤内大臣を殺害、鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせる。さらに警視庁や新聞社なども占拠する。
・陸軍上層部は彼らを説得して事態を収拾しようとすると共に、彼らの決起を利用しての権限拡大をも目論んでいた。
・しかし自らの側近が殺害されたことに天皇が激怒、自ら近衛師団を引き連れて鎮圧に向かうとまで発言したことで大勢が決する。
・当初は決起部隊に理解を示していた上層部も手のひらを返して鎮圧に動くことになる。また参加した兵の大半が事態を理解しないまま巻き込まれていることが分かったことから、「下士官兵ニ告ぐ」のビラをばらまいて原隊復帰を促す。
・この結果、決起部隊は撤退して乱は収集される。
・首謀者達は非公開の軍事裁判で厳罰に処され、一週間後に直ちに処刑が実行された。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・2・26事件って、若さの暴走のようなもので結局は何を目指してたのかがハッキリしない点があるんです。革命でもなければクーデターでさえもない。結局は単なる要人暗殺テロだったということになります。テロでは世の中は動かないという話もありますが、皮肉なことにこのテロは、恐らくは彼らが望んでもいなかっただろう方向に世の中を向かわせてしまうことになりました。

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